第1章 コンビニバイトを始めた晴夏ちゃん
1 力技で面接を突破する晴夏ちゃん
「ええ~っと麻白晴夏さんですね?」
「はい」
店長さんは二つ折りの履歴書を開いてデスクに広げるとまず氏名を確かめた。
「17歳か……えっと、今2年生?」
「はい」
「あれ? 転入したの?」
「はい。最近こちらに戻ってきたので、先週から押井川高校に」
「ふーん……」
しばらく沈黙があった。晴夏は店長さんの背後にあるモニターの分割された画面の中で動き回る客や店員さんの姿に気を取られていた。
「寒くないですか?」
「あ、いえ大丈夫です」
晴夏は少し慌てて視線を戻した。店長さんの目線が晴夏の制服姿をチェックするように動いたように見えた。晴夏は答えながらわずかに腰を浮かせて座り直した。
「字きれいだねえ、しっかり書けてるし。けっこう成績はいいのかな?」
店長さんは履歴書に目を戻して言った。独り言のようにも聞こえたので晴夏は少し首を傾げながら曖昧な笑顔を返した。
「で、どうしてバイトしようと思ったの?」
店長さんは晴夏のほうに向き直ると腰で椅子をぐいと引いて距離を詰めた。辛うじて笑顔は保っていたが晴夏は少したじろいだ。
「……はい。それは社会勉強になることと……コンビニで働いてみたいと思ったからです」
「コンビニでバイトすると何が社会勉強になるんですか?」
晴夏は答えに詰まった。店長はさらに続けた。
「ちょっとくらいバイトしたって何の勉強にもならないよ? 高校生だったら学校の勉強ちゃんとやったほうがよっぽどいいと思うけど?」
「そうですか?」
「うん。生半可なバイト経験って若い人にはむしろマイナスだから……正直出来ることならそんな経験しないほうがいいと思うよ?」
「……そうなんですか」
晴夏の笑顔が消えた。晴夏は店長さんの視線から逃れるようにデスクに広げられた自分の履歴書を見つめた。引き戸の向こうから店員さんたちの声やレジの閉まる音がかすかに聞こえる。
「ふふん」
店長さんが不意に鼻から息を漏らすように笑った。
「ま~しろさん?」
店長さんは妙に馴れ馴れしい口調で晴夏を呼んだ。晴夏は顔を上げたがもう笑顔ではなかった。
「あ、目が怖い~。怒った?」
「いいえ、別に怒ってません」
「もう嫌いになった?」
「いえ、別に」
「じゃあもう一回、志望動機言ってみて……晴夏ちゃんなんでここで働きたいの?」
店長さんは子供に尋ねるような口調でもう一度聞いた。晴夏はもう答える意思はないと訴えるような視線を送った。
「お金でしょ?」
「……」
「バイトする理由。お金じゃないの?」
晴夏はそれでも少し黙っていた。だが店長さんはまるで晴夏の心底を見透かしたかのようにその笑顔を崩さない。やがて晴夏は一度深く息を吸い込んでから決心したようにきっぱりと言った。
「お金は必要です」
「ですよね?」
「……そうです。それも理由です」
「それもって言うか……お金欲しいから働くんでしょ?」
「それはそうですけど、でも」
「でもじゃないの!」
晴夏が接ぐ言葉を思い浮かべるのを待たず店長さんは少し強い口調で遮った。晴夏は少しびくっとなった。それでも意地を張るように黙っていた。
「あのね、俺は今、晴夏ちゃんを採用しよっかな、ってちょっとだけ思ってる」
晴夏はまだ姿勢を崩さなかった。だがその表情にあからさまに期待が入り混じるのを抑えることはできなかった。
「晴夏ちゃん、ここで働きたいと思ってるよね?」
晴夏は一回大きく呼吸してから力強く頷いた。
「ほんとに?」
「はい。思ってます」
「本気で?」
「はい」
「心から?」
「……はい」
店長さんはだんだん真顔になって晴夏の目をじっと確かめながら何度も繰り返した。晴夏も見つめ返しながら何度も返事をした。
「う~ん」
店長さんは再び晴夏の履歴書に目を落として一人で唸った。
「じゃあ晴夏ちゃん志望動機もう一回言ってみて」
「はい……」
晴夏は返事をしたもののすぐにそれを言えなかった。少し目を泳がせながら慎重に言葉を選んでそして意を決したように店長さんの目を見て答えた。
「私は……すぐにお金が必要です。でも働くなら……このお店がいいって思いました。想像してたんです。このコンビニで仕事して、自分でお金を稼ぎたいんです」
店長さんは小刻みに頷きながら真面目な顔でそれを聞いていた。そして納得したように最後に大きく頷いた。晴夏はぱっと明るい表情になった。
「あー、どうしよっかなー」
店長さんが砕けた口調に戻っている。
「えっとね~。じゃあ、あと二つ条件があるんだけど、いい?」
「はい」
「じゃあまず……あのねえ、本気で心からお金ほしいーって言ってみて」
「え? お金……ですか……?」
店長さんはそれきり黙っている。晴夏は戸惑った。だが仕方がない。
「お金ほしいです……」
晴夏は少し俯いて小声でそう言った。恥ずかしかった。なのに店長さんはまた履歴書に目を落としている。何も言ってくれない。この距離で聞こえないはずがない。晴夏は店長さんに縋るような視線を送った。でも店長さんは晴夏のほうを見ないで履歴書をじっと眺めている。
「お金ほしいです。店長さん……」
晴夏はさっきより少し大きな声で、今度は直接語りかけるような感じではっきりと言った。店長さんは何も言わない。見もしない。デスクに広げていた履歴書を手に取ると二つ折りに戻してまたデスクに置いた。晴夏は明らか動揺した。目線をどこに向ければいいのか分からないというふうに何度も瞬きしたが結局諦めて制服のスカートの裾あたりを握りしめて俯いてしまった。何の助けもない。店長さんはもう腕を組んで背もたれに寄り掛かっている。
コンビニの事務所で、晴夏は停止した。
やがて店長さんが沈黙に負けたかのようにふーと聞こえる長い溜息をついた。組んでいた腕をほどいて晴夏のほうに向きなおったが晴夏は停止したまま。
「えっと、麻白さん。面接はこれで……」
呼び方が晴夏ちゃんから麻白さんに戻った。晴夏は動かない。スカートを握りしめて膝を見ている。
「麻白さん? 結果は後日電話しますので……」
店長さんが少し困ったように促した時、いきなり晴夏が椅子から立ち上がって、ちょうど人に殴りかかるときのように両手を握りしめた。意表を突かれた店長さんはびくっとのけ反った。
「お金!!!」
懇願というか威嚇というか、晴夏が拳を握ったまま思い切り声を張り上げた。
「ほしいです!」
店長さんはのけ反ったまま動かない。
「ごめんなさい。お金です! お金いるんです! お願いします!!!」
唖然とした顔で晴夏を見上げている店長さんの顔。それがゆっくりと歪み始め……笑いに変わっていった。
「ふは、ふはは。はっはっはっは!」
「お金! です!」
晴夏は拳を構えたまま何度も繰り返す。
「はっはっは……はあ……必死かよ!」
「はい! 必死です!」
晴夏が半ばヤケクソのようにひときわ大きな声で叫ぶ。
「お金! です! 必死、です!」
事務所の壁はそれほど厚くない。その声はたぶん売り場のほうまで漏れている。だがそんなことを気にしている余裕は今の晴夏にはない。
「必死、です! お金! お金です!」
「わかっはははは……はははは、分かったから、もうやめて。わはは……もうやめて。助けて」
店長さんはもはや腰を折るようにして苦しそうに大笑いしている。晴夏はやっと自分が店長さんを笑い地獄に追い込んでいることに気付いて叫ぶのをやめた。
「あ、あの」
「はあ、はあ……は~おもしろ。とりあえず晴夏ちゃんとりあえず一回、座って。はあ」
店長さんは右目のところを指で擦りながら呼吸を整えている。晴夏は力が抜けたようにどさっと腰を下ろした。
「はあ、はあ、はあ面白かった。晴夏ちゃん。合格」
店長さんは笑い疲れながらさらっと言った。さらっとし過ぎて晴夏は喜ぶタイミングを逸した。
「ごめんなさい、私……え、合格? え? ほんとですか?」
「はい。はあ、すげ~よ晴夏ちゃん」
すげ~すげ~と一人繰り返している店長さんに晴夏は心配そうな顔で尋ねた。
「あの、もう一つ条件って」
「ああ、あーそうそう。もう一つ……ここ保護者欄が書いてないけど?」
「ああ……はい、すいません。今日準備が間に合わなくて父に書いてもらう時間がなくて……ごめんなさい」
「ふ~ん。お父さん、仕事は何やってんの?」
「あの……酒屋です」
晴夏は小さな声で言った。
「あーそう、酒屋さんか……忙しいのかな? まあいいや、晴夏ちゃんがバイトするってこと知ってんのかな?」
「はい。知ってます。ちゃんと前から話してて、許可も貰ってます」
店長さんは表情を確かめるように晴夏の顔を見つめている。
「あの、それは大丈夫です」
晴夏は念を押すように繰り返した。
「ま、いっか。とにかく、雇用契約書にもきちんとサインもらうし、未成年だから一応ちゃんと話しとかないとね」
「はい。大丈夫です。本当にちゃんと言ってあるんです。ごめんなさい」
店長さんはしっかり頷いた。晴夏は期待するように少し上目遣いになって次の言葉を待った。
「採用だよ、晴夏ちゃん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます