二日目


 雨音と共に目が覚めた。

 いつもの習慣でミアを起こそうと彼女の部屋に顔を出すと、もぬけの殻だった。そうだ、ミアは今戦いに行ってるんだ……。

 一人分のフレンチトーストを作ってテーブルに並べ、静かに食べた。ミアがいる時よりも雨音は大きく響いた。薄暗い部屋で独りで食べるフレンチトーストは何も味がしなかった。

 食器を片づけ、昨日発見した本をテーブルに広げる。それと魔法文字(と勝手にわたしが名付けた)の翻訳辞書も持ってくる。文法が何もわからないので、とにかく単語を拾い、ミアが戦う生物を割り出さなくてはいけない。何という名前の生物なのか聞いておけば良かったと心から思った。

 ミアは確か「『新しく命を創造出来る』龍」と言っていた気がする。それがどういう意味なのかはわからなかったが、とりあえず辞書で『命』を引き、それに対応する魔法文字の単語を本から洗っていくことにした。

 正直、この作業は昨日よりも辛かった。その本は気が遠くなるような文章量で、気味の悪い挿し絵がところどころに描かれていた。そのほとんどがおおよそわたしが思いつく気持ち悪い生物を遙かに越えていて、冒涜的なあり方をしていた。腕と鼻のみで形作られた多足生物、女性器のなる森、害虫が解け合った粘着質の固まり……吐き気を堪えながらの作業に、泥沼のような疲労は蓄積していく。

「…………でも」

 それでもやめるわけにはいかない。わたしがミアのことで知っていることは少なすぎる。だから、知れることはなんでも知っておきたいんだ。

 ……ううん、それだけじゃない。ほんとはそんな理由じゃない。

 もちろんミアのことは知りたいと思う。だけど、ミアが生きて帰ってきてくれなきゃ、そんなことに何も意味はない。

 わたしは安心したいんだ。ミアの『心配しないで』という言葉を聞いてから感じているこの不安を払拭したいんだ。この本の中で、ミアの戦っている相手についての『この生物は禁忌種と言ってもそこまで危険ではなく……』という記述を発見したいだけなんだ。

 ミアは必ず生きて帰ってくるんだ、って。保証が欲しいだけで。

 何も力を持たないわたしはこの本に縋るしかないんだ。



 お昼を過ぎても雨が止む気配はなかった。

 わたしは淡々と『命』を意味する単語の抽出作業に勤しんでいた。

 『命』という単語を見つけたらそのページに栞を挟んでいく。先に全ての『命』の単語を抽出して、それからそのページの記述を訳そうと考えていた。

 『命』の出てくる回数は意外に少ない。半分を過ぎたところで発見した『命』についての記述があるページは三ページ。それに、一ページで三単語程度だ。ミアが戦っている生物についての記述なら『新しく命を創造出来る』という説明があるはずなので、『命』という単語もきっと数が多くなるだろう。だからたぶん、まだ該当のページは出てきていないんだと思う。そもそも、その三ページは挿し絵が龍っぽくなかったし。

 本に書かれている生物は相変わらず気持ち悪かったが、本自体はとても綺麗だった。ミアはああ見えて意外にきちんとしているのかもしれない。

 途中で一ページ破かれたような跡があったのが気になったが、それ以外はシミ一つなかった。

 章の区切りなのか空白のページが一ページ挟まっていたので、わたしも休憩にする。陰鬱な雨のせいで食欲がなかったが、何か食べないと頭が働かなくなる。

「……また、ひとり」

 台所からフレンチトーストを持ってきて食べた。冷めて固くなったフレンチトーストはやっぱり何も味がしなくて、よく味わってみたらそもそも砂糖が入っていないようだった。もしかしたらわたし、結構重度に疲れているのかも……。

 少しだけ昼寝でもしようかと思ったけど、やっぱり止めておく。なんとなくだけど、今寝たら悪い夢を見るような気がした。ミアについての悪い夢を。

 悪夢なら夜に寝ればいくらでも見れる。今は作業を進めよう。

 そう思ってまたひたすら魔法文字を追っていく作業に戻った。ページをめくればめくるほど雨風は強くなっていった。そこまで頑丈に出来てはいないわたしたちの家はみっしみっしと悲鳴をあげ、すきま風がページを踊らせた。わたしは肘で本を押さえながら魔法文字の海を泳いだ。ミアを目指して。わたしの愛しい人を目指して。

 最後のページまでたどり着いた。それまでに『命』という文字が出てきたのは合計七ページ。そのどれもが『命』を数個しか使っていなかった。挿し絵も龍とは程遠い異形ばかりだった。

 記述を訳すまでもなかった。

 この本には、『新しく命を創造出来る龍』は載っていない。



 その夜、嵐と化した雨風が扉を叩く音を聞きながら、『禁忌種』についての本の表紙をじっと見ていた。紅色の龍革は鈍い輝きを放ち、テーブルの上にどっぷりと居座っている。しかしその中にわたしの目的の龍についての記述はなく、それはつまりわたしの願いの終焉に他ならない。

 もうわたしに出来ることは本当に何もない。ただミアを信じて帰りを待つだけだ。

 気付けばもう日付が変わろうとしている。明日の一日を過ごせば、ミアが帰ってくるはずだ。

 ミアの身に、何もなければ。

 正直、不安だった。ミアは普段、なんということもなくふらっと戦いに行っては夕方に血だらけになって帰ってくる。それは全部返り血で、自分は傷一つついていない。ミアにとって『戦い』は言うまでもなく無傷で帰ってくるものなんだ。

 それなのに、『心配しないで』。

 やっぱり、心配するようなことになる可能性があるんだと思う。

 今思えば、あのときにわたしはミアを止めるべきだったんだ。

『行かないで』

 一言そう言えれば良かったんだ。きっと、そうすればミアは行かないでくれた。

 ……ほんとうに?

 ミアは一昨日、自分の左腕を犠牲にしてでもわたしを守ってくれた。漫画の中の魔法少女みたいにわたしを助けてくれた。そんなミアが、わたしを独りにしてまで死地に向かおうとするだろうか。

 たぶん、行かざるをえない理由があるんだと思う。それはきっとわたしが知らなくていいことで、ミアがわたしに知られたくないことなんだ。

 だから、わたしが何を言ってもミアが『戦い』に行ってしまうことは避けられなかったんだろう。

 ああ、なんて受動的なんだろう。わたしはただ守ってもらうだけで、何も知らなくてよくて、ミアがひとりで全部を背負って。

 ミアのために何かがしたい。でも、わたしには力がない。

「……ねぇ」

 わたしはミアの部屋に入った。いつもは「バトルアックスがあるから危ない。リリィは立ち入り禁止」とミアが言う。そのミアは、いない。

 ミアのベッドに倒れ伏した。微かに、ミアの香りが残っていた。

「……ねぇ、ミア」

 枕に鼻を擦り付けた。

「なんでミアは……わたしを召喚してくれたの?」

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