生きる意味


「お、おかえりなさい……」

 特に気にしなかったせいで、家のリビングに転移するとともに足の裏に鋭い痛みが走った。飛び上がって見てみると本を踏んづけていたみたいだ。その痛みに顔を歪めていると台所からおそるおそるリリィがこちらを見ていた。

「うん。えと…………ただ、いま」

 おかえりなさい、なんて言われたのが本当に久しぶりで何となくチグハグな言い方になってしまう。リリィの顔を見ると何でだか真っ赤になっていたので、こっちまで頬が熱くなってくるような気がした。

 リリィが来てから、なんだか新鮮な感情をたくさん見つけられる。

「ちょうみりょう……と、包丁、と牛乳とか……」

 いつまでも突っ立っているのも変なので、リリィに頼まれたものを広げ始める。台所の戸棚にあったバスケットに色々買ったものを入れていたのだった。

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

 買ったものをひとつひとつ点検していくリリィの手つきはどこか慣れたものを感じさせる。前の世界では結構家事なんかをしていたのだろうか。

 とそんなことを考えてぼーっとしていると、甲高い金属音が私を我に返した。

「……大丈夫?」

 リリィの足下には包丁が転がり、それを彼女は血走った目で見ていた。

「あ、はい……すみません、なんか……」

 彼女は軽く頭を振って落とした包丁に手を伸ばす。しかし柄の部分に触れる寸前でそれ以上手がが動く様子はなかった。

 私は近付き、それを拾い上げてリリィに手渡そうとする。リリィは受け取ろうと手を伸ばしかけ、やめた。右手が所在なげに揺れる。

「ごめんなさい……わたし、なんか、ダメ、みたいで……ごめんなさい、ごめんなさい……」

 リリィは焦点の定まらない瞳を血走らせ、ゆっくりと後退していく。その踵が本の山に引っかかり、尻餅をついた。

 またこれか、と思った。いい感じだったのにまたこうなってしまうのか、と思った。

 いい加減に、して欲しかった。

 やっと始まったかに思えたリリィと私の日常。その脆さに、私の足下が音を立てて崩れていくような錯覚を覚えた。

 この前は果物ナイフ。次は包丁。

 刃物に、何か前世での因縁があるというんだろうか。何も始まってはいないから、私は彼女のことを何にも知らない。

 本当に何も。

「くりかえし……くりかえし、なんだ」

 ずっと繰り返されていくんだ。彼女が壊れ、私がそれを取り繕っていく。自ら生きようとしない彼女を、無理矢理生かしていく。

 その欺瞞に、いったい何の意味があるというのだろうか。

「ごめんなさい、せっかく買ってきてくれたのに、ごめんなさい。ごめんなさい」

「…………」

「ごめんなさい、痛かったですよね、何回も刺して、ごめんなさい、でもあなたが、するから、ですよ……あなたが、悪いんですよ……あなたが……、ごめんなさい……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんね……」

 ただ言葉を吐き出すからくり人形になってしまったリリィを見てついに、私は自分の五年間への疑いの念が沸いてくるのを感じる。

 私はこんな苦しみを生み出したくて、召喚魔法を研究してきたというのだろうか。

 私はいったい何故召喚魔法を研究してきたのだろうか。

 私は、何故…………。

「ねえ」

 だから、私は問いかけた。

「死にたい?」

 これは逃げなのかもしれない。これから繰り返されていくであろう『日常』からの逃げなのかもしれない。だが、逃げも選択肢の一つであり、それでリリィが救われるなら、私が責任を果たせるなら、立派な正解なんだと思う。正解、なんだよ。

 リリィは光を失った目をこちらに向けて、ただ震えている。その瞳が何よりもの答えである気がした。

「わかった」

 部屋に置いてあるバトルアックスを手元に転移させる。そしてそれを細身のナイフに変える。黒光りする矢先が、彼女の首筋にあてがわれる。

 リビングに充満するオレンジが彼女の儚さを際だたせた。思えば、彼女との時間はほとんどが夕焼けの中であったように思う。彼女の小麦色の髪は、どうしようもなくこの時間が似合ってしまうんだ。

 夕陽とナイフと彼女の髪が溶け合って、私の腕に少しずつ力が加わっていって、ぷつりと、何かが裂けるような感触を感じて、一筋の紅がナイフを伝って、後悔、罪悪感、ありとあらゆる負の感情が私から溢れ出て、でも、それでも私は彼女の首筋にナイフを埋め込ませていって。

 彼女は。

「ミアぁ……」

 初めて、私の名前を自分から呼んでくれた。生まれたての雛みたいなそのか細い囁きは、私の腕にためらいを生んだ。

 てらてらと輝く鮮血が、ナイフから私の腕へと伝い、首へ流れていく。一定のリズムで私の身体を這う彼女の血液はどうしてだかとても心地よくて、私はそれを愛おしく思った。

 彼女の顔を覗く。

「ミア……わたし……」

 彼女の瞳から涙が流れた。

「もう、死にたくないなぁ……」

 それは死の淵に立たされて丸裸になった、彼女の純粋な気持ちであるような気がした。

「ごめんね……なんかね、今ね、すっごいあったかくて……幸せで……もったいないなぁ、っていうか、もっとそばにいたいなぁ、っていうか……そんな、あったかい気持ちになっちゃって……生きたくなっちゃった……」

「…………」

「わたし、いっつもひとりで、寒くて、寂しくて、こわくて、痛くて……無価値で。こんな変な気分初めてなんだ……ミアと会ってからね、初めてがいっぱいだった……」

 私と同じだった。私もリリィを召喚してから、温かかった。

 少女は狂おしいほどに美しい顔を歪ませながら、口元をわななかせる。その表情がどうしてだろう、鏡の中の自分を見ているみたいで。

 知りたい、とそう思った。もっと彼女のことを知りたいと。彼女のすべてを知りたいと思った。

「リリィ……」

「うん……ミア」

「あなたのこと、知りたい」

「知って欲しいな……ミアに全部知って欲しい」

「ありがとう」

 私はナイフを床に置き、彼女の首に舌を這わせた。ぴくりとよがる彼女が吐き出す血を舌に感じながら、それを嚥下していく。熱い血潮が私の喉を焦がし、荒くなる彼女の息遣いが少しずつ体内から聞こえてくるようになってくる。

 彼女の血液で魔法陣を組み上げ、それを舌に転移させる。そして私は彼女を首を右手で軽く持ち上げ、彼女の瞳を見た。

「目を閉じて」

「うん……」

 長い睫毛は華やかに揺れ、鼓動に合わせて震える彼女の瞼に美しさを感じる。こぢんまりと閉じられている朱色の唇を、そっと舌で割る。

 私の舌の魔法陣が鈍く痛み、共感状態にある彼女もそれを感じたのか低く呻いた。だけれど、それと同時に、私に彼女のすべてが流れ込んできた。



 ほとんどが痛いという感情だった。

 薄暗い部屋だ。彼女の人生の舞台はそこだけだった。煙草の臭いが充満する小さな部屋で、彼女はいつも暴行を受けていた。母親であるらしい金髪の女性と、たくさんの男から。殴る蹴るが主だったが、たまに髪を刈り上げられたり、服の下を剃刀で割かれることもあった。

 家に誰もいないときにする家事だけが彼女の救いだった。洗濯、料理、掃除……誰にも制限されず自由に身体を動かすことが、彼女は好きだった。

 雨が窓を叩いていた。何故かその日は金髪の女はいなくて、痩せた背の高い男だけが部屋にいた。

 彼女は彼の機嫌を損なわないようにニコニコ笑いながら酒を注いだり、彼の話に相槌を打ったりしていた。その時間、彼女の心は温かかった。彼は彼女の価値を唯一、認めてくれる人間なんだ。少なくとも彼女だけはそう信じていた。

 彼がつまみが欲しいと言った。彼女は自分の料理が求められていることに嬉々として台所に立った。ツナにマヨネーズを和えている途中だった。

 唐突に後ろから覆い被さるように男の欲が彼女を襲った。わけがわからなかった。彼女は自分を襲うものが何であるのか、これから自分が何を強要されるのかわからなかった。

 彼女は必死に抵抗した。だが、それを許す男ではなかった。全てが終わり、長い長い苦しみという名の官能が、彼女の精神を破壊した。

 男が余韻に脱力しているのを見て、自分の心が鋭利な刃物のように冷めていくのを彼女は感じた。彼女は台所に、包丁を見つけた。

 それからは、ただ紅が迸るだけだった。その行為は彼女の心に少しも波風を立てることなく、すべてが自動的に行われた。

 呼吸を整え、ふと赤く染まった部屋を見渡したとき、彼女の心は自分の犯した罪に砕け散った。

 そして彼女は死を望み、召喚されてもなお、それを望み続ける。



「死にたかった……」

 小麦色の髪を撫でていると、彼女は瞼をゆっくりと押し上げた。

 後ろに立っている私を見上げ、切なげに睫毛を震わせる。身体を椅子に預けている彼女は、今にも消えてしまいそうなほど存在感が希薄だった。

「わたしは誰からも必要とされていないから……」

 すべてを知った今、わたしにはその言葉が重く感じられた。

「じゃあ、私のこと恨んでる?」

 そう訊くと、彼女は目を見開いてじっと私に目を合わせてきた。

「……なんで?」

 そうか、まだ彼女には説明していなかった。どこかで、私自身が説明することを拒んでいたのかもしれない。

 でも、向き合わなければならない、と思った。彼女が向き合ってくれたのだから。

「私が……」

 彼女は、どう感じるだろうか。

「死んだあなたをこの世界に召喚したから」

 死を望む彼女にとって、私がした行為は許されることではないとわかっているけれど。

「私が召喚しなければ、あなたは死んだままだった」

 彼女は外に広がるオレンジ色の世界に目を移した。その横顔は何かを諦めたかのように穏やかで、それは彼女の素の表情なのだと思った。

「……わかんない」彼女は言う。「わたしはただ、誰もいないところに行きたかった。誰からも必要とされなくても、自然なところに」

「ふぅん」

 けれど、その言葉を吐き出した途端に、彼女の表情は哀しそうに歪んだ。

 やっぱり似ているんだ。私とリリィは。

 私は彼女の前に回り込み、その切なげな顔をのぞき込んだ。斜陽に染まる片方の頬と影で曇るもう片方の頬との対比が美しいものに感じられた。

「あなたは寂しがり屋。誰かに認められないと生きることもままならない」

 きっと私もそうだ。だから私は、召喚魔法の研究を始めた。

「わっ」

 彼女の手を取ると、驚いたように短く声をあげる。それに構わずに、私は彼女を抱きしめた。この温かさを感じた瞬間、私は彼女と一緒にどこまでも歩いていこうと思った。

「わかった。あなたに生きる意味をあげる」

「え?」

「私、家事が苦手。だから、私の代わりにそれをして」

 より強く、彼女を抱いた。

「――私のために、生きて」

 真っ直ぐに、彼女も抱きしめてきた。もう大丈夫だと思った。

 魔法を使って確認するまでもなく、彼女のすべてが伝わってきた。

「あ」

 彼女を放したとき、それに気付く。

 今にも泣きそうではあったけれど。

「初めて、笑った」

 夕陽を背に、彼女は確かに笑っていた。

 リリィと私の日々が、ようやく始まったのだと思った。

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