勉強の日々


 勉強の日々が始まった。それまでとは比べものにならない量の勉強量が必要だった。

「第三次南部戦争、シカノ龍の開発、のちの一角龍、開発者ローヌ・ヌィッセオ……」

 この国の生物学は、初等科、中等科、高等科、専門考究科、博士科の五つにレベルごとに分かれていて、わたしのレベルはと言えばもちろん初等科だった。この時ほど自分が異世界から来たことを恨んだ時はなかった。わたしには勉強以前に、この世界の生物に対する子供でも知っているような常識すらなかった。そこからの勉強が必要だった。

 高等科教育を終えた学生が生物学の博士号を取得するには、だいたい八年間の勉強が必要だという。なのにわたしには一年しか時間が残っていなかった。その間に、一般学生の八年分の勉強はもちろん、高等科修了までの分の勉強もしなくてはいけない。控えめに言って不可能だった。だけど、やれるだけのことはやってみようと思った。

 わたしは最初の一ヶ月で高等科を修了することを目的とした。そして、高等科修了までなら特別な教材などはいらないので、必要な教材を書店で買って山の小屋に運び込んだ。シルビアさんに教えてもらいながら勉強するという魅力にはあらがいがたかったけれど、わたしが力を発揮出来るのはここしかないと思った。ミアと一緒に過ごしたこの場所で、限界に挑戦してみたかった。

『ご飯食べるの忘れて死んだりしないでしょうね?』

 わたしが小屋にこもって勉強することを言うと、シルビアさんはそう言って笑ってくれた。

『すみません、都合で一年も休みをいただくことになってしまって……』

『気にしないでいいのよ。ミアちゃん……? のためなんでしょう?』

『はい。必ず、一年で博士号をとります』

『…………一年で博士号……。とにかく、やれるだけのことはやって、後悔のないように。ね?』

 シルビアさんは苦い顔をしながらわたしの肩に手を置いた。

 大丈夫です。厳しい戦いになるのは、わたしが一番わかっていますから。

 そんな気持ちをこめて、わたしは今までで一番の笑顔をシルビアさんに向けた。

 睡眠時間は一日三時間になった。なったが、すぐに一日六時間にした。睡眠による記憶の定着と、勉強の進行の折り合いで、一番効率の良いのが六時間だった。

 朝、木の上で鳥たちが歌うのと一緒に起きて、月が夜空を泳ぐ頃まで勉強した。サンドウィッチを食べながら生物の骨格図を暗記し、歯磨きをしながらどの戦争でどの魔獣が開発されどのような被害を与えたのかを覚えた。一角龍の原型が数百年前の戦争で開発されたことを知ったとき、わたしは自分の身体の奥から勉強の楽しさが染み出てくるのを感じた。こんな暗記事項が、今のわたしの生活に繋がっているんだなぁ、と。開発者のローヌさんがいなかったら、今頃わたしは死んでいたのかもしれないんだなぁ、と。

 どうやらわたしは、勉強が好きみたいだった。

 



 二週間が過ぎて、わたしは高等科の生物学の教科書を一冊まるまる暗記した。予定よりずいぶん早かった。王都に連絡して高等科修了の試験を早めてもらわなくちゃ、と久しぶりにゆっくりとサンドウィッチをリビングで食べながら思った。

 リビングには、よくミアが王都とやり取りをしていた小机があった。わたしもミアみたいに魔法が使えれば、あの伝達用の紙ですぐに王都に色々書いて送れるのに……。そこまで考えて、ミアの運命はいつもこの紙によって左右されていたんだっていうことに気付いた。王都から、どんな内容の紙が送られてくるか、で。

 生物学はどうしても戦争とともに発達してきた分野だったので、わたしは歴史の教科書も併用していた。それによると、つい五年前にも王都による南部諸国への軍事介入があったらしかった。小さな紛争程度であったのでたぶん、シルビアさんとかはほとんど気にしてはいなかったんだろうと思うけど、わたしはその記述を何十回も読むことになった。きっと……というか絶対、この軍事介入に、ミアも兵士として戦地に送り込まれていただろうから。

 南部諸国でのいざこざが解決してから、国際的に反戦のムードが高まってきたようで、戦争はもちろん小さな紛争すら起こらない平和が続いているようだった。それに伴って、ミアの仕事は兵士として敵国の兵士を殺すことから、森や山に住み着いてしまった生物兵器……つまり一角龍とかの魔獣の駆除に変化したんだと思う。そのことはミアにどんな影響を与えたんだろう? 人を殺す仕事をしなくてよくなって、ミアは少しは楽になったんだろうか?

 わたしは勉強の中で戦争が出てくるたびに、ミアのことを考えた。たくさん、たくさん、考えた。生物学に集中しなくちゃいけないってわかってるんだけど、どうしても兵士だった頃のミアのことを考えた。けれど、わからなかった。仕事で命令されて人を殺し続けた期間と、仕事から解放されて今までしてきたことを回顧することが出来るようになったそれから。果たして、ミアはどっちが苦しかっただろう?

 ミアはきっと、そういう問題に一人で向き合ってきた。このぼろっちい小屋で、森の奥の誰も来ないような小屋で、いつもまずいご飯を食べながら一人で苦しんできたんじゃないだろうか。苦しんで苦しんで、苦しんだ末に、ミアはきっと、召喚魔法の研究を始めた。そして、わたしを召喚した。

 意外なことに、勉強を通してミアが何を考え、何を見つめてきたかがわかるような気がした。それに夢中になっていたら気付けば二週間が経ち、高等科の勉強が終わっていた。そう考えると、わたしは結構あっさり博士号をとってしまうかもしれない。だって、ミアを勉強すると思えば、わたしほどそれに適した学者はいないだろうから。

 わたしは久しぶりにコーヒーを入れて、ミアの部屋に入ってみた。ミアが戦いに行った時にたびたびそうしていたように、ミアのベッドに座ってコーヒーを啜る。懐かしい気持ちになった。ふと、寝る時にミアがカチューシャを外して椅子に置く様子とかが思い浮かんでくる。

「ミア」

 誰もいない虚空に語りかける。

「わたしも今、ちょっとだけ頑張ってるよ」






 高等科の試験を難なくパスして、わたしは山を下りた。

「リリィ、あなた本当に勉強の才能があったのね」

 図書館で『魔獣と戦争』などというよくわからない論文を読んでいたら、隣にシルビアさんが座っていた。コーヒーを啜りながら、

「もしかしたら、将来偉い学者さんになるかもしれないわねぇ」

 と言う。それから、わたしのぶんのコーヒーをそっと、わたしの視界の端に置いてくれた。返事をしないで、論文を読んでいるふりをしていると、シルビアさんは何も言わずに立ち上がり、事務所のほうへ消えていく。

 わたしにはわかっていた。

 将来偉い学者さんになることはできないことが。

 期限の日まで、あと一年と十ヶ月であることが。






 専門考究科をパスするには、座学だけでなく、実験などの実技も必要みたいだった。

 正確には、実験結果を基にした新しい論の提唱、まあつまり、新しいアイディアの論文を書いてそこそこの評価を得なくてはいけない。

「どうしよう……」

 かれこれ、二週間を無駄にしていた。

 第一、こんなものは数ヶ月くらいの付け焼き刃の知識でどうにかなるものでもないのだ。たぶん。だって、わたしが前にいた世界で、わずか数ヶ月ちょっと勉強しただけで論文を書き上げて発表した女の子なんて聞いたことがない。もしかしたら、世界のどっかしらにはそんな女の子がいたのかもしれないけど。

「こういうのはね、焦ったってしょうがないのよ」

「それはそうですが……そうなんですが……」

「健康的な生活を送ることよ。一日三食おいしいご飯を食べて、お日様の出ている間は外をお散歩なんかしたりして、それからゆっくり寝ること。そうすれば、ある日突然良いアイディアが湧いてくるものなの」

 シルビアさんはうんうん、と頷いた。自分の学生時代のことを思い出しているのかもしれない。

「お散歩……」

 口に出していた。

 お散歩。

 机に向かって気難しいおじいさんが書いたような本を読んでいるよりは、そっちのほうが何か思いつくかもしれない。それに、たまらなく、外に出て身体を動かしたかった。川で水浴びをしてみたい。戦いから帰ってきたミアがそうしていたように。

「お散歩行ってきます!」

「あらあら」

 シルビアさんのいたずらっぽい笑みに見送られながら、少し蒸し暑くなってきている陽気の中に飛び出した。

 





 わたしはまた、山に上った。

「わぁ……!」

 ミアがいつも水浴びをしていた、小屋の裏の川に足を浸すと、気持ちいい冷たさが指の間を走り回るように抜けていく。勉強ばかりでこちこちに凝り固まっていた足の裏の繊維を、優しく丁寧にときほぐされているような感じがした。ミアもこの気持ちよさを味わっていたのかなぁ、と考えると、ミアと一緒にこの川で一緒に水浴びをしなかったことをちょっぴり後悔する。

 桃色の魚がわたしの足に吸いついては離れ、かと思えば群れをなしてどこかに消えていくのを眺めていると、あの日、ミアがこの魚を持ち上げて焼いてくれたのを思い出した。身がぷりぷりとしていて、香ばしいのに甘くて、木々は優しげに揺れていて、ゆっくりと時間は流れていって、隣にミアがいて、とても幸せだった。

 今、隣にミアはいない。

「…………はぁ」

 やめよう。

 悪い癖がついてしまったものだなぁ、と苦笑する。

 小屋に「いってきます」と別れを告げた三年前にから、こういう感傷に浸るのを努力してきた。けれど、なかなか上手くいかない。ふとした瞬間に、自分がミアのことを思い出していることに気付いてしまう。

 空が青かったら、ミアとともに見上げたあの空を思い出す。

 ご飯がおいしかったら、ミアの満足そうな無表情を思い出す。

 一人で寂しかったら、ミアの帰りを待っているあの夕方を思い出す。

 そうしていつも、泣きそうになる。堪えられなくなる。視界が霞んでいって、わたしは無理矢理ノートの自分の文字を見つめる。印刷された論文の文章を辿る。コーヒーに手を伸ばす。

 きっとわたしは死ぬまで、こうやって生きていくんだろうなぁ、ってなんとなく思った。後ろ向きに前に進んでいくんだろうなぁ。


「リリィ」


 そのとき、強い風が吹き、その風に乗って懐かしい声が聞こえた。

「ミア!?」

 わたしは振り返る。しかし、そこには森が続いているだけだった。

「……ミア」

 呼んでみる。そうすると、木の葉が面倒くさそうに擦れあって音を立てた。ミアはいなかった。

 ……こんなふうに。

 こんなふうに、ある日何事もなかったかのように、ミアは帰ってくるかもしれない。

 そういう期待を、いつも心のどこかに持っていた。

 だって、ミアが死ぬわけないもの。ミアの死を受け入れたい自分と受け入れたくない自分がごちゃまぜになっているこの状態に、わたしはなんとなく笑った。

 わたしは川から出て、すっかり冷えてしまった足を持ってきた手ぬぐいで包み込んだ。それから、小屋へ向かって歩みを進めた。





 何度帰ってきても、小屋はいつもと変わらないまま、わたしを迎えてくれる。

 わたしはまっすぐにミアの部屋に入り、ベッドに座った。ぼふっという鈍い音がわたしを包み込む。家具の何もない部屋に、わたしとミアの思い出だけがいる。

 思い出して、ベッドの下からミアの論文を取り出した。裏にはミアが残した料理本もどきが載っている。懐かしくてパラパラとめくっていると、はっと当たり前のことに気付いた。

 これは、論文だ。

 『不可能』だと実証されたはずの『召喚魔法』の。

 ミア自身が否定した『召喚魔法』の、真実が述べられた論文だ。

「…………」

 裏返し、論文が書かれているほうのページを見る。ごくり、と唾を飲む。

 その論文は、どうしてだか、ミアが最後に残してくれた、わたしに向けてのプレゼントのように思えた。






「いやいや考えたね」

 と仮面の男に笑い声をかけられたのが癪だったが、わたしは『召喚魔法』についての『本物』の論文を発表して、専門考察科をパスした。それどころか、わたしは『若き天才』として国の学者の中で一躍有名になってしまっていた。

「バレないか不安です……」

 とシルビアさんに言うと、

「うん、まあ、凍土に行っちゃえばこっちのもんでしょ?」

 と苦笑された。なんだか、最近シルビアさんに苦笑されることが多い気がする。

 専門考察科をパスしてしまえば、博士科を取るのは簡単だった。自分の発表した論文に関して適当に実験をして、さらに理論を裏付けていけば、それで取れる。わたしは魔法を使うことが出来ないので、実験の部分は仮面の男が工面してくれた人材でなんとかした。

 しかし、実験が成功したことはなかった。

 技術的に無理がありすぎる。

 召喚魔法は、ミアの圧倒的な転移魔法技術がないと、成功させることは出来ないようだった。


 でもとにかく、誤魔化しに誤魔化して、勉強を開始してから十ヶ月と十二日目にわたしは生物学の博士号を取得した。

 どうやら、世界最年少の生物学の博士が誕生したようだった。

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