5 悪いけど店長さんをダシに使う晴夏ちゃん

 「ここに清掃道具は一通りあるから。まず店内の床をきれいにして」


 晴夏は次に掃除をするように指示された。祐希は詳しい説明もせずそれだけ言って立ち去ろうとした。晴夏は慌てて呼び止めた。


 「あ、あの……祐希先輩」

 「何?」

 「あの……」


 祐希は静かに、だがうんざりするように溜息をついた。


 「箒と塵取り。これは乾拭きするクリーナーで、これは水拭き用のモップ。ここでこうやって洗って、挟んで踏むと絞れる。それでも取れない細かい汚れはこの雑巾で拭き取る。分かった?」

 「……はい」


 晴夏は力なく答えた。祐希は限りなく冷ややかに見えた。晴夏は、最初からよく知りもしない相手に身勝手な憧れの気分を抱いていた自分を愚かしく思った。


 晴夏は一人でずっと床掃除を続けていた。この店は標準的なコンビニの売場面積よりかなり広い。それに晴夏が丁寧過ぎるのかもしれないが、店内の床全部を掃除するとなるといつ終わるとも見当がつかなかった。モップでいくら拭いたところで厳密に見れば細かな傷や黒ずみが無数にあるのだ。どこまで綺麗にすればいいのか、でもそれを聞けばさらに祐希の気分を害してしまう気がした。晴夏は完全にしゃがみ込んで、ただ無心に目の前の汚れを雑巾で拭き取った。


 「いらっしゃいませ!」

 「うわ!」

 「何驚いてんのよ。麻白さん、お声かけ忘れないで」

 「はい。ごめんなさい」

 「……あのさ、いちいち謝るのやめて」

 「はい、ごめん……なさい」


 今日何度目か、また祐希の溜息が聞こえた。その度に気持ちが沈んでゆく気がした。


 「それで、いつ終わるの?」

 「え?」


 そう言われて晴夏は思わずしゃがんだまま振り返って店内の時計を確かめた。今日は午後3時から出勤したのだから……ここまですでに2時間以上経っている。そう言えばいつの間にか日も落ちていた。


 「ねえ、いつ終わるのって」

 「あ、はい……あの、まだ半分も」

 「だから、私はいつって聞いてるの。あの時計で6時までに終わらせて。終わったら事務所に呼びに来て」


 祐希は苛立ったように早口で指示した。


 6時迄となると、当然今までのようにいちいち細かい拭き取りなどできない。晴夏は自分でも要領が悪かったと今さら後悔した。とにかく乾拭き用のクリーナーで残りの床を一気に掃き取った。あとは最もホコリや砂利が目立つ入り口辺りだけ箒と塵取りで掃き取って、もう一度時計を見た。すでに6時を少し過ぎている。用具を戻して事務所へ急いだ。


 祐希と店長さんはいつもの席に座って談笑していた。晴夏は一瞬声をかけられなかった。祐希がまるで……晴夏に相対する時とまるで違う感じがするからだ。気軽というか素というか……見方によっては店長さんにすごく甘えているようにも見えた。


 「……なんだから少しは優しくしてもいいんじゃん。おっ! 晴夏ちゃんおかえり~」


 店長さんがそう声をかけると祐希も振り返った。


 「終わった? じゃ次はゴミ出しね」


 そう言うと祐希は立ち上がって晴夏を促した。しかし店長さんが呼び止めて言った。


 「ちょっと待ってよ~。晴夏ちゃん疲れたでしょ? 少し休憩すればいいじゃん、祐希、もう一つ椅子持ってきて」

 「え~、なんで私が持って来なきゃいけないのよ」

 「……お前なあ」


 祐希はもう一度どかっと椅子に座り直して動こうとしない。慌てて遠慮する素振りの晴夏に構わず、店長さんは壁に寄せて置かれた備品の奥に立てかけてあった折りたたみ椅子を引っ張り出して祐希の隣に置いた。


 「あ、ありがとうございます」


 晴夏は恐縮しながら祐希のすぐ隣に座った。


 「で? どうすか晴夏ちゃんは」

 「どうって、まだ分かんないわよ」

 「いや、俺には分かるの。晴夏ちゃんは百人に一人の逸材だ。ね~晴夏ちゃん」


 店長さんは晴夏の顔を覗き込むようにして言った。晴夏は苦笑して首を傾げる。祐希が意味なく店長さんの脚を蹴った。


 「痛っ! だから蹴るなっつうの!」

 「店長さあ、相澤さんの時もそう言ってたよね……あのねえ、店長っていつもこうだから」


 晴夏は何と答えてよいのか迷った。でも祐希がこうやってふつうに話しかけてくれるだけで安堵とともに嬉しさがこみ上げてくる気がした。晴夏は自然に笑顔になった。


 「店長ってさ、いつも最初だけすごい期待するんだけど、でもしばらくしたら、やっぱダメだな……とか言って、結局放置されるんだからね」

 「はああ、やっぱそうなんですか……」


 晴夏は祐希の話に合わせるように言った。


 「そう! ほんっと、今まで何回見てきたことかって。麻白さんもね、こういう大人を信用しちゃあダメだめだからね? 特にこういうスケベなおっさんには気を付けて」

 「おっさん言うな! ……あ、晴夏ちゃん今笑ったな」

 「い、いいえ?」


 晴夏は目を泳がせてわざとらしく否定した。


 「いや、確かに笑った。あーもういいよ。晴夏ちゃんまで。ふ~んだ。どうせ俺なんてね……」

 「いえ、私はおっさんとは思ってません」


 店長さんがぱっと期待の表情を浮かべて身を乗り出した。


 「ホント?」

 「はい。でもスケベだと思います」


 晴夏がきっぱり言うので祐希も思わず笑った。


 「えーーなんでだよーー俺、晴夏ちゃんにはまだ何にもしてないでしょう?」

 「まだ、って」


 晴夏はそう突っ込みながら祐希に少し寄り添うように身体を引いた。店長さんが懇願するように晴夏に迫ってくる。晴夏はそおっと祐希の腕に縋るように触れて身を隠す仕草をしながら続けた。


 「でもこの間、私がスカートだった時、店長ずーっと私の脚ばっかり見てました」


 返す言葉のない店長さんは諦めたように椅子の背もたれに背中を預けて脱力ポーズになった。祐希が手を叩いて賛同する。


 「ははは。そうだそうだ。そうだったよね。はは、すごい嬉しそうだったもんね~店長」

 「はい! すごく嬉しそうでした」


 晴夏は勢いよく同意して笑って見せた。店長さんには悪いけど、それよりも晴夏はこうして祐希が自分と気さくに話してくれていることが嬉しかった。

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