4 いきなり暗雲立ち込める晴夏ちゃん
「おはようございます」
「おお! おっはよ晴夏ちゃん。いいねーそれ。その恰好だとちょっと大人っぽい」
晴夏の姿を見て店長さんは嬉しそうにはしゃいだ。日曜日。とりあえず鞄とダッフルコートを置いた晴夏は胸に小さな模様の入っただけの素朴な白のトレーナーに薄い水色のスキニーパンツ。店長さんからお金を借りたことを父親には言わなかった。
「この服で大丈夫ですか?」
「うん。いいよー。最高! 晴夏ちゃん可愛い~」
飾り気もない単なる普段着なのに異常にテンションを上げる店長さん。それとは対照的に背中を向けて椅子に座ったままの祐希は一度振り返ってぞんざいにあいさつを返した。晴夏は思わず表情を曇らせた。
「祐希先輩、この間はすいませんでした」
晴夏は真っ先に祐希に謝った。
「何が?」
「いえ、あの……すいません、今日からよろしくお願いします」
言葉は交わしても祐希は背を向けたまま。店長さんは別に執り成してくれるわけでもなくその様子を見守っていた。
「晴夏ちゃん契約書持ってきてくれた?」
「はい」
鞄から取り出した契約書を店長さんに預けて、そのまま指示を待った。
「じゃ、準備して。制服そっちにかかったままだから」
だがそう促したのは意外なことに祐希だった。もう知らない、と怒っていたはずだが……しかし晴夏のほうからいろいろ聞ける訳もなかった。
晴夏は何着か並んでいるジャンパーの中から『研修中』のバッジが付いているのを探した。相変わらずこの更衣室には私物を置いておくようなスペースはない。平日に学校からバイトに来るとすると服を持って来なければならない、あるいはいったん家に帰って着替えて来るか……と考えながらロゴ入りジャンパーを羽織る。
「ほんっと女に弱いよね、店長って」
「まあ、ね……でもあんだけ真剣な子ってなかなかいないよ? なんかさ、晴夏ちゃんって昔の祐希みたいじゃね?」
「私みたいのが……そうそういるわけないでしょ? だいたいいつも期待し過ぎなのよ」
「まだ分かんないけどさ。まあとにかく面倒見てやってよ。頼むよ祐希ちゃ~ん。痛っ」
カーテン越しに二人の声が聞こえた。晴夏が更衣室を出ると祐希が立って晴夏の姿を上から下まで確かめるように見た。バインダーに挟んだ用紙に何か記入した。
「えっと……じゃあこれ見て」
祐希が壁を指差した。何枚か掲示物が貼ってある。晴夏が近寄って見ると、アルバイトさんたちの勤務予定を一覧にしたシフト表だ。
「シフトは毎週決めていきます。締め切りまでに自分の希望を出してください」
「はい」
「細かいルールは後で説明するので、とりあえず、今お店にだれが勤務してるか分かる?」
「はい……えっと、沢さんと、相澤さんと……祐希先輩です」
それを聞くと祐希は一瞬何か言いたげに晴夏の顔を見た。だが晴夏がきょとんと目を合わせると祐希はすぐに目を逸らした。
「……その名札の裏がタイムカードになっているからレジでスキャンして来て。それと、今勤務している人に挨拶して来て下さい。ただしお客様に対応している間は話しかけないように。いい?」
「はい。分かりました」
「じゃ、行ってきて」
晴夏は引き戸の窓越しにカウンター内の様子を見た。女の店員さんが一人立っている。晴夏は少し躊躇ってから引き戸をそおっと開けてカウンターに入った。
「あの……すいません、新しくバイトに入ることになりました、麻白晴夏です」
晴夏はとりあえず頭を下げた。名札を確かめると『さわ』と書いてある。この人、最初に出勤した時レジにいた人だ。たぶん大学生くらい。背は自分より小さくておとなしい感じのお姉さん。
「はい、よろしくお願いします……」
沢はそれだけ言った。話が続かない。晴夏はとりあえず笑顔を返した。空いているもう1台のレジの前に立って、スキャナーを手に取って一度ひっくり返して見た。赤い光が灯っている。自分の名札をめくって『開始』と書かれたほうのバーコードにスキャナーを当ててみるとレジがピッと反応した。だが画面上には何も表示されない。晴夏はこれでよいのか少し不安になって沢のほうを見た。
「あの、出勤って、これでいいんですか?」
その時ちょうどお客様が晴夏の前に来て、カウンターに商品が入ったかごを置いた。晴夏は一瞬どうしていいか分からなかった。
「あ、あ、いらっしゃいませ……」
沢がすぐに晴夏と入れ替わって対応を始めてくれた。そうしながら晴夏に向かってうんと軽く頷いた。晴夏は黙って会釈だけ返すと、カウンターの左端についている板みたいな扉を開けて売り場に出た。
売り場を探し回ったが『あいざわ』さんが見当たらない。いったん自動ドアから出て外の広い駐車場を見渡してみた。ここにもいない。晴夏は困ってもう一度売り場を見渡した。仕方なく『OFFICE』の扉から入ると、事務所のほうから少し甘えたような高い声が聞こえた。近付くと扉は開けっぱなしで事務所には店長さんと祐希の他にもう一人店員さんが見えた。脱色した髪をピンクのゴムでまとめている。晴夏はたぶんそれが『あいざわ』さんだと思ったが、話しかけるタイミングを失って突っ立っていた。
「だってマジ受けたんですけど~。完全にこっちまで聞こえてたし。どんだけ真剣だよって感じで、アタシ客やってんのにめっちゃ笑いそうだったんすけど。ははは」
晴夏はすぐに、それは自分が面接を受けた時のことを言っているのだと分かった。だがその高いテンションと裏腹に、店長さんと祐希は半ば無視するように聞き流している。
「マジ採用されるとは思わなかったし。いやでもやっぱあるか……てか店長マジで女しか採りませんよね……あ」
しゃべりまくっている本人が一番先に晴夏が立っていることに気付いておしゃべりをやめた。その気配で椅子に座っている祐希も振り返った。
「あの、相澤さんって……」
目が合ってしまったので晴夏はとりあえず扉の前に立ったまま言った。
「相澤? 受ける、それ私だし」
晴夏は気まずいような、それでもほっとしたような笑顔を浮かべながら近付いた。
「あの、私、今度バイトすることになりました麻白と言います。よろしくお願いします」
「ああ。てか高校生なんだよね」
「はい」
「へえ、この辺って高校からバイトしてるやつ珍しくね?」
「……そう、ですか? 私まだ来たばかりであんまり分からないです」
「マジ? 何、転校してきたん? んでいきなりバイトってヤバくね? どんだけ働きたいんだよ。ははは、受ける~」
「……」
晴夏は相澤のペースに気圧されて次の言葉が出なかった。
「はは、で名前何?」
「……麻白、晴夏です」
「ハル? アタシの地元でさあ、ハルってやついるよ? あ、でもあいつ晴美だ。てか名前被ってるとか受ける~」
祐希が椅子に座ったまま無言で相澤を見上げている。相澤はそれに気付くと興ざめしたように一度両手を頭の後ろに組んで伸びをした。静かになった。相澤がレジカウンターに戻ると祐希は何事もなかったかのように立ち上がって晴夏のほうに向き直った。
「あの、すいません。相澤さんを探してたんですけど見つからなくて」
「あ、そう」
「……」
「まあいいわ。じゃついて来て」
それ以上言葉を交わす間もなく祐希が促した。『OFFICE』の扉から売り場に出て、雑誌が並んでいる通路のところまでついて行くと祐希が振り返った。
「ここに立ってください」
晴夏は祐希が指差した床の辺りに立った。
「入り口からお客様が入ってきたら、いらっしゃませ、と声をかけます。やってみて」
晴夏は出入口の自動ドアのほうを見た。しばらく誰も入って来なかったが、待っていると自動ドアが開いて若い男性客が店に入ってきた。
「いらっしゃませ」
「もっと大きな声で」
祐希は事務的な口調でそう指摘した。
「はい」
またしばらく待った。小学生くらいの男の子が二人連れ立って入ってきた。
「いらっしゃいませ~」
晴夏はさっきより大きな声で言った。
「もっと大きな声で。語尾を伸ばさないで」
「はい」
またしばらく待ったが、なかなかお客様が入って来ない。
「普段より高い声を出すように意識するといいわ。出来るようになったら事務所に呼びに来て」
祐希はそう言うと返事を待たず晴夏を一人残して立ち去った。
「いらっしゃいませ!」
晴夏は一人で立ってお声かけをした。どうしたら出来るようになったと言えるのか疑問に思ったが、それでも晴夏は身じろぎもせず姿勢を正して言われた通りに繰り返した。入って来るお客様がまばらなのでただ立って待っている時間のほうが多かった。
「いらっしゃいませ!」
「麻白さん」
「はい!」
いつの間にか祐希が背後に戻ってきていて、急に呼ばれた晴夏は驚きながらも反射的に返事をした。
「大きくって言ったでしょう? もっと」
「……ごめんなさい」
「店長がね、面接の時くらい、だって」
「あの……店長がですか?」
面接の時くらい……あれをここでやれと? 晴夏は自分でも分からないがそれを考えただけで膝が震えた。でも祐希がそのまま背後で見ている。でも。迷っている間に一人客が入ってきてしまった。晴夏は声をかけそびれた。背中に祐希の視線が突き刺さっているように感じる。また一人客が入店した。レジ付近にいる他のバイトさんたちのお声かけがかすかに聞こえる。でも、だれもそんなに大きな声なんか出していない。少なくとも、さっきから他の人たちよりは大きな声を出しているはず。それなのに。
「麻白さん何やってんの? こんなことに時間使ってらんないのよ?」
祐希の淡々と促す声が緊張を増幅した。晴夏は胸を張って大きく深呼吸した。息を吐き切ってもう一度吸おうとした時、ちょうど自動ドアが開いて人影が見えた。タイミングを合わせて思いっきり腹に力を入れた。主婦っぽいお客様が店内に足を踏み入れた瞬間。
「いーらっしゃませー!!!」
晴夏が腰を折るようにして思いっきり叫んだ。他のお客様までがいっせいに振り返って、一瞬店内の時が止まったかのように沈黙が流れた。晴夏はこの一声だけで息を乱してしまい、浅い呼吸を繰り返した。
「麻白さん……バカじゃないの?」
祐希が冷ややかに呟いたのをきっかけに、晴夏は我に返って猛烈に恥ずかしくなってきた。雑誌付近にいる若い男性客たちが晴夏のほうを見て苦笑している。しかし他の人は何事もなかったかのようにすぐに散った。晴夏は少し目が潤むのを我慢しながら言った。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「私が、です……バカで」
それを聞いても祐希は動じる気配もない。
「なら努力すれば? もういいわ。とにかく大きかったから」
祐希は用紙にピッとチェックを入れた。
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