パン
結局、彼女は一晩中泣いていたようだった。
朝リビングで目を覚まして、部屋に彼女の様子を見に行くと、やはり部屋の隅で体育座りをしていた。彼女は目元を赤く腫らし、睡眠不足で隈も出来ていた。開けっ放しのカーテンは朝日をふんだんに取り込んでいるが、それは部屋の隅にまでは届いていなかった。
少女は部屋に入ってきた私を睨みつけ、私の一挙一動に警戒を怠らずにいる。私が着せた白いサマードレスの首回りが赤く染みになっているのが、何とも痛々しい。
私は声をかけようと口を開きかけ、慌てて言葉を探した。
「…………おはよう」
朝一番なのでまずは挨拶だろうと思って、そう言った。声が上擦り、少し震えていたが普通に聞こえたはずだ。
少し待っていたが、彼女は何も返さなかった。ただ苛立ったように、垂れ目な瞳をつり上げてこちらを見ている。
怒っているのだろうか。だとしたら、何に対して怒っているんだろう。
「…………そっか」
もしかしたら、お腹が空いて機嫌が悪いのかもしれない。召喚されてから一口もものを口にしていないのだから、当たり前だ。
私は台所からパンを持ってきて、彼女の前に置いてみる。猫に餌付けでもしているみたいで、なんだか妙な気持ちになってくる。
彼女は不審な目で私の置いたパンを見る。じっくり数十秒視線を注いだあと、それに手を伸ばした。
やっぱりお腹が空いていたんだな、と安堵した。
瞬間だった。
少女はいきなり、そのパンを私になげつけた。頭にちょっとした衝撃が加わり、私は軽くよろける。それを見て、少女は体当たりしてくる。
「…………ッ」
ガンッと鈍い音が響いた。
私より大きい身体に体当たりされ、私は床に叩きつけられた。背中を勢いよく打ってしまい、少しせき込んでしまう。からんころん、という音がした方を見ると、私がつけていたカチューシャが吹き飛んで転がっていた。
「しんじゃえ……しんじゃ、えッ!」
女の子は目を血走らせて私の上に馬乗りになった、と思ったら、頬に堅い痛みが走る。ゴツン、とそれは奥歯にあたり、舌は鉄の味がする熱い液体を感じる。少女は固く握りしめた拳で、私の顔面を何度も何度も殴ってくる。
「しんじゃえ」だとか「ころしてやる」だとか何かをわめきながら、彼女は拳を振るった。私のすぐ目の前にあるその顔は真っ赤に上気し、目を見開いている。その目から私の頬に涙がポタポタ落ちてきている。前髪から、汗が滴り落ちてくる。
素直に痛かったし、わけがわからなかった。
なぜ私は殴られているのか。私がいったい何をしたのか。理由を説明されることなく浴びせられる暴力に、私はただただうろたえた。
そのうち、頬に感じる痛みの中に熱い液体が混ざり始めた。それが私の頬からの流血だったのか、彼女の拳からの流血だったのかはわからない。でもとにかく彼女の拳は血で濡れ、疲れたのか次第にパンチは弱くなっていった。
彼女の腕はついに動かなくなり、両腕はだらんと重力に任せて揺れるだけになった。
「あ、ぁ、ぁ、あああぁあぁぁっぁっぁああッッ!」
少女は狂ったように泣き始めた。
血に染まった自分の両手に、目を見開きながら。
「…………大丈夫?」
どうすることも出来ないので、私は手を伸ばし、彼女の両手を握った。触ると、やはり少女の小さな手の甲は切れていた。
こんなになるまで私を殴るなんて……そんなに私のことが憎らしかったのだろうか。
私が傷口をさすると、彼女は私を見て、
「さわらないで」
と言った。
その声はひどく怯えていて、瞳を覗いてみるとそこには何も映っていなかった。私の方を向きながら、この女の子は私以外の何かを見ていた。
私は彼女の両手に、魔力を注ぎ込んだ。両手の傷はみるみるうちに塞がっていき、元通りの白く美しい肌に治った。
「…………もう、痛くはない?」
私が言うと、彼女はコクリと頷いた。そして、思い出したように私の手を振り払った。
「ごめんなさい」
疲れ切ったように言った。そして、彼女はそのまま電池でも切れたみたいに、私に倒れかかってきた。
彼女の重みが私にのしかかり、けれどそれは彼女の背丈に見合わないほど、軽かった。息遣いが聞こえ、心臓の鼓動が聞こえるほどの距離になって初めて、私は彼女が痩せすぎていることに気付いた。骨ばった身体は少女らしい柔らかさを有してはいなかった。
抱きつくような体勢で、少女は気を失っていた。その頬に自分の頬を触れ合わせてみると、寂しい温かさが感じられた。
そばに転がっているパンを見つけたので、私は手を伸ばした。そして、そのままの体勢でパンをかじってみた。
そのパンはどうしてだか、しょっぱかった。
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