リリィの章
わたしの死
一日経ち、二日経ち、三日経ち、一週間が経った。
ミアはまだ、帰ってこない。
鏡を見たら真っ青な顔をしていたので三日ぶりにパンを一切れ食べた。噛んでも噛んでも口から消えないから、水で胃に流し込んだ。
食事をしてからミアの部屋に戻った。ミアのベッドに潜り込むと、カーテンの隙間から漏れ出てくる日の光が目に付いた。面倒臭かったけどベッドから這い出て、カーテンをぴっちり閉めた。
真っ暗になった。わたしは毛布を被った。
ベッドからはもうミアの匂いはしなくなっていた。自分の――薄汚くて、気持ち悪くて、罪深い――匂いが充満していた。それを鼻孔に感じるたびに、自分がミアを犯しているような気がした。でも、わたしは自分の罪に縋るしかなかった。
どうすればミアに償えるだろう。それだけをこの一週間考えた。
例えば、あのピクニックの日。もしわたしが変な気を起こさなければ、ミアが左手を失うことはなかっただろう。今頃、二人でオムライスでも食べていたかもしれない。
それ以前に、ピクニックに行かなければ。ミアの言ったとおり、一日中家でゆっくりしていれば。わたしが悪夢にうなされなければ。
そもそも、召喚されたのがわたしじゃなかったら。
わたしがこの世界に召喚されてしまったのが、そもそもの間違いだったのだ。わたしのような、薄汚い、教養がない、人殺しの、そんな女の子じゃなくて、もっと相応しい女の子がいたはずなんだ。たくさんの愛を胸いっぱいにもらって、みんなに悔やまれながら死んでしまった不幸な女の子とか。もっと美しい子が召喚されるべきだった。
ミアに、わたしはふさわしくない。
無価値のわたしのためにミアは左手を失い、そして、……そして。
いつも思考はそこで止まった。それ以上の想像は出来なかった。認められなかった。ミアはなぜ帰ってこないのか。どんな能なしでもわかる解が、わたしには出せなかった。
ミアは帰ってくる。帰ってくるまで待つことが、わたしの贖罪なんだ。
時計が鳴いた。
今日もまた、終わる。
二、三日前に食料が尽きた。
家には二週間分の食料があったはずだ。それがなくなったということはもうミアが戦いに行ってから二週間が経ったということか。……いや違う。わたしは三日に一度ほどしか食事を採っていなかった。だから実際にはもっと長い時間が経っているはずだった。
鏡には小麦色の髪が乱れ、顔面が蒼白の女が立っている。目の下のくまは深く、赤い擦り切れた跡があり、瞳に光はない。
幽鬼だ、と思った。生を許された人間には見えない。わたしは、前の世界の自分を見ている錯覚に陥る。
何を勘違いしていたんだろう。ミアに何を求めていたんだろう。なぜ自分に求める権利があると考えたのだろう。当たり前に与えられるべきものも与えられなかった。夢、希望さえも奪われた。そして、命を奪い返した。
ずっと忘れていた感触が、あの、男に犯された日の感覚が、手に蘇ってくる。包丁が男の胸に沈んでいく触感。自分の左手首を裂く触感。命を奪う触感。命を捨てる触感。
たぶん、あのとき、わたしは殺していたんだ。前の世界のわたしも。今ここにいるわたしも。
そして、ミアのことも。
わたしさえ存在しなければ、ミアが――ミアが、死ぬこともなかった。
「……みあぁ……」
一度認めてしまえば、簡単に瓦解した。
まだミアが帰ってくるという希望。まだミアが生きているという虚構に近い願望。そんなものに縋って未練たらしく生きて。もうとっくに死んでいていいはずなのに、無理に生きて。そんな人生はもうやめだ。
食料が尽きた。わたしはこの世界に召喚されてから、この家の周り以外に出たことがない。食料も、戦いの帰りにミアが買ってきていた。だから、どちらにしろわたしに食料を手に入れる手段はない。
潮時だ。もう生きていく気力はないし、生きていく方法もない。
死のう。
決めてしまえば、行動に起こすのは簡単だった。洗面所から出て、リビングを横切り、扉を開けた。外は憎たらしいくらいのいい天気で、わたしは久しぶりの日光に目を細める。
太陽でさえわたしに悪意をもって照っているように感じられた。風に揺れる木々も、それに合わせて歌う小鳥たちも、みんながみんなわたしを嘲笑しているように思える。
川まで出て、それに沿って上流へ歩いていった。実は、数日前から考えていた。わたしの死に場所はどこがふさわしいか。答えは簡単に出た。
滝壺だ。
あそこなら一度落ちれば二度と這い上がってくることの出来ない渦が巻いている。確実に死ぬことが出来る。それにきっと、ミアの左腕がまだ渦の中を漂っているはずだ。ミアの一部と一緒に眠ることが出来るなら、本望だった。
前にミアと通った時においしそうに見えた木の実も、今見ると毒の果実にしか見えない。垂れてくる枝を払いながら、ただ上流を目指し足を動かした。
「はぁっ……はぁっ……」
ずっと家にいたせいか簡単に息が上がってくる。乱れる動悸を押さえながら、岩を登っていく。
川沿いの岩が険しくなってきた。上流に近づいてきたようだ。耳を澄ませば遠くにゴォゴォという音が聞こえる。わたしを迎える死神の鳴き声だ。
岩の裂け目に足を突っ込み、よじ登ると視界が開けた。
滝壺だった。人間が一生のうちに飲む量を優に越えた水が降ってきてさえしなければ、湖と形容してもいいかもしれない。周りを囲う大樹がわたしの頭の遙か上で葉を揺らしている。
わたしは滝の近くまでせっせと歩き、登り、走った。ロッククライミングの要領で飛び込みやすい岩に登っていく。
滝壺の遙か上空、大樹の葉が茂っているあたりと同じ高さの岩まで登ってきた。水しぶきを全身に受けながら下を見ると、そこには大きく口を開けた滝壺がこちらを見ている。
ここから落ちれば、確実に死ねる。浮いたり沈んだりを永遠に繰り返す。それはわたしにとって魅力的な贖罪じゃないだろうか。
冷たい飛沫に当てられて身体も心も冷えてくる。心の芯まで冷え切って、素直に、よし飛ぼう、と思えた。
「……ふぅ」
深呼吸した。口の中に水が入ってごほごほと軽くせき込む。今度は気をつけて深呼吸して、覚悟を決めた。
ぐっと足を踏み込んで、空を飛ぶ。
瞬間、時間の進みがゆっくりになった。
大きく腕を広げると吹き上がる風を全身に感じる。水と同じ速度で、空を飛んでいた。
呆れるくらい遅いスピードで落ちていく。渦が少しずつ迫ってくる。ゴゥゴゥという音だけがやかましくわたしの耳をくすぐり、それ以外の音は風になり消えた。
ようやく、水がわたしを触った。
予想以上に優しく、滝壺はわたしを包み込んだ。
水の中に入った途端、突然速度が速くなる。身体が引きちぎられるような痛みと共に、水の底まで引きずり込まれる。
無音だった。
静かな蒼だけがそこに存在していた。
……息が、吸えない。
肺にまで水が入り込み、せき込もうとしてもそれは許されない。視界がゆっくりと白んでいく。わたしは腕を掻いた。足をばたつかせた。何も起こらない。滝壺はわたしをとらえて離さない。
ミアの無表情な顔が目の前に浮かぶ。
それを見て、わたしは気付いた。もう二度とミアの顔を思い浮かべることが出来ない。
激しい後悔が襲ってきた。思考が水に溶けて消えていくのを感じながら、わたしの中には「生きたい」という感情だけが残った。
真っ暗になった。目を閉じたんだと思う。
ミアの顔がゆっくりと透けていって、やがて見えなくなった。
もう何も見えない。
ミアは死んだ。
そして、今からわたしも死ぬ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます