記憶


 『海』というものについての本を、いつか王都の図書館で読んだことがある。

 そこは常に波が立っていて、水は塩辛く、生き物がたくさんいるらしい。私たち人間以外の生き物の全ては、元々海に住んでいたらしく、それから陸へ上がり今に至るという。その『母なる』海についての本を読んだとき、そんな大きなところで釣りをしたら楽しいだろうなぁ、と夢想したのを覚えている。

 私が最初に生き物を殺したのは、川だった。

 私を育ててくれたおばあさんが『釣り』というものを教えてくれたときだった。

 おばあさんは釣りが得意で、よく暇なときは家の裏の川に行って釣りをしていたものだ。私は釣り糸を垂らせばすぐに魚がかかるその技を見て、魔法とはすごいものだなぁと感心したけれど、後にそれが魔法ではなく長年の技術によるものだと聞いたときの方が、よっぽど感心した。

『どんなことでもね、真剣に取り組んでいたものは時に魔法を凌駕するのですよ』

 おばあさんは、昔、王都の釣り大会に出て優勝したことがあって、そのときに準優勝した人が実は魔法を使ったイカサマをしていたという話をしてくれた。

『大事なのはね、気持ちなのです』

『気持ち?』

『ええ、私は娘に絶対トロフィーを持って帰ってあげよう、って思って参加していましたから』

『おばあさん、娘がいたの?』

『はい、もう大きくなって家を出ていってしまったけれど……』

 それからは、おばあさんの娘の、シルビアという女の子の話になった。その話をするときのおばあさんの顔といったら本当に嬉しそうで、私が今までに見たどんな表情よりも幸せに満ちていた。私はどうやってもおばあさんの娘には勝てないのだ。そんなことを幼いながらに思った。

 だからだろうか、だんだんと私は機嫌が悪くなっていった。それに気付いたおばあさんが言った。

『あなたも、釣り、やってみる?』

 そこで私は初めて釣りをして、初めて自分で命を摘み、初めてその命を自分の一部にした。

「……よし」

 そんな記憶が、私にこのアイディアを与えた。

 私はバトルアックスを大きな釣り竿に変え、森の中で捕ってきた鹿に私の背丈より大きい釣り針を突き刺した。そして湖の上にせり出した大樹の枝に座り込み、鹿を湖面に垂らす。まだ生きている鹿が短く悲鳴を上げて、自重と釣り針の重みで湖の底へと沈んでいく。

 どれだけの深さがあるだろうか、沈めば沈むほどに釣り糸は魔力で生成されて長くなっていくけれど、それも無尽蔵にあるわけではない。あまりにも深すぎるということならばまた別の方法を考えなくてはいけないだろう。そもそも、こんな陳腐な罠に一角龍がかかるかどうか……。

 しかし、酸素を肺に転移させ続けながら、水中で戦うという方法よりは随分と危険が減った方法ではある。あれは水中にいる一角龍が一体の場合ならばまだなんとか戦えるが、二体となっては絶対に無理だ。

 今はただ待つしかない。

 湖面から伸びてくる釣り糸に何も反応はなく、その周りに微弱な波紋を立てているだけだ。釣り糸に魔力を通して、水中の様子を読みとってみるけれど、そこにはただ静かな水があるだけで動くものは餌とした鹿以外は何もない。深さも読みとることが出来ない。

 私はどうしてか、リリィの召喚をしていたあのときと同じような気持ちになった。どこまで続くかわからない闇の中を、ただ自分が垂らす釣り糸だけを頼りに進む。いるかもわからない目標を求めて、ただただ沈んでいく。その感覚が、異世界にいる彼女を探すときのものととても似ていたからかもしれない。

 何故私が探し当てた魂は、彼女だったのだろうか。

 もちろんそれはただの偶然、天文的確率の産物なのだとは思う。だけれど、私はあのときに戻って何度やり直したとしても、やはりリリィの魂を見つけるのだと思う。私が召喚する魂はリリィ以外にあり得ないし、それ以外を想像することすら出来ない。それはリリィと共に過ごしてきた日々が私にとって、私の人生にとって非常に重要なものとなったからで、そして、これからの人生にとっても必要不可欠な存在になるだろうからだ。リリィは私にとって、あまりにも大きな存在になり過ぎた。

 今まで私はただこの『仕事』を金を稼ぐためだけのものと思っていた。だが、その認識が以前と大きく違ってきているのを感じる。

 この『仕事』は、一度始めてしまうと二度と足を洗うことは出来ない。それはだいぶ深いところまで王都の機密を知りすぎてしまうからで、私の場合はさらに、王都に対して自分の力を示しすぎてしまった。

 王都からしたら、すでに『ミア』という魔法使いは無視出来ない存在になっている。王都直属の魔法使いたちの力を大きく凌ぐ存在だ、テロ行為など起こされたら簡単に国家転覆されかねない。……さすがにそこまでは無理だろうけれど、多大な被害を被るのはわかっている。

 だから、王都は私をいつまでも『王都の犬』として首輪で繋いでおきたいのだ。

 もし私がこの仕事をやめると言ったら、王都側はどうするだろう。確実に、私の討伐隊を組織し、私の息の根を止めにやってくる。

 以前の私なら、それくらいなら構わなかった。自分一人だけならば、逃げ仰せることも出来るし、逆に返り討ちにすることも出来るからだ。

 けれど、私には守るものが出来てしまった。

 リリィに危害が及ぶかもしれないことを、私は是と出来ない。王都からの逃亡生活をリリィに強いることは出来ない。

 召喚魔法が成功する前の私は、ただ何となく生きていた。死なないから、生きていた。それから、召喚魔法の大成という目標が出来た。そして、リリィを召喚した。

 リリィを守りたい。それが私の生きる理由になってしまった。そうなった私に、もうこの仕事をやめることは出来ない。進めるところまで進み、リリィを守り続けていくだけだ。

 だからこそ、今は一角龍を倒さなくちゃいけない。

「……っ!」

 釣り糸に、大きな力が加わった。

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