2-7 任務開始

 大君大臣と葵さんたちが去ったあとも、海に向かって敬礼をし続けているキリンにぼくは言った。「キリン?」


 ——突然、キリンは落ちるようにザッと砂浜に膝をつくと、そのまま正座を崩したような、女の子座りになった。それからくにっと首をねじ曲げて、涙ぐんだ顔でぼくを見上げる。


「ど、どうしたの!? 大丈夫!?」


「悪い稀、ちょっと背中をさすってくれ」


 ぼくはキリンの横に両膝をつくと、その大きな背中を手のひらでさすり始める。キリンは飛行服の袖でぐいっと涙を拭うと、特大のため息をどはっとついた。


「……ついに来ちまったな、今日という日が」


「……?」


「ずっと、ずっと思ってたんだ。いつか、こんな日が来るんじゃねえかって。おれたちが、世界を救う日が……」


「大げさだよ」


「んなことあるかよ」キリンはがふっと鼻を鳴らしながらぼくを見た。「自衛隊のTOPが直々に頼みに来たんだぞ? つか思い出せよ、帰り際の大臣の台詞を。本当なら総理が来るべきだった、申し訳ねえって言ってたじゃねえか。な? 全然大げさなんかじゃねえだろ?」


「まあ、かな」


 キリンはさっと前を向くと、涙声で言った。「しかも枢機さんが生きてんだ。何よりもおれは、それが嬉しくてよ……」


「……うん」


 横から見えるキリンの目には、また涙が溜まり始めていた。ぼくは背中をさする手に力を込めた。


 もう一度ぐいっと袖で涙を拭い、ふう、とキリンは息をついた。「なあ稀よ」


「うん?」


「絶対に、絶対に見つけような、枢機さんのこと」


「うん」


「そんで世界を救おうな、おれたちの手で」


「うん!」


「……そしたらニカねえも、元に戻れっかな」


 ぼそりと付け加えたキリンに強い調子でぼくは言った。「きっと大丈夫だよ。訊きそびれちゃったけど、ユニカ先輩のことも、今回のことと関係してる気がするし」


「やっぱりそうか?」


「きっとそうだよ」


 キリンは大きく頷くと、肘を枕にしてのっそりと横になった。「じゃ、どうするか決まったら起こしてくれ」


「……えっと、どうしてそうなっちゃうのかな。ってその前に、仮想時空間で眠ってどうするのかな」


 は? とこっちを見ないままキリンは言った。「ここででも睡眠は有効なんだぞ? しかも今のおれたちは、イマジン+のモード上にいるんだ。だから一、二時間眠っても、現実じゃたったの一秒にもならねえんだなこれがまた」


「……。妙にリアルな時間だけど、まさかそんなに寝るつもりじゃないよね?」


 キリンはマフラーを襟から引っ張り出すと、目の上に載せた。どうも本気で眠ろうとしているようだ。


「……。ねえキリン、念のために言っとくけど、もしかして忘れてないよね? 任務が終わるまで、ぼくらの思念は大君大臣と葵さんに傍受されてるってこと」


 葵さんいわく、この思念の傍受行為は、何かトラブルが起きたときの、ぼくらの強制的なログアウトを主な目的としているということだった。基本的にイマジンのゲームは、仮想時空間内で万が一死に至ったとしても、実際には充分すぎるほどの精神的な余裕の下、そのままゲームの一時中断か、強制ログアウトをさせられる仕様になっているのだけれど、今回は変則的なケースだから、念には念を入れて、そうして生身の人間の監視下に置いて、安全を確保しておくということらしい。もちろん、情報収集やその他の目的もあるのだろうけど、ぼくたちにとってもそれはありがたいことだった。


 だしぬけにキリンは腹筋運動をし始めた。


「はっ、寝るなんて冗談に決まってんだろ、世界の危機なんだぞ? こうして横になったのは腹筋運動が目的だ。はっ、ほっ」


 勢いよく始めた割りには、どうやら三回で終わりのようだ。


 その後キリンは座った体勢になると、マフラーを元通り襟ぐりに押し込み、立てた片膝の上に片肘を置くという無駄にかっこいいポーズで海を眺めだした。一瞬まさかとは思ったけれど、鼻を大きく膨らませているところを見ると、早くも息切れしてしまったらしい。そのことを必死でぼくに隠しているようだ。バレバレなんだけど。


「よし、じゃあ次は闘犬のおさらいといくか」キリンが言った。「稀よ、さっき葵さんから言われたことを言ってみろ。覚えてるか確かめてやっから。ほれ」


 果たしてどこから突っ込もうかと思ったけれど、曲がりなりにもやる気になってくれたんだから、まあよしとしておくことにした。


「えーと、さっき葵さんがモードの切り替えをしてくれたみたいだから、ここは既にストーリーモードの中で、このモードのエンディング付近に行くことのできる場所に枢機はいるから、しばらくは普通にゲームを進めてけばいいって言ってたはずだけど……キリンはやったことないの? ストーリーモード」


 海を眺めたままキリンは言った。「やるわけねえだろそんな面倒なもん。おれは地道な行為ってやつが何よりも嫌いなんだ」


 一体なぜそこまで得意げに言えるのかがまったくわからなかったし、それを大君大臣たちに聞かれても平気なのだろうかと思ったけれど、まあ放っておくことにした。


「うん、それはよく知ってるから。あ、あとはそう、確か難易度が最大の、ハードモードになってるんだよね。そしてアバター使用とログアウト以外のコマンドも、一応は使えるってことだったよね」


 言いながら試しにぼくは、親指の先端で人差し指の腹をピスッと弾いてみた。すると通常通りの見慣れたコマンドが立ち上がった。


「よし、オッケーと」ぼくは視線で操作してコマンドを消した。うん、これも通常通りだ。「それじゃあとりあえず知ってることを教えてほしいんだけど、ストーリーモードの」


 キリンは立ち上がった。「うし、じゃあ歩きながら教えてやっか」


 ぼくたちは海岸線から離脱すると、内陸へと向けて歩き始めた。

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