第2話 ビニール傘は使わない

<9時30分>

 本当に今日は雨が降るんだろうか? 朝だというのに陽射しはじりじりと容赦なくアスファルトに照り付けている。


 まったく、なんて天気だ。今日は外に出る予定がなくてよかった。


 今は7月。梅雨明け宣言がされたものの、まるでスコールのような激しい雨が降ることが度々あった。それをうけて異常気象、地球温暖化の影響だと最近のニュース番組で話題になっている。オフィスでもこの手の話は挨拶の一つのようになっていた。


 今日も暑いね。

 でも、夕方から雨らしいよ。

 えー、どーしよう、洗濯物干したままだ。


<12時30分>

 いつもの仲間と昼食を取りながら、「あの」DVDの話題。


 あれは、ちょっと、ひどいというか、やっちゃったぁって感じだったよ。

 へぇー、なんかCMとかだと面白そうだったのにねー。

 いやー、結局面白いシーンって全部CMでやっているところでさぁ……


<15時30分>

 うわー、本当、真っ暗だね。雷鳴っているよ。

 おーい、落雷あるかもしれんから、データのバックアップ忘れんなよー。

 あー、業務部の連中にも伝えておいてくれー、どうせ言っても、無駄だろうけど。


<16時20分>

 いやー、降られちゃたよー。

 えー、傘持っていかなかったんですかぁー。

 何? 雨が降る予報だったの?

 ぜんぜん人の話聞いてないでしょう?


<19時10分>

 まだやまないなぁ。雨。

 あれ、傘がない! だれか持って行ったぁ?

 えー、部長じゃないんですかぁ、さっき弁当買いに行きましたよー。

 ほんじゃぁ、オレ先帰るわ。

 どうする? メシ、一緒にいく?

 あー、ちょっとまだぁ、先方からの連絡待ちなんで。

 あっそう。じゃぁ、しょうがないね。おつかれー。


 外は時折、強い風とともに、稲光があたりを照らしている、大粒の雨が傘を直撃する。

 まぁ、正解かぁ。


 『ビニール傘は使わない』


 一旦家に帰ったら、外に出ようなんて気にはなれないようなひどい土砂降りだ。オフィスは駅前にあるので、食事をする場所には困らない。


 今日は中華にするか。


<19時40分>

 飯食ったらやむかなぁと思ったけど、こりゃひどいな。

 ふぅ、行くかぁ。


 まっすぐ帰れば、家まで10分、レンタルショップは帰り道のルートから少し外れているが、それでもせいぜい5分くらいしか変わらない。いつもはまっすぐ行く交差点を左に曲がり、ひとつ先の信号のところが目的のレンタルショップ――旧作セールの旗が見えてきた。



 ふと、私の耳に、その場にそぐわない音が聞こえてきた。


≪カラン、コロン、カラン、コロン……≫


 下駄だ。

 ……このご時世に下駄?


 その音はあっという間に私の後ろから横、そして前へ。


≪カラン、コロン、カロン、コルン、カルン、クルン……≫


 ドップラー効果だ。思わずワタシは噴き出しそうになった。


 音の主は、紺か、黒の作務衣を着ていて、コンビニなどでは売っていないような立派なこうもり傘をさしていた。音の主は、傘を進行方向に傾け背を丸めながら、およそ下駄を履いているようには見えないほど、軽快に走り去っていった。


 いまどき珍しい、下駄を履いた男。


 最初、随分と大きな傘だと思ったが、すぐに傘をさしている下駄の男が小柄であることに気がついた。下駄の男はひとつ先の信号のところで不意に立ち止まった。下駄の男は傘を閉じて、丁寧に傘を畳んで店の外の傘立てに置くと店内へと入っていった。下駄の男の手にはレンタルショップの貸し出し袋が握られていた。どうやら私と同じようにDVDかCDを返しに来たらしい。店の明かりで男の作務衣が紺色だとわかった。何か他に、急いでいる用事でもあるのだろうか、ひどく慌てている様子に見える。


 いや、単にせっかちな年寄りなのか……。


 下駄の男が店に入ったすぐ後に、すれ違うように1人の男が店から出てきた。男は、雨の降る空を恨めしそうに睨みつけると信じられない行動にでた。ツバの長い帽子を深く被り、Tシャツに短パンというラフな格好。おそらく近所に住んでいる二十歳前後の学生かなにか。彼は先ほど店に駆け込んできた下駄の男の傘を手に取り、駆け足で店の前の信号を渡り、立派なこうもり傘を持ち去ってしまったのである。


「あっ」


 思わず声を上げてしまったが、その声は激しく降る雨音と、水しぶきを上げて走る車の走行音でかき消された……と思う。


 私には、どうすることもできなかった。あと数メートル前にいれば、注意ができたかもしれないし、男も私に気付いて、躊躇したかもしれない。あと数メートル後ろであれば、その光景を目撃することはできなかっただろう。


 しかし、私はそのどちらでもない、ちょうど真ん中に位置していた。しかも、このまま店に入れば、先ほど駆け足で入って行った下駄の男と鉢合わせになる可能性が高い。なんとも気まずい話である。


 だからといって、なんの遠慮をする必要がある?

 そしてなんの責任を感じることがある?

 よくあることだ。


 そんなことを考えているうちに、私は店の前に差し掛かろうとしていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る