赤ん坊


 ゴソゴソ、という音がした。

 それは一定のリズムで響いてくるような気がして、ただの雑音に過ぎないそれに私は身を任せて揺れる。ぬくぬくとした空気が私を包み、私の思考はぼんやりとその空気と同化して浮かんでいるような感じがした。

 雑音が止む。と同時に、私は思った。

 私は何をしていたんだろう。

「…………ん」

 目を開けると、部屋は真っ暗になっていた。……目を開けたということは私は寝ていたらしい。

 目の前には書き掛けの論文があって、私はそれに被さるようにして寝ていたようだった。うーん、と肩を上げ腕を伸ばす。背骨がミシと鳴ってようやく目が覚めてきた。

 そこでハッとしてベッドを見る。

 いなかった。

 そこに寝ているはずの少女は、いなかった。

「……っ」

 立ち上がって、慌てて部屋を出る。リビングには誰もおらず、ただ雑然とゴミや本が山積みになっているだけだ。

 そのゴミ山を越えた先にある、木のドアを見つめる。外からの力では開けることが出来ず、内からなら出ることが可能な魔法を組んである。この家と外界をつなぐ唯一のドア。

 ……もしかして。

 私は外に出た。木々を騒がせながらやってきた夜風は私の全身に一瞬で鳥肌を立てる。

 夜の風とは、こんなにも冷たいものだっただろうか。

 暗闇に沈む森の奥に目を凝らしながら、そんなことを考えた。空と森の境界線は夜に沈み、境界を判断するにはところ狭しと輝く星々に頼るしかない。一際輝いている星は最も遠いところにあり、手を伸ばしても触れることなど出来はしない。

 どこにいってしまったのだろうか。

 いや、別に目的地はないのだろう。それに、どこに向かっていってもそこには夜の森しかない。そして、夜の森は簡単に命を奪ってくれる。

 ため息がこぼれた。こうなるとわかっていたのに、なぜ眠ってしまったのだろう。気が緩んでいたんだろうか。疲れていたんだろうか。いや、違う。私は、きっと――。

 それ以上考えるのをやめ、私は森を見据えた。森は私をあざ笑うかのように風に揺られながらこちらを見返してくる。

「…………大丈夫」

 大丈夫だ。私は国一番の魔法使い、ミアなんだから。

 そっとしゃがんで、私は地面に生える雑草に触れる。そこに微量の魔力を注ぎ、雑草がどのように生え広がっているかを解析する。雑草がどのように踏み荒らされたか解析すれば、少女の足跡を辿ることが出来る。

 ……と思ったが、事態はもっと単純なことに気付いた。

 少女の身体は元々、私の血液……つまり私の身体の一部だ。今は独立しているからバトルアックスのように変幻自在に魔力を通せるわけではないが、私の身体であった名残はあるはず。

 位置情報くらいは、掴めるはずだ。

 私は目を瞑り、周りの障害物を意識しないようにする。真っ白な空間を想像し、その空間の中に溶け込むように感覚を麻痺させていく。

 まずぼんやりと、私の部屋にあるバトルアックスが認識された。あれは完璧に私の身体の一部だ。一際強い存在感をもって、白い無の空間に屹立している。

 次は女の子だ。意識を自分は空間であるという感覚に対してより鋭敏にしていく。すると微かな脈動がバトルアックスの近くから感じられてきた。……バトルアックスの近く?

 目を開いて、振り返ると私は小屋のドアに触れる。私の存在を感じて鍵は外れ、私は勢いよくドアを開けた。

 少女の気配は家の中……台所のあたりから発せられていた。初めてリビングを整理しておけばよかったと思いつつ、ゴミを越え、台所に駆け込む。

 飛び込んできたのは赤だった。静かに落ち着いた赤だった。床に広がった赤は少女を抱きながら、駆け込んできた私を迎えた。

「…………なんで。なんで、こんな」

 理解出来ない光景に、私は口からこぼれ出る言葉とは裏腹に冷静になっていく。

 倒れた少女の右腕の傍らに、果物ナイフが落ちている。……こんなものがうちにあったのか。そういえばバトルアックスを作る前に入り用になるかもしれないと思って買ったような記憶がある。

 少女はこのナイフで、血溜まりの中心にある……彼女の左手首を切ったのだろう。

 私は彼女に駆け寄って、そっと左手首をとって上げた。けれど次々と血は滴り落ち、止まる気配はない。彼女の気配が弱まっていくのを感じ、どうしてだか彼女を召喚したときを思い出してくる。

 傷口に魔力を注ぎ、周りの皮膚の繊維を寄せて傷を塞ぐ。彼女が魔力を有していないのと、彼女の成り立ちが私の血液であることから、通常よりもすばやく手当てが終わる。とりあえず止血出来たのを見て、少し安堵した。

 だが、圧倒的に血液が足りない。次は流れ出た血液を彼女の体内に戻さなければならない。私は床に溜まっている血液をひとまず空中に持ち上げ、球体にした。

「…………ふっ」

 短く息を吐いて目を瞑る。彼女の全身に張り巡らされている血管をイメージし、それを無の空間に構成する。そして空中に浮かぶ血の球を慎重に、その血管のイメージ通りに形を変えていく。

 これは最高難易度の転移魔法だ。流れ出た血液を一寸違わず彼女の血管の中に均等に転移させる。国一の魔法医でも不可能な高等手術だ。

 しかし、きっと私なら出来る。

「…………ん」

 息を吸い、肺に空気を溜め、呼吸を止める。自身の心音と彼女の心音を同化させ、血管イメージを微調整する。

 ゆっくりだ。ゆっくりと、移動させていく。血液の座標の位置を彼女の血管に近づけていく。大丈夫。大丈夫だ。私は最強の魔法使い。絶対に成功する。大丈夫。

 大丈夫。

 目を開く。鼓動を感じる。呼吸を感じる。両手に何かが感覚されて、目を移してみる。

 彼女の左手が、私の左手に縋っていた。弱々しい力で、けれど確固たる意志をもって、私の手を握っていた。

 流れ出ていた血液はもうどこにもなく、それらはただ彼女の体内を元通り流れているようだった。成功した、ようだった。

 彼女は目を覚まさない。だが、苦しそうに顔を歪めている。

 どんな夢を見ているのだろうか。

 前世の、記憶だろうか。

 私は彼女の左手を床にそっと横たえる。そして、自分の手を彼女の額に当てようとして…………やめた。

 彼女が今見ている夢を、映像として見ることは……出来る。やろうと思えば、彼女が前の世界でどのように生き、何を感じていたのかも知ることは出来る。

 ……でも、そうしていいのだろうか。

 彼女の意志を無視して、彼女の人生を覗きみてもいいのだろうか。

 たとえそれが彼女の自傷行為の謎を解くものだとしても、果たして許されるのだろうか。

 私にはまだ、わからない。

 わかることといえば、たったひとつ。

 私は、彼女を召喚してはいけなかった。

「ん……」

 すぐ下で、短く唸る声がする。

 彼女は切なげに瞼を震わせ、そして苦しそうに目を開いた。

「…………おはよう」

 なんとなく口についた言葉がそれだった。他に何かあるだろうと思うが、でも考えてもやっぱりそれくらいしか言うことがなかった。

 ほとんど会話を交わしていない私たちに、どれほどの言葉が必要だろう。

「……私、生きてるの?」

 彼女はそう口を開いた。目を見開き、信じられないものを見たように部屋を見回した。

「…………生きてるみたい」

 私は答えた。その瞬間、彼女は私の襟首につかみかかり、私は押し倒された。

 どん、と背中に衝撃が走り「またこれかぁ」なんて他人事みたいに思った。

「なんでッ、なんで、助けるのッ? やめて、死にたいの、なんで? 迷惑、ほんとに、迷惑だから、ふざけんなッ!」

 彼女は私を見下ろしながら、めちゃくちゃな声量で怒鳴り散らす。小麦色の髪を振り乱して、私の首を絞め、目を血走らせながら。

「……死にたい?」

 私は訊く。


「なんで、死にたいって思う?」


 その瞬間、彼女は痙攣したように震え始めた。こめかみから異常な量の汗が吹き出し、私の首を掴んでいた腕がだらりと下がった。

 彼女は瞬きもせず、涙を流していた。その瞳は忙しなく動き、この部屋に何か別のものを見ているようだった。

 その視線がある一点で止まる。

 転がっている果物ナイフで。

「やだぁ、やだぁッ」

 彼女の行動は速かった。私の上から離れ、果物ナイフに飛びつく。それを手に取ると、彼女は私の胸に向かってそのナイフを――。

 突き刺し、そして私はそのナイフを台所の外に転移させた。

 条件反射のようなものだった。私の仕事では、こんなことはよくあることだから。

「うあぁッ」

 突き刺したはずのナイフが突然消えたことで、彼女は勢いを殺せず私に抱きつく形となる。その細身の身体が、私に密着した。

「…………よいしょ」

 私はそのまま、彼女を抱きしめる。骨張っていて、今にも壊れてしまいそうな身体だった。

 でも、ちゃんとに温度はある。

「……ぁ」

 私の耳元で、彼女が息を呑む声が聞こえる。私はそれを無視して、彼女の背中をしっかりと抱き留め、

「……大丈夫」

 囁いた。

 彼女の手はナイフを握った形のまま私の胸元で丸められている。私は右手でその手をゆっくりと解いた。

 その右手を、今度は彼女の頬にもっていく。

「死ねないよ。あなたは」

 乱れている髪を、耳にかけてあげる。

「あなたが死のうとしても。私が、何回でも邪魔するから」

 あなたが死にたがるなら、私は必死に説得するだろう。

 あなたが死のうとするなら、私はそれを全力で防ぐだろう。

 そしてあなたが死んだなら。

 私はもう一度、あなたを召喚する。

「ダメ。死んだら、ダメ」

 彼女の頭を、胸に抱いた。

 私の胸は熱いもので濡れ、忍ぶように、嗚咽が聞こえてきた。

「……大丈夫」

 私が言うと、彼女はおそるおそる、私の背に腕を回してきた。

 その腕は、強く、強く、私を抱いた。

 痛いくらいに、強く。

 赤ん坊みたいに。

「……そっか」

 まだ、この女の子は赤ん坊なのだ。

 この世界に生まれついてから、まだ二日なんだから。

「……ん」

 私は彼女と抱き合いながら、自分でもよくわからない温かい何かが胸の内に生じるのを感じた。

 もしかしたらその何かが欲しくて、私は召喚魔法の研究を始めたのかもしれない。

 そんなことを、ふと思った。

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