一章

1話目

 キエエエエェェェェイイイィィィ、と奇声をあげながら詰襟を着て自転車で坂道をかけ下る小峰アキラの姿は、十人いたら十人は振り返るだろう。だが当の本人は、そんなご近所のおばちゃんが110番に不審者通報をしようが関係ないとばかりに、羽虫ぐらいなら吹き飛ばすほど鼻息荒く、歯をギリギリとくいしばり、目をカッと見開いて、帰宅部の自慢できない最大限の筋肉を振り絞りママチャリのペダルを踏み込んでいた。

「ぬおおおおぉぉぉぉぉぉ、遅刻するううううぅぅぅぅーーーー!!」

 遅刻。それはアキラにとって非常によろしくないものであった。成績は平均を上にいったり下にいったり。ボランティアや地域のクラブに貢献しているわけでもなく、なにかの習い事で入賞したこともない。没頭するような趣味はなく、身長はそれなりにあるが特別に容姿が抜きでているわけでもない。むしろ何もない部類。

 ないもないからこそ何か一つでも作ろうと思い、アキラは昨年の高校生活1年間、無遅刻無欠席の皆勤賞を取っていた。そして2年になった今年、もちろん皆勤賞を取るつもりでいたのだが…………。

 新入生を見届けた桜は潔くパッと散り、太陽のあんちくしょうが本気を出す、女子をヌレヌレの汗だくにしてセーラー服を透けさせる陰謀の季節にはまだ少し遠い平日の金曜日に、アキラは早くもその皆勤賞[たった一つのこと]を逃そうとしていた。

「くそっ、小学生ですら12時すぎてもゲームやらネットやらで夜更かしするご時世に、健康的にも23時10分ちょっと過ぎにはふかふかのお布団と洗い立てのパジャマでぐっすり夢の旅を堪能しようとしたらぐっすり堪能しすぎちゃって遅刻とはどういうことだっ!! あれか、マクラかっ!! マクラが悪いのかっ!! 甲高い声で有名な通販番組見ちゃって、ちょっといいかもなぁ、なんて『朝まですやすや快眠マクラ』を一括払いで買っちゃったのが悪いのかっ!! チクショウっ、遅刻したら訴えてやるからなっ!! 許すまじっ、甲高い声で有名な通販番組めっ!!」

 ドラマの台詞にも引けを取らない長さで八つ当たりを飛ばしながらも、アキラの全身全霊で滑走するママチャリは学校の校門を抜け校庭脇にある駐輪場へ坂道を下るスピードそのままにすべりこむ。見回す限り学生服の人影はない。トタン屋根の下にはすでに自転車や原チャリがびっしりと隙間なく何十台も置いてある。

 どうにか空いた場所を見つけ出してママチャリを停め、スタンドを立てるとチェーンで前輪と屋根を支える柱をきっちりつなぎ止める。さらにもともと備え付けられていたカギで後輪をロックし、それぞれ二回ずつ指差し確認。カゴに入れたカバンを持ち、光の速さの気分で駆け出した。

 もどかしく思いながらも上履きに履き替え、階段を駆け上がり、ホームルームが始まらないのをいいことにおしゃべりでがやがやと騒がしいいくつかの教室を通りすぎて、3年C組――自分のクラスの扉をバンっと開ける。

 教壇の前に、授業の内容よりももっと気になる大きいモノをその身体でボインと揺らす英語教師でありアキラの担任、秋月カオルの姿は…………まだなかった。

「間に合っだあああぁぁぁーーーー……」

 安堵と疲労を重ねた息を吐き出してへなへなと力なく出入口の扉に寄りかかる。ゼェゼェとあえいで呼吸をくりかえし肺にキリキリと苦しさを感じていたところに、背後で誰かが足を止た。

「ちょっと、ジャマなんだけど」

 西條ハルカの口調は普段クラスで見かけるように少しキツかった。ほとんど反射的に「あ、わりぃ」と片手で謝り、足に力を入れて体をどける。つり目の黒い瞳で横目にされながら、通りすぎるのをぼんやりと見ていた。

 歩く姿はまっすぐに姿勢正しく、肩越しまで伸びた黒髪は一つに束ねられていた。スカートからのびる脚は陸上部で鍛えられてしなやかに引き締まっている。

 西條のキツさはストイックな練習のせいなのかなぁなんて思っていると、頭にポンと手が置かれてナデナデされた。

「おはよう、小峰くん。教室に入らないでなにしてるのかな~? もう鐘が鳴るのにー。早く席に着かないと、遅刻にしちゃうよ?」

「おはようございますカオル先生っ。それだけはカンベンをっ」

 ズギャンと弾丸のような勢いで教室の真ん中より少し左の列、一番後ろの席に飛び座る。カバンを置いて隣を見れば、コゲ茶頭の立花マコトは机の上に突っ伏して眠りの世界へ船出していた。他の生徒が散り散りに自分の席へ戻るなか、キーンコーンカーンコーンとホームルームが始まる。ふわふわとした日だまりのようなボイスが出席を数えた。

「それでは、今日の出欠を取ります。遅刻はなしっ、いいことですね~。それで欠席者のほうは…………」

 秋月の声に、陰が曇る。

「……一人、ね」

 何の気なしに、アキラはななめ前の席を見た。教室にぽっかり空いた穴。もう、一ヶ月は来ていない。いや、学校に来るどころか自宅にもいない。

「もし成宮くんのこと、何かわかったら私でも他の先生でも、警察の人でもいいから、教えてね」

 ここ一ヶ月で、繰り返して何度もすがるような頼みだった。涙声にも聞こえる秋月のお願いはどうにもそそるものがあるが、事が事だけにだれも茶化したりできない。

 そう思い出があるわけではないけども、アキラも心配している一人だった。

 行方不明になった成宮ミズキの所在はいまだつかめていない。手がかりすらない。神隠しにあったと言われれば納得できるほどに、プツンとその姿は消えていた。

 沈むような一瞬の静かさ。

 空気を変えるように「さて、それでは朝の連絡ですっ」と雰囲気だけは明るく、秋月がホームルームを続ける。けれど交通事故の注意も自転車が盗まれたことも、男子生徒の失踪にくらべればなんということもないできごとだった。

 一通りの情報からいくらか生徒の耳に単語が残り、もう終わりというぐらいで「あ、それと……」と最後の連絡。

「もう合唱祭が近づいているので、来週中には実行委員を決めちゃうからやりたい人は立候補とかも考えておいてねーっ」

 それじゃあまたね~と秋月は教室を出る。ざわつきはじめる教室で、アキラはなにか覚えてるものはないか成宮のことを考えようとして……すぐに止めた。結局、なにも思いつかないだけなのだ。

 授業の準備を始めようとカバンの中身を取りだすその横で、隣の席がむくりと身を起こす。マコトが現実に着港した。

「あれ、秋月センセーは?」

「もう行っちゃったよ。合唱祭が近いから来週に委員を決めるってさ」

「ふーん……」

 まったくもって興味がないようで「センセーのきょにゅー見たかった」と一言つぶやくと机に腕枕を敷いて気だるそうにアゴをのせる。

「……アキラさー」

「おー、どしたー?」

 マコトの呼びかけに手を止めるが、なにか言いよどむように「あー……」とか「うー……」とか言葉にならないうめきをあげるだけだった。挙げ句の果てには「やっぱりいいや」と自己完結してしまう。

 肩をすくめて数学のノートと教科書を広げていると、机の前にマッシュルームカットの女子が立った。マコトが「あ、マッシュちゃんだ。おはよー」と教室でとっくに浸透しきったあだ名でクラス長にあいさつする。アキラもおはようと声をかけた。

「お、おはようございますすす……」

 おびえる白ウサギのように十川キリハはびくびくしている。人と話すのが苦手なことも、同じクラスで過ごしていればなんとなく気づくことだった。

「小峰くん、あの、これ……」

 ひかえめがちにおずおずと両手で差し出された茶色い冊子の表紙には、『学級日誌』と書いてあった。

「今日、小峰くんが日直で……あの……朝、渡そうと思ったんだけど、来なくて……それで…………」

 だんだんと言葉がしりすぼみになりしゅぅぅぅんと顔をうつむかせる。見ているだけでものすごく悪い気がしてくるものだった。

「あ、いや、こっちこそごめんね。日直なのにギリギリで。でも助かったよ、マッシュクラス長」

 冗談半分にしながらも「ありがとう」と伝えて日誌を受け取れば、キリハはブンブンブンブンとちぎれそうなほどに首を振る。

「クラス長、だから………」

 キリハの用事はそれだけのはずである。なんとなく気まずく、アキラとしては一時間目まで時間がないので、それじゃあとちょっとトイレに行きたいのだが、なぜかキリハは目の前から動かない。口元を引き結んで、シワができるのもおかまいなしにスカートを両手でぎゅっと握りしめている。

「えっと……まだなにか?」

 そううながすと、ようやく。

 蚊の鳴くようなささやきが耳に届く。

「わたしの名前、キリハです……十川キリハ」

 言うか言わないか。

 そのうちにキリハは、タタタッと小走りで自分の席に戻った。

「……マッシュクラス長、そんなにイヤなニックネームだったか」

 チャイムが響いて授業の始まりを告げる。シブメ系イケメンと一部の女子で有名な数学教師がクラスに入り、課題を集め始めた。

「……先生、トイレ行ってきていいですかー?」

  数学の課題よりも、アキラはとりあえず膀胱の中身をすっきりさせたかった。

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それでもこの世界はきっと楽しい 烏丸伊月 @ik-d05

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