リリィ
朝起きたら、彼女がいなかった。
「……なんで」
昨日あんなに言ったのに、早速ですか。
私は椅子から飛び上がって、彼女の位置を探す。すると、案外近い場所……昨日と同じ場所に彼女の気配が感じられた。
慌てて台所に向かうと、彼女は座って一心不乱に何かをしていた。
……また手首を切っているんだろうか。
「…………こら」
「うわぁッ」
私は彼女の背中に飛びついて、手に持っているそれを取り上げた。彼女はビクッと反応して、こちらを見上げる。
ふに、という感触を感じた。
見ると、私の手にはパンが握られている。
「…………」
そのパンは買い置いてあるもので、先っぽがかじられていた。
「ごめんなさいッ」
足に感触を感じて見ると、彼女が泣きながら抱きついていた。顔を床に擦り付けて、私のパジャマの裾を手で掴んでいる。
「許してください、なんでもしますから、許してください」
台所の小窓から朝日が差し込み、その下で女の子が必死に土下座をしている。よくわからない状況だった。
なぜそんなに焦っているのかわからず、とりあえず彼女を起こそうと手を伸ばすと、
「お願いしますッ、ぶたないでくださいッ、何でもしますからッ」
身を固くしながら、床に頭を擦り付けている。
「ぶたないでください。ぶたないでください。ぶたないでください。ぶたないでください……」
「……ぶたない」
壊れたみたいに同じ言葉を繰り返すので、私はとりあえずそう返事をしてみる。そうすると、彼女は幻の虹龍でも見たみたいに、顔をあげて目を丸くした。
「……本当ですか?」
「うん」
頷いて、パンを彼女に返す。呆けた顔でそれを受け取る彼女をひとます置いておき、私はすでに開けられていた戸棚の中から、もう一つパンを取り出した。
「次から、お腹が空いたら、言って」
彼女の方を向き直る。少女はびっくりしたように、コクリコクリと頷いている。
「私も、一緒に食べたいから」
そう言って、彼女に手を伸ばす。彼女は怯えつつもその手を取り、立ち上がった。
リビングに移動し、やはり見なかったことにして自室に移動した。自室はまだカーテンが締まっていて暗く、私が昨日寝ていた椅子の下には、毛布が落ちている。それを黒蝶にし、丸い机にする。
「…………おぉ」
それを見て彼女は驚いた顔をする。今までよりも表情が素直に出ていて、なんだかかわいい。思えば、彼女の少女的な表情を見たのはこれが初めてな気がする。
私が先に丸机の前に座り込むと、彼女はそれをドアの前でぼーっと見ている。
「……はやく」
手招きして、私の向かいを指さすと、彼女はびくつきながらも私の真似をして向かいに座り込む。私と正面から向かい合った彼女は、忙しなく視線を動かし、私と目を合わせようとしない。
……と冷静に観察しているうちに私も緊張してきた。
今までは色々せっぱ詰まっていたから自然に対応出来たが、こう改めて向かい合ってみるとどう接すればいいかわからない。
どんな顔をすればいいのか。
どんな話をすればいいのか。
どんな風に、彼女と食事をすればいいのか。
「……っ」
やっぱり私に他人と生活なんて無理だった。
「…………」
「…………」
お互いに黙りながら、それぞれのパンをかじる。安いパンなのでパサパサしていて、なかなか飲み込むことが出来ない。そして噛めば噛むほど、沈黙のせいで相手に咀嚼音が聞こえてしまうんじゃないかと焦って、さらに飲み込みにくくなってくる。
一口飲み込んで彼女の方を見ると、私より大きいくせに、まるで小さなリスみたいにパンを胸元に抱えてかじっている。目は気まずそうに伏せられていて、ただ一心にパンを食べていた。よっぽどお腹が減っていたのか、そのスピードはかなり速い。
何か話しかけなければと思って、でも何を話しかければいいのかわからなくて、何か思いつけ思いつけと念じるが何も良いアイディアは出ないで、パンばかり減っていく。
だいたい、私は彼女の名前すら知らない。そんな女の子と、何か話題があるわけない。
話題があるわけ……。
「…………そっか」
私が思わず呟くと、彼女はビクリと怯えたあと、こちらを上目遣いに見た。
「……名前」
「え?」
「名前、なに?」
最初私が言っている意味がわからなかったのか、ぽけーっとした顔をしていたが、慌ててパンを机において、
「ゆ、百合……です。百合、です」
「……百合。百合の花……」
誇らしげに胸を張り、白い大きな花を垂らす百合の花を想像して、なんだか彼女と合わない名前だなぁ、と思った。
でも。
「とっても、いい名前」
私がそう言うと、恐縮したように首を縮める。でも、少し眉を歪めたのを、私は見逃さなかった。
「……もしかして、嫌い? 自分の名前」
返事こそしなかったものの、彼女は顔を俯けた。それが何よりもの肯定だった。
何か、嫌な思い出があるのだろうか。
私はどうすればいいのかわからず、でも俯いている彼女を放っておくことも出来ないので、とにかくパンを食べ続けた。
沈黙が朝日輝き木の香り漂う部屋を支配する。
パンを食べ終わってしまい、もうどうすることも出来ず、俯いた彼女と向き合うしかなくなってしまう。
何かいい方法はないだろうか。そう考えて、思い浮かんだアイディアを口にしてみる。
「……リリィ」
彼女が顔を上げた。
「……呼んでいい? リリィって」
なんとなく気恥ずかしいのとこわいのとで、彼女の顔を直視出来ない。変な名前って言われたらどうしよう、断られたらどうしよう。なんでこんな大胆なこと言っちゃったんだろう、私は……。
色々な思いが頭の中でぐちゃぐちゃになり、なんだか視界が潤んでくる。なぜ泣きそうになっているのかわからないし、彼女にそれを見られるのもすごい恥ずかしくて、さらに涙目になってきてしまう。
全然返事がないから、きっと断られちゃうんだと思って、肩が震える。こわくて、おそるおそる彼女のほうを見てしまう。
「…………っ」
彼女は頬を上気させて、ちらちらとこちらをうかがっていた。私みたいに目を涙目にさせて。
「あの、その、いいです、えと、大丈夫です……」
早口で何かを言って、彼女はむっつり黙り込む。目を今までで最速の勢いでキョロキョロさせ、パンをがじがじと勢いよく食べている。
「……リリィ?」
呼んでみる。
「……はい」
首を固定して決してこちらを見ないようにしてパンをかじりつつ、彼女は返事をした。その様子が奇妙で、私はジロジロと観察してしまう。
「…………」
いつまでも観察してても失礼なので切り上げて、私は自分を指さして言った。
「ミア…………私は、ミア」
「はい……ミア、さん」
「さんはいらない」
「……ミア」
「うん」
「…………」
「リリィ」
「………………はい」
こうして、少女はリリィになった。
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