いってきます





……






 頬に感触があった。ざらざらとしていて、少し湿った何か。顔中を上下するように這われる感触に不快感を感じて、わたしはゆっくりと目を開けた。

 光が紡がれる。あまりの眩しさに一度目を瞑って、もう一度恐る恐る目を開けた。

 まず飛び込んできたのは蒼い何かだった。光沢があり、水がはじかれている。

 どこかで見たことがあるなぁ、なんてぼーっと見ていたら、またほっぺたに感触があった。

「……っ」

 くすぐったくて、思わず手でその何かを触った。小さな突起がたくさん感じられて手を引っ込める。なんだろう、と顔を上げたら、『それ』と目が合った。わたしの頬に触れていたのは『それ』の舌だった。

「――キュゥゥァ……」

 蒼鱗、長い鉤爪、大翼、そして太陽を突き刺すように伸びた一角。

 ――一角龍がそこにはいた。

「っ!?」

 なぜ、という文字で頭の中が埋め尽くされる。

 そもそも、なんでわたしはこんなところに――?

 すると、滝壺の中で感じた息苦しさが喉に戻ってくる。そう、そうだ、わたしは死のうと思って滝壺に飛び込んで、それで……。

 それで、なんで生きているんだ? 滝壺は潜ったら二度と浮き上がってくることは出来ないはずなのに。

「――キュゥゥ」

 前に襲ってきた一角龍よりはずいぶんと小さくて――十分の一くらいの大きさだ――声も高めで言ってみればかわいらしい。しかし小さいと言えどわたしと比較にならない大きさの一角龍が覆い被さってきているのは恐怖を感じざるをえない。

 さっきまで、死のうと思っていたのに。

 一角龍は一度低い声で短く唸って、わたしの顔に角を近づけてきた。ゆっくりと、ゆっくりと、わたしのおでこの前まで突き出してくる。

 ああ、これがわたしの最期か。こんな痛い思いをするなら滝壺で溺死したほうがよかったかもしれない。

 わたしは目を閉じる。今度こそ死を覚悟した。錐のように尖った一角がわたしのおでこに触れ、鋭い痛みが走る。血が伝うのが感じられた。


 ばいばい、世界。


「――ゥゥウウウウウウ……」

 ぐっと奥歯を噛んだ。到来するであろう痛みに備えて力む。すると予想通り、痺れるような感覚がおでこから全身に伝達されていった。びくん、と身体が痙攣するのを感じ、諦観の念がわたしを支配した。

「……?」

 しかし、どれだけ待ってもそれ以上の痛みはやってこない。もしかして、さっきの痙攣で死んでしまったのだろうかと思って目を開けた。相変わらずそこには蒼鱗がある。

「――キュゥゥ……」

 一角龍はわたしのおでこから角を離し、高い声で鳴いた後に翼を羽ばたかせた。周りの大樹の葉が揺れ、巨体がゆっくりと持ち上がっていく。わたしが後ずさっても何も反応せず、一角龍は大空へと飛び立った。それから、虹がかかる滝の向こうへ消えていく。

「……なんだったの」

 わけがわからなかった。

 なぜ自分が滝壺に落ちて生きているのか、なぜ一角龍はわたしを襲わなかったのか。

 わたしはおでこを右手で拭った。少量の血が腕につく。でも、それだけだった。血はもう止まっている。

 わからないことが多すぎる。

 だからとりあえず、わたしの足は家に向かっていた。



 危険種図鑑。

 わたしにも読める文字で書かれているそれの『一角龍』のページを開いた。テーブルに広げられた図鑑は古びた紙特有の匂いを、座っているわたしに嗅がせる。

 ページは一角龍のイラストと成体の全長等のデータ、それと生態についてが述べられている。わたしは先ほどの一角龍の行動について知るために、生態の部分に目を落とす。


 一角龍は飽食状態であるときに獲物を見つけると、獲物に対して角を突き、微粒の電磁波を浴びせることが知られている。これにより、一角龍は対象の獲物の位置を半径五キロ圏内ならば常に感知出来る。飢餓状態に陥った一角龍はこの獲物の居場所を特定し、すぐさま捕食する。言うなれば、一角龍なりの食料保存である。感知可能である期間は、電磁波を浴びせてから約五年。


 わたしは一角龍におでこを突かれたとき、身体に痺れるような感覚が走ったのを思い出した。もしかしたらあれは、この記述にあるような電磁波だったんだろうか。だとすれば、わたしは……。


 一角龍の保存食になったということになる。


「…………」

 わたしは図鑑から顔を上げた。気付けば陽は落ちていて、外からは橙色の光が差し込んでいる。椅子から立ち上がると、ミアの部屋まで歩いていった。ミアのベッドに座って、一角龍に突かれたおでこを触ってみる。

 一角龍は、確かに前にミアが倒した。でも、そもそもあの一角龍がわたしを襲ってきたのは、わたしを雛の餌にするためだ。そして、ミアに倒されたはずの一角龍よりも小さな一角龍の出現。この二つを考えると――。

 今日わたしを襲った一角龍は、雛だ。

 あの雛は母親が帰ってこないことに絶望しただろう。巣の中で、滝壺の底で、母親を思って鳴いたかもしれない。何度も何度も、不安に苛まれながら。

 その不安はきっと、わたしが抱えているこの不安と同じものだ。

 でも雛は、母親の手を借りず巣立った。ひとりで世界に立ち向かうことを決意した。

 そして今では、自分で餌を採ることも出来るんだろう。

「……だとしたら、わたしは」

 わたしはきっと、雛にも劣る。


 生きよう、と思った。

 雛に、生きることを許されたような気がした。


 一角龍の雛のために、一角龍の雛の保存食として、五年は精一杯生きてみよう、と思った。

 それに、ミアが死んじゃったという確証はまだ得ていない。だったら、それを得てから死んでも遅くはないんじゃないか。五年間、徹底的にミアという女の子について調べてみてはどうか。全然知らない、ミアのことを。

 わたしはミアのベッドから立ち上がる。それと同時に、無遠慮なことにお腹が鳴った。まずは食料を手に入れないと……そして、仕事を手に入れないと。

 ミアは確か、この森を川に沿って下っていけば町に出ると言っていた。そこで職を探そう。それにミアのことについて知るために勉強もしなくちゃいけない。

 忙しくなるなぁ。たぶん、ミアから与えられていた家事の仕事よりもずっと。

 ミアが残してくれた少量のお金をバッグに詰めて、他に何かいるかと家を見回したら、必要なものなんて何にもなかった。そこでわたしは気付く。この家には、ミア以外に大事なものなんてなかったんだ、って。ミアがいないと、輝きを失ってしまうんだ、って。

 わたしは小さなリュックサックを背負う。ミアの部屋に戻って、ベッドの下を覗く。そこにはちゃんとにミアの論文が置いてある。手を伸ばしかけて、やっぱりやめた。わたしがこの論文を持っているのは何か違う気がする。ミアがここに置いたのならば、やっぱりここに置いてあるのが正解なんだ。

 扉から外に出る。見える景色が、朝に家を出た時よりも美しく感じた。沈みかけた太陽に出発をためらいかけたが、意志が強いうちに町に下りてしまいたかった。

 わたしは家を振り返る。木で出来た小さな小屋だ。ここでわたしは召喚されて、ミアと愛おしい日々を過ごしたんだ。わたしの故郷で、わたしの出発点。

「……いってきます」

 わたしは呟いて、礼をした。

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