12 あまりの早業に呆然と立ち尽くすだけの晴夏ちゃん。

 次の日は10分前くらいに事務所に入った。店長さんが一人でデスクに向かっている。見たところ……別に何もしていない。ただ座ってぼんやりしているように見えた。


 「おっはよ。晴夏ちゃん。ふふ~ん」


 店長さんが緩んだ笑顔で出迎えてくれるのはいつものこと。晴夏も作り笑顔で返す。


 「おはようございます、店長さん」

 「今日も可愛いね。脚長いね」

 「ふふ。ありがとうございます」


 初めは少し戸惑ったが、店長さんのこんな戯言にも慣れてきた。更衣室で着替えを済ませてから今日のシフトを確かめると、今いるのは沢と『白』さん……あと祐希先輩。


 「あの店長さん、これ、ハクさん、ですか?」

 「ああ、たぶん今売り場やってる。見て来たら?」

 「はい」


 晴夏はまずカウンター内に入って沢に挨拶した。


 「沢さん。おはようございます」

 「おはよう……」


 何となく言葉がつながらない。


 「あ、あの、沢さんって、下の名前なんて言うんですか?」

 「え? ……胡桃だけど。なんで?」


 理由を聞かれても困るのだが、晴夏は合わせるように答えた。


 「や、あのー。もし良かったら下の名前で呼ばせてもらえたらなあ……って」

 「別にいいけど」

 「ほんとですか? ありがとうございます。胡桃先輩……ちなみに、私は晴夏って言います」

 「あ、そう」


 そこにお客様が来てしまったので晴夏は退散した。カウンターから直接売り場に出ると、手前からお弁当やパックの飲み物が並んでいる。ハクさんは見当たらなかったが、先に祐希を見つけたので晴夏は挨拶した。


 「祐希先輩、おはようございます」

 「おはよー……何やってんの?」

 「いや、とりあえず挨拶しようと思って……あの、ハクさんってどこにいますか?」

 「たぶんウォーク。バックヤード入ると事務所と反対側に扉あるでしょ? そこから入れるから」

 「そうなんですか? 行ってみます……あの、今日もよろしくお願いします」


 祐希はちょっとだけ微笑んでくれた。祐希に言われたように『OFFICE』の扉から入って事務所のほうに行かずに、反対側の備品が積んであるところを覗き込むともう一つ扉があった。

 軽く開けようとしたが密閉されている感じで開かない。晴夏はもう一度レバーを引いてから少し力を入れて勢いよく引いてみた。するとボワッとゴムが擦れるような音がして扉が開いた。

 中は薄暗くてはっきり見えなかったが店員さんが一人中にいて、床に置いた段ボールからペットボトルを取り出して棚にしまっているようだった。


 「あの……」


 強い空調のような音がして声が聞こえにくい。あと、冷蔵庫の中みたいな冷たい風が晴夏に当たる。


 「すいません!」


 晴夏は左手で開けた扉を掴んだまま奥に向かって少し大きな声で言った。


 「はい? あー」


 作業を中断して近付いてくるにつれて姿がはっきりしてきた。晴夏より少し背が高くて華奢な感じの、たぶん中国の人。


 「私、新しくバイトに入りました、麻白です」

 「真っ白?」

 「真っ白じゃなくて……ま、し、ろ」

 「ああそうですか。ま、しろ、さん。私の名前はパグスェイです」

 「ハク、スェイ……さんですね?」

 「はい。いいです。発音ちょっと難しい。ハクでいいです」


 終始笑顔で明るい女性のようで、気分的には話しやすかった。


 「ハクさんは留学生ですか?」

 「はい、留学で、城京大学に入った」

 「そうですか。日本語上手ですね」

 「ははは、上手はないですよ。日本語を教えてください、はは」

 「ははは」


 最初の1時間はいつものように掃除。1時間で出来ることをした。


 「祐希先輩。掃除終わりました」


 祐希はいつもの席で店長さんと何か話して笑っていたが、晴夏に気が付くとすぐに仕事モードの顔になった。


 「あそう? じゃ、ちょっと来て」

 「はい」


 祐希についてカウンター内に行こうとする晴夏に、店長さんは無言で笑顔を送る。晴夏も少し大げさに笑顔を作って答える。このアイコンタクトが何となく定着してきた。

 前回と同じように祐希の横に並んで袋詰めをするように指示された。晴夏はただ祐希に見られているというだけで緊張した。


 「いらっしゃいませ!」


 祐希が一人声をかける。あ……タイミングを逃してしまった。祐希が少し厳しい目線をちらっと向けた。お声かけをしっかりしろという意味だと晴夏は思った。


 「20号」

 「箸」


 晴夏がどの袋を選ぶか迷ったときや、お箸など付け忘れそうになった時だけ、祐希が小声だが鋭く的確に指摘した。おかげであからさまな失敗はしなかった。だがそれ以外には祐希は説明もしないしアドバイスもしないし、もちろん相澤のような無駄話もまったくしない。晴夏はますます自分の緊張が膨らんでしまう気がした。


 「あと、肉まんひとつ」


 一人のお客様が肉まんを頼んだ。


 「はい! 肉まんですね」


 晴夏は勇んで中華まん什器に掛けてあるトングを掴んだ。だが重ねてある紙の袋を取ろうとした時に、手がひっかっかって10枚くらいばらばらと床に落としてしまった。


 「ああっ」


 晴夏は思わず少し大きな声を上げてしまった。とっさに祐希のほうを見た。まさか気が付いていないはずはないだろうが……祐希はまったく何の反応もせず澄ましている。しかし待っているお客様のほうが怪訝な顔で晴夏の様子を覗き込んでいる。晴夏は意図せずお客様と目が合ってしまった。


 「あ、何でもありません……ごめんなさい」


 晴夏は右手にトングを持ったまま慌てて床に落ちた紙の袋を拾い集めようと腰を屈めた。すると祐希が素早く近付いて晴夏が右手に握っているトングをよこせというジェスチャーをした。奪うようにトングを受け取ったかと思うと祐希は晴夏の目の前であっという間に肉まんを包んでテープで止めていた。

 

 「お待たせしました。ありがとうございました」


 祐希は何事もなかったかのように自然な口調でお客様を見送った。晴夏は悔しさやら恥ずかしさやらよりも、祐希の素早過ぎる反応に圧倒されて棒立ちのまま魅入っていた。

 祐希はそんな晴夏の様子などまったく構わず、売り場で商品を並べ直しているハクさんを呼んだ。


 「ハクさーん。ごめんちょっとレジ見ててくれる?」

 「はいー」


 ハクさんがレジに立つと祐希は


 「じゃ、麻白さん」


 と声をかけて先に事務所に消えた。晴夏は絶対に怒られるのだと覚悟した。

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