三日目


 嵐はひどくなっていた。

 わたしはミアのベッドで目覚めると共に雷鳴を聞いた。いつもなら驚かないわたしだけど、ひとりぼっちの今日は無理だった。思わず悲鳴をあげたあとに赤面して、そしてミアのいないことを痛感して少しだけ泣いた。

 腐っていないかとか何も考えずに、台所に置いてあった昨日のフレンチトーストを食べた。ほんの一切れ飲み込むのに何十分もかかって、いよいよわたしはダメになっちゃったんだと思った。

 今日はミアが帰ってくる日だ。

 いつもみたいに夕方頃には帰ってくるんだろう。

 だからそれまでに、家を掃除しておこう。この二日掃除をサボっていたから、きっと埃がたまっている。

 自分に言い聞かせた。雑巾を持ってきた。バケツに水を張った。水面に、ぽたぽたとたくさんの波紋が浮いた。わたしの涙だった。

 なんで涙が出てくるのかわからなかった。嵐がうつったのかなぁ、と思った。まずリビングを雑巾掛けして、次に自分の部屋をざっと拭いた。ちょっとだけ雑巾が黒く汚れたので、バケツで洗った。

 ミアの部屋に入った。そう言えば、ミアの部屋を掃除するのは久しぶりだ。最近は掃除しようとすると「私がやるから大丈夫」とわたしの手から雑巾を奪って引っ込んでしまうんだ。

 わたしはきっちりと隅々まで雑巾をかけた。隅々と言っても家具がベッド以外一つもないので、掃除は簡単だった。

 ミアのことだからベッドの下は埃がこんもりだろうなぁ、なんて微笑んで、ベッドの下を覗く。

「……あれ?」

 ベッドの下に本のようなものがぽつんと落ちている。寝ながら読んでたら落としちゃったんだろうか。

 手を伸ばして引き寄せる。すると感触は思ったよりも軽くて、それが本ではなく書類の束であることがわかる。

 表紙は無機質な布地で、何も書かれていない。不思議に思ってページを捲ってみると、私が読めない魔法文字で埋め尽くされていた。他のページも全部が全部この文字で、それが数百枚に及んでいた。

「これって……」

 私が召喚されてまもない頃、一生懸命にミアが机に向かっていたことを思い出す。確か、『論文』とか言っていたような気がする。

 それがなんで、こんなところにあるんだろう。

「……え?」

 その『論文』を何とはなしに裏返してみると、そこには私にも読める文字で何かが書かれていた。私は何か感じるものがあり、ミアのベッドに座って居住まいを正した後に、それを読み始めた。


 ○からあげ

 リリィが初めて私に作ってくれた茶色い石ころみたいな料理。

 作っているところを見れなかったから作り方はわからないが、具材は……始祖鳥の肉、小麦粉、牛乳、山菜……だったと思う。私がリリィに頼まれて王都に買いに行ったというのに、正確に材料を覚えていない。

 だけれど、味は覚えている。周りのかりかりしているところはとても香ばしくて、それを噛むと中には肉が入ってて、その肉から溢れる汁が本当においしい。リリィは香りをつけるために肉と一緒に山菜を入れていると言っていた。その試みは大成功している。

 私とリリィが仲良くなった料理。

 リリィが初めて笑った日の料理。


「これって……」

 ミアの、日記?

 あまり綺麗とは言えない字の隣に、これまたお上手とは言えない絵が描いてある。大きな皿に茶色い物体がごろごろ載っている絵で、たぶんからあげだろう。

 驚いて、次のページをめくった。


 ○すくらんぶるえっぐ

 リリィが良く朝ごはんに作ってくれる黄色い料理。

 ふわふわで甘くて、これだけでも十分おいしい。が、リリィ特製のトマトソースをかけるともっとおいしい。元々が甘いので、酸っぱくてちょっとしょっぱいトマトソースがアクセントになって、パンが進む。戦いの前にはもうこれがないとダメな身体になってしまった。

 材料は卵を使っていると思うけど、それだけではこれほどおいしくはならないと思う。もう少し研究が必要。

 一番最初に作ってくれたときに、リリィが自分の分もくれたのを覚えている。


「……そっか」

 これは別に、日記というわけではないんだ。

 たぶん、ミアが食べた料理のことを思い出してまとめている、言ってみれば料理本みたいなものなんだ。からあげもスクランブルエッグもとても好評みたいでなんだか胸がむずむずする。面と向かって言われても恥ずかしいけど、こうやってこそこそ褒められるのも恥ずかしい。

 でも恥ずかしいからと言ってそこで読むのを止められるはずもなく、指は勝手に次のページをめくっている。


 ○ふれんちとーすと

 すくらんぶるえっぐと同じ、朝ごはん代表。

 とても甘くて、昔におばあさんが作ってくれた『おかし』というものに似ている。普通の食パンがふれんちとーすとになると食感がもちもちになるので不思議だ。よくリリィに「食べ過ぎると身体に悪いよ」と注意されて、一食につき三枚、というルールまでつい最近決められてしまった。

 材料はまったくもって不明。もちろんそんなわけないだけれど、実はリリィは魔法を使えるのではないか、と疑ってしまう。


 ○しちゅー

 温かくて、食べると幸せになる料理。

 家の外にいても匂いがするので、リリィがこれを作っているときはすぐにわかる。しちゅーの匂いがする時はいつも、川の水浴びを思わずさっさと切り上げて、急ぎ足で帰ってきてしまう。白いスープの中に柔らかい野菜とお肉が入っていて、パンをつけて食べるとほっぺたが落ちそうになる神がかったおいしさ。

 材料は野菜とお肉……というのはわかるのだけれど、肝心のスープがどうやって作られているのかわからない。リリィの二つ目の魔法。


「どんだけ食べるのが好きなの……」

 ふふっ、と笑ってしまう。気付けば、雑巾をほっぽり出してミアの料理記録に夢中になっていた。

 読み進めれば読み進めるほど、愛おしさがこみ上げてきた。普段あまり感情を顔に出さないミアの思いが、私との思い出が、直接書き殴ってあった。鉛筆の線を指でなぞると、ミアの吐息や鼓動が感じられた。そして、ミアとの楽しかった日々の思い出が脳裏を駆け巡った。

 汚しちゃいけないと思いつつも、論文にはわたしの涙の跡がたくさんついてしまう。

「これが、最後のページ……」

 こんな料理作ったなぁ、なんて懐かしく感じながらどんどんページをめくって行き、気付けば最後のページまで来ていた。私は涙を拭って、視線を落とした。


 ○おむらいす

 リリィが作るものの中で、一番好きな料理。

 ご飯を包んでいる卵はふわふわでとろとろで甘くて、ご飯は香ばしくてちょっと酸っぱくて、とてもおいしい。だけど、おいしいことだけが一番好きな料理の理由ではない。おむらいすが好きな本当の理由は、おむらいすを作っている時、食べている時のリリィの表情が、一番生き生きとしているからだ。幸せそうに笑っているからだ。

 おむらいすは、リリィの一番の得意料理らしい。前世の記憶の中でも、おむらいすを作っている時だけは楽しそうだった。

 だから私は、おむらいすが好きだ。リリィが作って、リリィと一緒に食べるおむらいすが好きだ。

 そしておむらいすは、唯一作り方が全部わかっている料理でもある。前にリリィと一緒に作ったことがあるから、たぶん一人でも作れる……と思う。でもやはり、一人で作ってもあれほどおいしくはならないだろう。リリィがいないと、きっとそれほどおいしくはない。

 ああ、書いていたらだんだんおむらいすが食べたくなってきた……。


 ○おむらいすさんど

 リリィとぴくにっくで一緒に食べた思い出の料理。

 おいしくて、おいしすぎて、泣きそうになって、それがリリィにばれないようにたくさん食べた。これがもしかしたらリリィの最期のオムライスになるかもしれない。もちろん、絶対にそんなことになるはずないって思っているけれど、でもやはりそう考えずにはいられなかった。

 それを食べた後、寝たふりをしていたら本当に寝てしまって、気付いたらリリィがいなくなっていた。そしてリリィの元に転移してみたら、前に逃がした一角龍がリリィのことを襲っていた。

 私のせいだった。私があの時、きちんと仕留めることが出来ていれば、リリィがあんな目に合うこともなかった。

 その罰なのだろうか、左腕を失った。滝壺の激流に飲まれてしまったので、座標を特定することが出来ず、転移させることが出来なかった。魔力のほとんどを今日使ってしまった。創命龍はこんな状態で戦える相手ではない。

 どうしよう。もしかすると、本当にこれが最期のおむらいすになってしまうかもしれない。リリィと一緒に食べれる最期のおむらいすに。

 嫌だ。

 そんなの嫌だ。

 リリィ、ごめんなさい。


 『リリィ、ごめんなさい』。

 その一文で、料理記録は終わっていた。

 わたしはきつく目を閉じた。握った拳で自分の足を何度も殴った。何もかもが真っ黒だった。自分がどうすればいいのか、そもそもなぜこんな過ちを犯しているのに生きているのかがわからなかった。自殺出来たらどんなに楽だろうと思った。

 ミアの『心配しないで』は、やっぱりサインだったんだ。ミアは最初から死地に向かうつもりだった。死地に向かい、それでもわたしのために生還しようとわたしと約束したんだ。

 ミアの約束が『帰ってくること』ならば、わたしの約束は『待つこと』だろう。それにまだ、今日は終わっていない。お昼になったばかりだ。ミアは帰ってくる。絶対に帰ってくる。ミアは最強の、魔法少女なんだ。

 わたしは論文を胸に抱いた。胸に抱いて、ミアのベッドに座った。嵐が暴れる音がする。がたがた、ざーざー、びゅぅびゅぅ。音と、わたしだけが、そこにいた。

 時計の針を目で追っていた。ずっとずっと追っていた。途中でお腹が鳴ったので、台所で古びたパンをかじった。それからまたミアのベッドに座り、ミアの論文を胸に抱き、待った。ミアの帰りを待っていた。

 その間、ミアのことを考えた。ミアと自分のことを考えた。ミアはなぜわたしを召喚したのか。ミアはなぜわたしを助けてくれたのか。ミアはなぜわたしを大切にしてくれるのか。

 わたしにそこまでの価値があるんだろうか。わからない。わたしの人生で、わたしの価値を認めてくれる人は一人もいなかった。自分も含めて。

 わたしの価値を認めてくれるミア。わたしの唯一の人。ミアが帰ってきたらこの気持ちを伝えたい。オムライスも毎日作ってあげたい。ミアのためだけに生きたい。


 だから、おねがい、帰ってきて。


 長い時間が経った。嵐が時間の動きを遮っていたけど、黒雲の向こうでは確かに太陽がゆっくりと沈んでいった。やがて太陽は山の向こうに潜り、嵐がまた夜を支配した。

 時計が重々しく鳴いた。一分間、鈍く鳴っていた。

 今日が終わる音だった。

「…………ミア」

 一瞬部屋が白めき、遠くから雷鳴が聞こえた。

 今日が終わった。三日後の今日が終わった。

 

 ミアは、帰ってこなかった。








 〈ミアとリリィの章・終〉

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