第4話 ジャージでは出かけない

『ジャージでは出かけない』



 部屋着としてジャージを着ることはあるが、ゴミを捨てに行く程度ならともかく、建物から出る時、私はジャージやスウェットで外出することはない。下駄の男の作務衣は、普段着なのだろうか。その着こなしは凛として揺るぎがない。きっといつもこの格好にちがいない。一体何者なのか?


 二人は無言で土砂降りの中を歩いた。


 下手なことはしゃべりたくない。痛くもない腹を探られたくもない。


 カラン、コロン、カラン、コロン


 下駄の男は、まるで1人で歩いているかのようにどんどん前に進む。それを追いかけるようにして、傘をかざしながら着いて行く。


 この男いったいどこへ?


 店の前の道路は決して広くはないが、車の通りも多くバスも通っている。しかし、この道路を渡り、すこし奥に入れば閑静な住宅街。街灯も少なく、通りを曲がるほどに人通りは少なくなる。こんな雨であれば、なおさらだ。


 レンタルショップから道路を渡り、30メートルくらい進んだところを左へ曲がる。


 あー、帰り道とは逆方向じゃないか。


「こっちかな」


 下駄のとこが呟く。妙なことを言う。自分の家に向かっているわけではないのか。


 しかし、その疑問はすぐに払拭された。通りに入ってすぐに、私は目の前の異変に気付いた。


 誰か、倒れている!


「人が……、倒れて……、あれは!」


 私は思わず声を詰まらせた。その人影には見覚えがある。さっきの傘を盗んだ男だ。


 下駄の男は、まるで私のことを気にする素振りもなく倒れている男の方に歩いて行く。


≪カラン、コロン、カラン、コロン≫


 男が倒れている通りは、アパートが立ち並んでいるが、ここの住民以外は用がなければ誰も通らない道だ。私も長く近くに住んでいるが、数えるくらいしか通ったことがない。道路の真ん中に傘を盗んだ男が倒れている。そのすぐ横に盗まれた傘が、取っ手を上にして堕ちていた。


「大丈夫か?」


 こんなに複雑な気分でこの言葉を他人にかけたのは、たぶんこれが最初で最後だ。


「車に……、ぶつけられて……、チッキショー……。逃げやがった……。あの車……」


 それを言うなら 『畜生(ちくしょう)』 だ。それにお前、やばいぞ。傘、盗んだだろう、バレてるぞ!


 傘を盗んだ男は、どうやら足を痛めているらしく、うずくまりながらうめいていた。


「傘は返してもらうぞ」


 なんなんだよ。この下駄の男は!


 まるで、まるで、こうなっていることがわかっていたようじゃないか!


「他人様の傘を無断で持ち去るようなことは、感心せんなぁ」


 謝れって、謝っちまいな。この下駄の男、只者じゃないぞ。


 傘を盗んだ男は、何が起きたかわからないという顔をして、私と傘の持ち主を見上げている。


 私を見たって何にもならいぞ。


 私にだって、何が起きているのか説明できないのだから。


「2度目は無いぞ、2度目は」


 傘を盗んだ男は、ようやく事の顛末を理解したのか、或いは傘の持ち主の顔に、何か恐ろしいものでも見たのか、足を引きずりながら、そこから10メートルも離れていないアパートの一室へ駆け込んで行った。


「さてな、これで懲りてくれれば、よいのじゃが……」


 下駄の男は頭をかくような仕草をすると、禿げ上がった頭についた水滴を拭い去った。


「ふむ、最近の若い者は悪いことをしたら、バチがあたるということを知らん」


 それは、そうかもしれないけど、それではまるであんたが……。


 下駄の男は、取り返した傘を手にして、くるくるまわしはじめた。骨が折れたり、傘が敗れたりしていないか確認しながら、何かブツブツとつぶやきだした。


「ブツブツブツブツブツ」

 よく聞こえないが、何か念仏のようなものか?


「ブツブツブツブツブツ」

 あれは、『印をきる』ってやつか?


 下駄の男は、なにやら右手の指先を口元にもっていき、指で何か文字を書くような動作をしている。

「これでよし、どれ、御主のを貸すんじゃ」

 何をする気だ?


 その男は私に取り返した傘を差し出し、代わりに私の傘を奪い取った。


「はぁあ」

 これは、まぁ、ベストではないが、流れにそった返事だった。


 愚鈍のようではあるが、『何をするんですか?』とか『いったいどういうことですか?』といった質問をするよりかは、間違った選択ではなかったと思っている。


「――この傘を――もの――をあたえん――持ち主――」

 少し耳がなれたか、一部聞き取れたように思えた。


「さて、ちょっと失礼」

 不意に下駄の男が私の頭に手を伸ばしてきたので、私は当然の反応、首をすくめて、この手をよけようとした。


「大丈夫、1本だけだ、すぐに終わる」

 いや、そういうことじゃなくて、何をするのかわからないのが不安なのだが。


 下駄の男は私の髪の毛を、一本だけ抜き、傘の骨の部分に結びつけたようだった。

「これは今日の礼じゃ。ほれ」


 礼を言われるようなことは、逆にしてないかと思うのだが。


 下駄の男は、私に預けた傘を奪い取り、何やら細工をした私の傘を差し出した。私がその傘を受け取ると、急いでいた理由を思い出し「おう、そうじゃ。こうしてはおれん」と言って、右手でおでこのあたりを強く叩くと、傘を広げて雨の中に駆け出していった。


≪カラン、コロン、カロン、コルン、カルン、クルン≫


 一本の細工された傘と、いくつもの疑問、心の引っかかりを残して、下駄の男は闇に消えて行った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る