君思う 故に我あり

「おーい。依澄君起きてる? あ、起きてた」

「先輩」

 ひょこっと部屋の入り口から顔を出した先輩が、ベッドの縁に座り込んだ俺を見て右手に持つカップを掲げた。左腕には薄青色の布の塊を抱えている。

「エラン君とミアナさんが心配してたよ。

 特にミアナさんは『イズミちゃんの気持ちを考えずにいきなりあんなこと言ってごめんなさい』だって。

 あとこれ、夕飯に出されたスープ。

 何か胃に入れた方がいいかなって思ってもらってきた」

「……ありがとうございます」

 俺の言葉ににっこり笑った先輩が「ちょいと失礼」と言いながら隣に座る。

 受け取ったカップの温かさに、じんわりと涙がにじんできた。


 あの後、俺は折角食事を用意してくれたというのに一気に食欲がなくなってしまい、シンに案内された寝室で横になっていた。

 流石にいつまでもノーパンなのは落ち着かないので、自分のトランクスを履いてからベッドに倒れ込んだ。立ち上がらなければパンツがずり落ちる心配もない。

 円形の敷物は柔らかく、寝台も何の素材か分からないけど俺の身体を優しく受け止めてくれる。

 快適な寝床の上で微動だにしないまま、俺の思考は渦を巻いていた。

 ぐるぐると答えの出ない謎や疑問が頭の中で回り続け、ミアナさんの『大丈夫』という言葉に縋りつつ(本当に大丈夫なのか)と疑心も抱く。

 そんな非生産的なことを続けていると足音が聞こえてきて、起き上がると同時に先輩が現れた。

「先輩はお腹いっぱいになりましたか」

「なったなった。

 いや~女子だった時の倍くらいぺろりと入ったよ。

 むしろそれくらい食べないとお腹いっぱいにならなくてね。

 あ、実は依澄君の分も食べちゃったんだけどエラン君が『言ってくれればイズミの分はまた用意する』って」

「そうですか」

 シンには申し訳ない事をした。先輩も、俺が食事をすっぽかしたことを責めずに明るく笑いかけてくれる。

「で、どう? ちょっとは落ち着いた?」

「さっきよりは」

 そう答えながらも、俺は渡されたカップを両手で包んだまま視線を落とす。

 透明でお湯にしか見えないのに、コンソメみたいないい香りを漂わせるスープに自分の顔が歪んで映った。

 慣れ親しんだ男の顔ではなく、俺の母親を若返らせたような女子の顔が。

「……何なんですかね、この状況」

 体内で渦巻く疑問は解消されるどころか増えていく一方だ。

「いきなり異世界で、いきなり性別が逆になって、性別どころか身体のつくりまで前の世界とは違うかもしれないなんて」

「先の二つはともかく、最後のは私達がこの世界でも生存できるようになったんだからいいんじゃない?

 細胞の構成物質なんていちいち覚えてないし考えてないじゃん。

 それに普段からモツの配置や大きさなんか気にして生きていたわけじゃないし」

「モツ言わないで下さいよ」

 俺の文句を受け流して、先輩は自分の平らになった胸と腹を何度も撫でる。

「とりあえずご飯食べても反芻とかしてないから、ギアラとかは出来てないっぽいよ」

「洒落にならないんですけど」

 第三の目ならぬ第四の胃が体内で爆誕しているのを想像してしまい、呻くようにツッコむ。

「まぁ気にしない気にしない。

 他の渡界人さんには申し訳ないけど、まずは自分達が生き延びることが大事だからね。

 わからないことだらけだけど、違う世界に迷い込んだのにこうして二人とも生きているんだから相当ラッキーだよ」

「ラッキー……なんですかね?」

 ラッキーなら最初からこんな事態にならないと思う。

「ラッキーだよ。ラッキーラッキー大ラッキーってね」

 慰めではなく本心から言っているらしい先輩の笑顔を見据えながら、俺は尋ねた。 

「先輩は」

「んん?」

「先輩は怖くないんですか?

『自分は自分だ』って言える根拠がほとんど残ってないのに」

 仮に、人智を超えた存在だか現象によってこの世界に適応する為の身体に造り替えられたとしても、それは同時に俺達が俺達である要素の激減を意味している。

 長年親しんだ身体と性が全く異なってしまったんだ。

 正直、俺は自分の中に残っている記憶すら本当に正しいのか疑っている。

 なのに、

「怖くないよ。

 だって依澄君がいるからね」

 天井を見上げた先輩があっさりと当たり前のように言うから、俺はその言葉を飲み込むのに数秒を要した。

「お、俺ですか?」

「そうそう。

 だって私一人だけ男子になった状態でこの世界に来てたら、もうオロオロオタオタしてメンタルがボロボロになって、多分とんでもない状態になってた」

 そうなるとはとても思えないけど、先輩は確信があるかのように言い切ると俺に目線を合わせてくる。

 いつも俺を見上げてきたその視線は、身長が逆転して見下ろすかたちになっても慣れ親しんだ柔らかさを有していた。

「――でも、依澄君が隣にいてくれたから。

 依澄君が私を『星川なぎさ』だって思ってくれてるから、私も『私は私だ』って思える。

 だから怖くないよ」

 優しい声で言いながら、先輩が俺の頭に手を置いた。

 何度もその手が頭を往復し、俺の中にあった恐怖を消していく。

 ――そうだよな。

 俺だって先輩が『神井間依澄』だと思ってくれてるんだから、俺は俺なんだよな。

「先輩はすごいですね」

 思わず感嘆の言葉を漏らすと、先輩は少しだけ眉を下げた。

「すごかったら私達を取り巻く謎を全て解いて依澄君を安心させてるよ」

「そんなことしなくても十分すごいです。

 先輩のおかげで恐怖が大分吹っ飛びました」

 頬が緩んだ顔で先輩を見上げる。すると俺の頭から手が離れた。

「それならいいけど。

 元気のない依澄君よりツッコミ入れまくる依澄君の方がいいし」

「ツッコませるようなことばっかり言うからじゃないですか」

「お、ホントに元気になったみたいだね」

 さっきよりツッコミに明るさがあるよ、と訳の分からない評価をすると先輩が大きく伸びをした。

「とりあえず、今日はもう寝よう? 色々あって疲れたし。

 あ、これミアナさんから。『寝る時に使ってね』だって。

 パジャマらしいよ」

 そう言いながら差し出されたのは、先輩が抱えていた薄青色の布の塊だった。二つ持っていたらしく、小さい方を渡される。大きい方が先輩の着替えなんだろう。

「ありがとうございます」

 受け取りながら礼を言うと「どういたしまして」の言葉と共に先輩が立ち上がった。

「じゃあ私は隣の部屋にいるから。

 おやすみ、依澄君」

「おやすみなさい」

 ひらひらと手を振りながら退室する先輩に手を振り返す。先輩の姿が完全に消えてから俺は持ったままだったカップに口をつけた。

「うま……」

 何でこんなに透明なのに、しっかり味がついているんだろう。

 香りから予想できたが、スープはその透明さから想像できなくらい複雑な旨みが口の中に広がる。おまけに結構な時間が経っているのに熱い。その熱さがまた旨い。

 胃がスープの美味しさに刺激されて空腹を訴えてきたけど、一度断ってしまったので用意してもらうつもりはなかった。いくら向こうが構わないと言ってても気が引ける。

 今日はもう寝よう。

 そう決めて空になったカップをベッドの横にある小さな石造りのテーブルに置くと、先輩が置いていった薄青色の布を見つめた。

「明日ミアナさんとシンにもお礼を言わないとな」

 ジャージと制服のスカートで寝るのを覚悟していたから、着替えを用意して貰えたのは本当にありがたい。

 というか、衣食住全てシン達の厚意に甘えまくっている。

「いつまでも世話になりっぱなしはまずいよな……」

 これからずっと面倒を見てもらうわけにもいかないから、早晩自活の道を模索すべきだろう。

 でもここは異世界だ。

 財布に入っている日本円がこの世界で通用するはずもないし、換金出来そうな高価な物も持っていないし。

 まずは先立つものが必要だけど、足がかりになるものが皆無だ。

 とりあえずバイト経験なんてないけど、何とか仕事を探そう。

 その前に、世話になっているんだから皿洗いの一つでも手伝おう。

「よしっ、そうと決まればさっさと寝るかっ」

 早起きを決意してパジャマだと言われた布を広げる。


 すると、ミアナさんが着ていたワンピースをもっと薄くしたようなひらひらのネグリジェが現れた。


「……………………これは、無理」

 俺はそっとネグリジェをたたみ直すと、そのままぱたりと横になり目を閉じた。



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