8 なぜか帰ろうとしない晴夏ちゃん
「おかえり。晴夏ちゃん」
結局がっつり部屋掃除をやり遂げて半ば放心状態で事務所に引き上げてきた晴夏に気付いた店長さんが、発注入力する手を止めて向き直った。
「疲れたでしょ」
「……いえ。大丈夫です」
答えたものの、実際には腕と脚が筋肉痛になりそうな感覚がある。さっき店長が出してくれたもう一つの椅子はいつの間にか片付けられていた。晴夏はさっきまで祐希が座っていた椅子に勝手に座った。
「掃除ばっかりで嫌になった?」
「……そんなこと、ありません」
「そう? でも想像してたのと違うでしょ」
「う~ん、でもいいんです。私、ここで働けるだけで」
太ももの間に両手を挟んで肩を落とした晴夏が言った。元気がない。店長さんは穏やかな表情で晴夏を見守っている。
「……次は何をしますか?」
晴夏が思い出したように尋ねた。
「そうだね。ええっと。もう8時か……じゃ、今日はここまでにしようか」
「……掃除、遅くなってすいません」
「ううん、別に……予定通りだよ。じゃ、レジで退勤のスキャンしてきて。もう着替えていいよ」
「あ、はい」
晴夏は静かに答えた。レジはけっこう混んでいて、数人が並んでいる。手前のレジは沢が対応していた。中央のレジを担当しているのは晴夏がまだ挨拶していない女性。今は話しかけられないのでそおっと後ろを通って、使っていない入口側のレジで名札をめくって『終了』のほうをスキャンする。レジがピッと音だけ反応した。
そういえば相澤の姿がない。たぶん晴夏が掃除をしている間に退勤したのだ。並んでいるお客様が晴夏のほうを見ている。晴夏は軽い会釈だけ返してそそくさと事務所へ戻った。
「あの、相澤さんはもう帰りましたか?」
「ああ、敬子5時までだったから、もう帰ったよ」
「そうですか……」
晴夏は壁に貼ってあるシフト表を眺めた。相澤は17時まで、それと交代で17時から22時まで『白』という人が入っている。
「今レジにいる人は、ハクさん、ですか?」
「そうだね。あ、そう言えば、麻白さんと白さん、白と白で純白コンビだね」
店長さんはそう言って笑ったが晴夏は首を傾げて苦笑気味。そのまま更衣室に入った。ジャンパーを脱いでハンガーにかけ、一瞬壁の鏡に映った自分を見た。ダッフルコートを脇にかかえて出る。
「次はいつ来れる?」
「いつでも大丈夫です。明日でも」
「そう? じゃあ……そうしよっか。5時からでいい?」
「はい。大丈夫です」
「これは控えだから持って帰って」
「あ、はい」
「それから、次回はサッキングの練習するから、これ読んできてほしいんだけど」
店長さんは対応手順や注意点が書かれた6、7枚くらいのテキストを見せると、雇用契約書の控えといっしょにクリアファイルに挟んで晴夏に渡してくれた。
「サッキング……ですか?」
「うん、商品を袋に入れてお客様に渡すこと」
「ああ。分かりました」
晴夏はコートをいったん椅子にかけて、受け取った書類を鞄にしまった。その鞄を床に置くと、黙ってまた椅子に座った。発注入力の続きを始めようとしていた店長さんが、それを見てもう一度晴夏のほうに向き直った。
「どうした? 晴夏ちゃん。やっぱ疲れた?」
「はい。少しだけ」
晴夏は少し力のない笑顔で答えた。帰ろうとせず、そのまま座っている。店長さんはしばらく晴夏の様子を見守っていたが、晴夏が何も言わないので椅子を回して発注の続きを始めた。
「それって、何してるんですか?」
「ん? これ、発注……毎日こうやってストコンで商品を注文するわけ」
「ストコン?」
「そう。ストアコンピューター。いや、コントローラーだったかな? 忘れた。まあ略してストコン……これで常時本部のシステムに繋がってて、仕入れとか毎週の情報とか、全部オンラインで済むわけ。すごいよね」
「へえ~」
最初は単に会話の糸口を探しているふうだったが、店長さんが説明すると晴夏は中腰になって店長さんの脇に寄ってストコンの画面をまじまじと覗きこんでいた。
「興味ある?」
店長さんが急に晴夏のほうを見て言った。顔が近い。晴夏はさりげなく身体を引いてもとの椅子に座り直した。
「はい。私、コンビニの中がどうなってるのか……知りたかったんです」
「はあ……そう言えば最初そんなこと言ってたよね」
「はい。あ、そうですよ! 私本当にそう思ってたのに、店長さんが、お金、お金って無理やり言わせるんだもん」
「ははは! いやごめんね。でもさ、お金を稼ぐんだっていう自覚がないとアレかな~って思って」
「アレって何ですかあ! あれって絶対店長さんの意地悪だったと思います。ふつうは絶対あんなことしないですよ!」
「ま……ふつうはそうだよね? ははは」
「あ、また思い出して笑ってる。店長さんって、ほんと、いい人なんだか悪い人なんだか分からないです」
「あ、晴夏ちゃんそういう態度に出ると、もう一回やらせるよ?」
「やです! もう絶対やりません!」
「じゃあさ、その代わり。ふはは……また制服でバイトしてみる? あれもう一回見たいなーコスプレ」
「だから、コスプレじゃないです!」
半ば恒例となりつつある他愛ない会話を続けているうちに1時間以上経っていた。晴夏はいつまでも帰ろうとしなかった。だがその理由を店長さんは聞かなかった。代わりに発注入力は全然進まなかった。
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