The Break-even Point ~晴夏がバイトをバックレるまで~

滝口 一

プロローグ

 日本海側のある地方都市に晴夏という名の女子高生がいた。ベージュのダッフルコート。バイトに応募するために公衆電話のボックスの中で震えていた。12月の夕刻、多くの車はすでにヘッドライトを灯している。

 部屋に帰って落ち着いて電話したいけど、携帯が利用停止になったことを父に言い出せなかった。

 晴夏は10円硬貨を投入口のそばに置いてから受話器を取った。フリーペーパーをめくる手が震えた。硬貨を入れて番号を確かめながらプッシュして、じっと待った。


 「はい、ありがとうございます。アーバン押井川リージョンモール西店です」


 長ったらしい店名を男の人が淀みなく告げた。


 「……こんにちは。そちらのアルバイトの募集を見て電話しました麻白晴夏と言います」


 頭の中で何度も練習した言葉を落ち着いた口調で言えたので、晴夏は少しほっとした。


 「アルバイトのご応募ですね? ええっと、それじゃあ面接に来ていただきたいんですがいつがよろしいですか?」


 男の人の声は相変わらずかなり早口だが、最初より砕けた感じに聞こえた。


 「あの、高校生でも、大丈夫ですか?」

 「ああ、特に制限はありませんが……とりあえず、詳しいことは面接で伺いますので」

 「はい」

 「……それで、いつがよろしいですか?」

 「あの、学校があるのでその後でしたらいつでも大丈夫です」

 「ちょっと待ってくださいね……えーっと、ではちょっと急ですけど明日でも大丈夫ですか?」

 「あ、はい」

 「では明日の17時に面接ということでよろしいでしょうか」

 「はい、大丈夫です」

 「すいません。お名前もう一度よろしいですか?」

 「はい。麻白、晴夏です」

 「ましろ、はるか、さんですね?」

 「はい」

 「では写真付きの履歴書を持って、お店に来てください」

 「履歴書ですね。分かりました」

 「じゃ、明日の午後5時にお待ちしております」

 「はい。お願いします」

 「では失礼いたします」

 「はい。よろしくお願いします」

 「はーい。失礼しまーす」


 晴夏はそのまま待って電話が切れるのを確認してから、ふうっと一筋白い息を吐いた。フリーペーパーの表紙に『17時 写真』と書いた。


 次の朝、晴夏は寝ている父親を起こして千円もらった。いつも登校前に寄るコンビニで履歴書用紙を買って、残った金で証明写真を撮るために昼食を抜いた。午後はずっと志望動機を考えあぐねてほとんど授業を聞いていなかった。ノートの下の方に『生活費のため』『自分の』『自分でしたい』『親に負担をかけたくない』と綴っては、取り消し線を引いていた。


 放課後、人もまばらになった教室で晴夏は履歴書を清書した。一度しくじって書き直した。最終的に志望動機欄には『社会勉強のため。コンビニの仕事に興味があるため』と書いた。保護者欄は空欄のままにした。面接の前に写真を撮らなければならない。晴夏は急いで教室を出た。


 自動ドアが開き入店チャイムが鳴った。


 入ってすぐの商品棚にクリスマスの飾り付けが施されている。この店は標準的なコンビニより売り場がかなり広い。晴夏は前からこの店を知っているが今日は客として来たのではない。

 店内を見回して時計を確かめると約束の時刻まで15分ほどある。晴夏がカウンターの中で立ち回っている店員さんたちの動きを興味深げに目で追っていると、すぐ脇を男性客が通り過ぎて、振り返ると舌打ちした。いつの間にか晴夏は通路を塞ぐように棒立ちになっていた。

 買い物をするつもりもなく店内を回遊していると自然に人気の少ないほうへ足が向いた。ペットフードやカー用品が並んでいる棚を横目にゆっくり進んでいくとしゃがみ込んで作業している店員さんの背中が見えた。わずかに茶色がかった髪を後ろで束ねている。

 晴夏はいったん通り過ぎようとした。背後に近付くとその店員さんは立ち上がって道を譲るように控えながらお辞儀をした。


 「いらっしゃいませ」


 声は低めではっきりしているが柔らかい。女性にしては背が高い。美人だ。晴夏は立ち止まってそれと分からないくらいの会釈を返した。そうしながら胸の名札に視線を移すと、太い平仮名で『なかね』と書いてあった。


 「すみません。今日面接の麻白と言いますが」


 まだ少し早いと思っていたが、晴夏は思わず言った。


 「はい。5時からでしたね。こちらへどうぞ」


 面接があることを知っているような口振りだった。店の一番奥の、客が何人か座れるようになっているスペースに案内された。


 「こちらで少々お待ちください」

 「はい」


 座って待つように促されたが晴夏はもう一度軽い会釈をして立ったままその店員さんを見送った。店員さんは『OFFICE』と書かれた扉の向こうに消えた。

 もう日は落ちているが店の奥は空調で暖かい。晴夏はコートを脱いで左脇に抱えるといったん腰掛けようとした。ちょうどその時さっきの扉が開いて別の店員さんが出てきたので晴夏は座るのをやめた。他の店員さんと同じくロゴの入った濃い緑色のジャンパーを着ているが胸元にはネクタイが覗いている。オジサンというほどの年齢ではないが一見して責任者然とした大人だ。


 「麻白さん? ああ、すいませんね待たせちゃって」

 「いいえ。よろしくお願いします」

 「は~い。お願いしま~す」


 ひょろっと痩せて神経質そうだけど、意外に軽い口調。その後について扉を閉めると少し空間があってその先は細い通路のようになっている。壁伝いに棚があって袋菓子やカップ麺やトイレットペーパーが分類して積んであった。通り抜けるとまた扉があって、開けると部屋になっていて、そこにもカゴに入った商品や備品のようなものが雑然と積まれていた。


 「すいません散らかってて。ちょっとこっちに座ってもらえますか?」


 一番奥のほう、壁に向かって据えられた事務用のデスクがある。業務に使う機材と配線がデスクを取り囲むように配置されている。その先にはもう一つ出入口があるがそれは横に開ける引き戸で真ん中が窓みたいになっている。その向こう側に働いている店員さんの姿が見えた。

 晴夏はデスクの前に用意された折りたたみ椅子に促されて座った。相手も背もたれのついた回転椅子に座った。向き合って初めて名札を確かめた。『たきぐち』という名前の前に小さく『店長』と入っていた。


 「じゃあ、さっそくですが履歴書を見せてもらえますか?」


 晴夏はとりあえずコートを抱えたまま膝の上で鞄を開けて履歴書を店長さんに渡した。店長さんが封筒から履歴書を取り出している間に、晴夏は鞄を閉めてコートと一緒に椅子の脇の床に置いた。

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