1-7 十歳の時のぼくとキリンと聞き取れなかった枢機の言葉

 その日、ぼくらは十歳だった。


 正月を迎えたばかりの頃で、信じられないくらいにお年玉をもらったキリンと一緒に、街で一番大きなおもちゃ屋にいたときのことだ。


 ふっとキリンがいないことに気が付いて、店内を見渡すと、顔見知りの同級生と共に、店を出てゆこうとする姿が見えた。


 一体何なんだろう?


 駐輪場の奥へ向かった二人のあとをなんとなくついて歩き、外壁の陰から踏み出そうとした、直前だった。


 見るからに柄の悪い、ナイロン製の黒ジャージを着崩しているいかつい二人組の姿が見えて、反射的にぼくはさっと身を隠した。震え始めた両足に力を呼び戻そうと、懸命になって足裏に力を込める。


 かつあげだ、と思いながら。


 決死の思いで覗き見ると、青と黒のまだら髪のツーブロックの方が、キリンから取り上げた腕時計型ウェアラブル端末をいじっていて、紅いドレッドヘアーを九つのブロックに分けている方が、キリンの正面に立って頭を小突いていた。


 顔見知りの同級生は利用されたようだ。最奥さいおうで怯え交じりの表情をしながら呆然と立ちつくしている。


 更に絶望的なことに、ぼくはその二人組を知っていた。それは武闘派でよく知られている、とある右翼団体の事務所に出入りしていることで有名な、高三で双子の兄弟だった。噂によると、一年生のとき、二人揃って極真空手の全国大会へ出場したことがあるという経歴の持ち主だった。


 またキリンが頭を小突かれ、ぼくの足はいよいよ立っていられないほどに震え始めた。


 ——早く終わってくれ。


 足の震えを必死で抑えながら、ぼくは内心でそう思っていた。と同時に、繰り返しキリンに謝っていた。ごめんキリン、見殺しにしてごめん……と。


 また一発頭を小突かれたキリンが、ついに半ズボンの尻ポケットから財布を取り出そうとした、そのときだった。


 ぼくを呼ぶ声に振り向くと、そこには、枢機が立っていた。日課であるランニングの途中だったようだ、上下白いジャージ姿で、首に水色のスポーツタオルを巻いていた。汗に濡れたナチュラルショートの毛先が束状になっている。もちろん、髪の色もまたナチュラルの自然な黒だ。


 ——どうした? 稀。


 当然のように話しかけてきた枢機に、なんでもない、とそう伝えるために、ぼくは左右に首を振った。


 けれど枢機は、去ってくれなかった。ぼくの前までやって来ると、奥の光景に目をやった。そして瞬時に何が起こっているのかを見て取ったようだ。


 それがわかったからこそ、ぼくは枢機を見上げながら、左右に首を振った。出て行かないで、という想いを込めて。


 なぜならそのときの枢機は、所属していた高校のバドミントン部の、大きな試合を控えていたからだ。何かトラブルを起こしたら、その試合に差し支えがあることを、弟のぼくは知っていたからだ。加えて何よりも相手が一つ歳上で、人数が多かったからだ。悪名高い不良だったからだ。いくら枢機でも、敵わないだろうと思ったからだ。


 にもかかわらず、枢機はぼくを見下ろすと、にっこりと微笑んだ。


 ——心配するな。


 ——でも……


 枢機は無言のままにぼくを手のひらで制すると、咳払いをしながら踏み出して行った。そして静かながらも、確固たる意志を感じさせる動作でキリンのすぐ前に立った。キリンを守るかのように、いや完全に守るべく、キリンに背を向けた格好で。


 青黒まだらツーブロックが言った。


 ——あ? なんだてめえは。


 ——近衛枢機です。


 枢機が名乗ったからだろう、二人は腰を折って笑い始めた。


 ——何名乗ってんだよてめえ、幼稚園児か。


 紅髮のドレッドヘアーがそう言いながら、思いも寄らないタイミングでシュッとパンチを繰り出して、枢機の腹を殴りつけようとした。


 けれど枢機は、一歩も動くことなく、手のひらでそれを防いでいた。パシッという乾いた音が小さく響いた。


 ——んのっ!


 青黒まだらツーブロックが一歩を踏み出しながら、枢機の顔めがけ、大きく拳を振りかぶった。


 枢機は髪の毛をなびかせながら、腰を落としてひゅっと避けると、立ち上がりざま、青黒まだらの胸ぐらを掴むと同時にトッと足を払い、すとん、と、自分よりも一回り大きなその体躯たいくをあっさりと地面へ横向きに倒した。


 そしてその隙を狙って再度殴りかかってきた紅髮ドレッドヘアーの拳を、また手のひらでパシッと防いだ。そのままつっと背筋を伸ばす。


 紅髮ドレッドヘアーの拳を握りしめたまま、彼の目をしっかと見据えながら枢機が言った。


 ——先輩方の兄貴分である、アオイさんという方を知っています。


 ——それがどうした。


 ——弱い者への恫喝を決して許さない、漢気に溢れた方であると存じています。


 とそのときに、紅髮ドレッドヘアーが、またしても思いも寄らないタイミングでもう片方の腕を小さく振りかぶり、シュッと枢機を殴ろうとしたけれど、枢機はそれも手のひらでパシッと防いだ。その手をぎゅっと掴んだままで、ぐっと下げながら枢機が続ける。


 ——どうでしょうか、今日この場には、誰もいなかったことにするというのは? そうすれば、このことがアオイさんに伝わることはありません。


 ——てめえ、おれら蜂群はちむれ兄弟を脅すつもりか?


 ——提案しているんです、丁重に。


 枢機と紅髮ドレッドヘアーは、そのままの格好でじっと見つめ合った。ほどなく紅髮ドレッドヘアーがくっと肘を揺らし、枢機が拳を放して、二人の両腕が自由になった。


 ——が、次の瞬間、またしても紅髮ドレッドヘアーが思いも寄らないタイミングで、枢機の頭を狙った回し蹴りをザッと放った。けれどそれは寸止めで、枢機のこめかみの前でピタリと止まった。


 ——なぜ、避けなかった。


 ——腰が入っていませんでしたので。


 紅髮ドレッドヘアーがくねらせるように足を下ろしながら、不敵に笑った。


 ——提案、呑んで頂けないでしょうか?


 ——そこまで言うなら、仕方ねえ。


 紅髮ドレッドヘアーはそう言うと、青黒まだらツーブロックと共にぼくの方へ向かって歩き始め、ぼくの横を通り過ぎて行った。その途中で青黒まだらが後ろ手に放り投げたキリンのウェアラブル端末を、枢機が掬うようにキャッチした。


 気が付くと、ぼくらは泣いていた。もちろんそれは、怖かったからだし、悔しかったからだし、ホッとしたからだった。同級生とキリンに限っては、間違いなくそうだったはずだ。


 けれどもぼくの涙だけは、ちょっと違っていた。なぜならぼくの涙には、腹立ちが交じっていたからだ。キリンを見殺しにしようとした自分に対する、そこはかないとは言え、確かなる腹立ちが。


 ぼくは涙を拭いながら、目の前に立った枢機を見上げた。


 ——枢機、ぼく、ぼく……。


 枢機がぼくの頭に手をぽんと置いた。


 ——れ、稀。


 ——?


 ——***ったら、*****だ。


 そう言って枢機はぼくの髪をくしゃくしゃにしたのだけど、まとわりつく眠気が邪魔をして、全てを思い出すことができなかった。


 あのとき枢機は、一体何て言ったんだろう?

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