身体も心も柔らかい人との出会い 1
呼び捨てでいいと言われ、取りあえず心の中ではシンと呼ぶことにした。さすがに命の恩人に面と向かって呼び捨てにするのは気が引ける。
シンの話によると、ここは水精と奉る社の地下に位置する『精域』らしい。
『精霊が生まれる場所の一つ』と説明され、実際増え続ける光球を目にして納得する。
そしてシンがさっき手にしていた刃物について聞けば、「すまない。料理の途中だったものだから」と、俺たちを無駄に驚かせてしまったと謝られた。包丁みたいだと思ったら本当に包丁だったらしい。
凶器の謎が解けてすっきりしたけど、そんなに大きな包丁で何をさばいていたのか今度はそっちの方が気になった。まぁ、それは後回しだ。
「自分が信用できないならこれは君たちに渡しておくが」と、巨大包丁を差し出されたが俺も先輩も丁重に断った。
シンを信用しているのもあるけど、そんなでかい刃物を持つ勇気は少なくとも俺にはない。
結局包丁はシンが左手で持っている。
「荷物はそれで全部か?」
水精の囲まれたシンの問いかけに、カバンを持った俺と先輩は頷く。
ちなみに先輩は待っている間に「さすがに恥ずかしいから」と、濡れた状態の俺のブラウスを着ていた。
その羞恥心を俺に対しても発揮してほしかったが、ジャージを譲ってもらった身としてはあまり強くは言えない。
それにいくら絞ってもブラウスは水分を多量に含んだままなので、身体に貼りついてくる感触は先輩にかなりの不快感を与えているはずだ。俺のジャージも水しぶきで大分濡れたけど、先輩よりはマシだ。
「っくし!」
「ん?」
先輩のくしゃみにシンは俺達を凝視すると首を傾げた。
「濡れたままだと病気になるぞ」
そう言うシンは、あれだけ水しぶきをあげて落ちてきたのにほとんど濡れていない様だった。
不思議に思いつつも、俺はシンに理由を告げる。
「俺達着替えの持ち合わせがあまりないから仕方ないんです」
改めて考えると俺はジャージにスカート、先輩はブラウスにジャージ下とちぐはぐな服装だ。
これが異世界のコーディネートだと思われたらちょっと恥ずかしい。
というか、この世界に来たら何故か俺と先輩の性別が逆転した事をシンに告げるべきだったのかもしれない。
包丁にびびったのとその後トントン拍子に話が進んだ結果、言う機会を逸してしまった気がする。
もしシンが俺達の服装に疑問を持ってくれたらそれをきっかけに話せたかもしれないけど、何も言われないし。
ここから出て、落ち着いて話せる機会が出来たら相談しよう。
……あ。敬語で話していたから語尾に違和感はなかっただろうけど、一人称が「俺」の女子ってやっぱり変だよな。
かと言って「私」とか「あたし」なんて、口が慣れてないから無理だ。少なくとも今すぐには。
そんな俺と違って、先輩は最初から語尾のイントネーションを微妙に変えていた。普段とは少し違う口調にする事で、端的に言うとオネエっぽくならないようにしている。だからか一人称が「私」でもあまり違和感がなかった。
これは単純に演技力の差だろう。
俺は演劇部だけど裏方で演技力は皆無だし、先輩はともかくシンも特に俺の口調に変な顔をしていないから、しばらくは「俺」で通そう。
「――ああ、そうか。
わかった。少し、じっとしててもらえるか」
そんなことを思っていると、シンが何やら納得した様に一つ頷き、先輩に向かって右手を伸ばしてきた。
「え?」
ぽん、と先輩の左肩にシンの右手が乗せられる。
そして、
『水精に乾燥を願い奉る』
少しエコーのかかった声でシンがその言葉を発した瞬間、先輩の身体が青い光に包まれた。
「うわっ!」
「先輩!?」
光は一瞬で、先輩と俺が驚きの声を上げた時にはもう消えている。
ついでに先輩の髪と服から水分がなくなっていた。
「…………おぅ、ふぁんたじぃ」
先輩の上半身に貼りついていたブラウスもジャージ下も一瞬で乾いている。サラサラ流れる髪の毛に手を通しながら、先輩が似非欧米人みたいな発音でつぶやいた。
いやでも気持ちはわかる。
「ま、魔法だ……」
まさかこの目で見るとは思わなかった。
そんな俺の言葉がどういう意味で聞こえたのか、シンに「別に禍々しい術じゃない」と真顔で否定される。
「水精の力を借りて髪や服を乾かしただけだ。
ほら、イズミも」
「えっ、あっ、はい」
シンの手が俺の肩に置かれてさっきと同じ言葉が唱えられると、先輩と同じように俺の服と髪が一瞬で乾く。
熱も風も感じない。濡れた状態から乾いた状態へと途中経過なしでの変化に、脳がついていかない。
「うわ、わ」
別に捲りあがったわけでもないのに、乾いて軽くなったスカートが浮いた気がして、思わず左手で股間部分を押さえた。
「わー……」
スカートの上から感じる平坦さに、何度目になるかわからない喪失感が襲ってくる。
「不具合があったか?」
俺が俯いたままだったせいか、心配が含まれたシンの声が問いかけてきたので、俺は慌てて顔を上げた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
不具合ありまくりだけど、それはシンのせいじゃないし。
「シンさん、乾かしてくれてありがとうございます」
俺に続いて先輩が礼を言うと、またシンが「大したことじゃないから」と赤くなった。
そんなシンが面白かったのか、周りにいる水精たちの笑い声が大きくなる。
そうだ。
「――えっと、アクエラ、だっけ? お前たちもありがとうな」
さっきのシンの言葉通りなら『水精の力を借りた』という事は、この場にいる青い光球たちが俺達の服や髪を乾かしてくれたのと同義だろう。それに何よりこうして助けを呼んでくれたし。
そう考えて辺りに浮かんでいる水精にも感謝を告げる。俺に続いて「うんうん。色々助かったよ。ありがとう」と先輩も水精にお礼を言ったら、何故かシンが驚いた表情を浮かべたのが視界に入った。
次の瞬間、水精たちが輝きを増して辺りをくるくる回りだす。きゃわきゃわ言ってたのがきゃーきゃーに変化して、照れて走り回る子供を連想させた。
「あはは。かわいい」
「なんか女子ってすぐ『かわいい』って言いますけど、ホントにそう思ってるんですか?」
「思ってる思ってる。ただかわいいの守備範囲が広いだけ」
「えー……」
守備範囲広すぎだよな、と声には出さずに思っているとシンがまだ驚いた表情のまま俺達を見つめているのに気付く。
「シンさん?」
呼びながら見上げると、我に返ったシンと目が合った。
「もしかして俺達、変な事しちゃいましたか?」
「いや。全然そんなことはない」
軽く首を振ったシンはそう言うと、俺達を手招いた。
「これから上に戻るけど、少し集中を必要とする。
すまないがなるべく近くにいて、出来れば地上に戻るまで話しかけないで欲しい」
その言葉に、俺と先輩は首肯するとリュックやドラムバックを背負い直す。
シンも頷きを返すと、俺達に背を向けた。
その真後ろに俺と先輩が立つ。
はしゃぎまわっていた水精が静かになって俺達を取り囲む。
すぅ、とシンが息を深く吸うのがわかった。
『水精に地上への導きを願い奉る』
シンの言葉に応じるように足元が円形に輝きだし、噴き出した大量の水が俺たちの身体を押し上げた。
足元を見れば勢いよく噴き上がる水飛沫が膝までかかっていたけど、術の作用なのか少しも濡れない。これだけの勢いの水が足裏にあたってるのに何も感じない。
「わぁっ、すごいすごい」
「うっ」
先輩は目を輝かせて辺りを見回しているけど、俺の身体は強張る。
「水力エレベーターって感じだね」
言い得て妙だ。噴水の上に板乗せてその上に乗ったらこんな感じになると思う。その前にバランス崩して落っこちるだろうけど。
そしてそれはこの現状にも同じことが言える。
むき出しの状態でエレベーターと同じ速度で上昇していくのは、結構怖い。バランス崩して倒れたらそのまま真っ逆さまだ。
思わず隣にいる先輩の持つドラムバックを掴んでしまう。
「ん?」
「あ、すみませ……」
視線を俺に向けてきた先輩に謝りながら右手を離す。と、その手を先輩の左手に包み込まれた。
「せっ先輩?」
「いやいや、絶景だよね。
でも浮かれて足を踏み外しちゃいそうだから、ちょっとこうさせてて」
大きさは逆転したけど温もりは変わらない先輩の手が、ぎゅっと力をこめてくる。
恥ずかしい。また先輩に気を遣わせてしまった。でも実際、先輩の手のあたたかさが俺の恐怖を消してくれる。
「ほらほら、依澄君。綺麗だよ」
「……本当ですね」
先輩に倣って周囲に視線を巡らせると水精が点在していて、蒼く青く辺りを照らしている。
地底から見上げた時には見えなかった柱の頂点が見えて、通り過ぎ、足元から遠ざかっていく。
暗闇に包まれていた出口は、水精の輝きのおかげで巨大な縦穴らしいことがわかった。
さっきまでいた精域と同じ位の広さの縦穴の中央部分を俺達は水の力で上がっていく。
「すごいなぁ……」
感嘆が自然と口から溢れた。
一体どれだけ地下深くに俺達はいたんだろう。
そう思いながらそろそろ出口が見えないか、と顔を上に向ける。
すると十メートルくらい先にゆらゆらと揺れる水面が見えた。
「え?」
おかしい、と思う前に上昇を続ける俺達の身体は水面に飛び込んだ。
咄嗟に息を止めて目をつぶる。
だけど身体が濡れた感触がない。
恐る恐る目を開けると、周囲は縦穴から果ての見えない水中に変化していた。
「なっ!?」
声を上げると口から少し離れた所で気泡になった。
反射的に息を吸えば、普通に呼吸ができた。水中なのに。
多分これも術のおかげなんだろうけど、頭がついていかない。
どうやら身体の周囲に空気の膜が出来ているらしい。
おかげで溺れることはないようだ。そのまま方向を変えることなく垂直に進み続ける。
と、俺の手を握る先輩の手に力が込められた。
隣を見るとぎゅっと目を閉じて身体を縮こまらせている先輩がいた。
そうだ、先輩泳ぐの苦手だった。
思い出したら身体が勝手に動いて、俺の右手を包み込む先輩の左手に自分の左手を重ねていた。
「先輩。大丈夫ですよ」
俺の声が聞こえたのか、ふっと先輩の身体から力が抜ける。
ゆっくりと開かれた先輩の瞳に視線を合わせてから、誘導するようにシンの背中に向けると先輩もそれに続いた。
「ファンタジーだねぇ……」
「ですね」
水中になっても変わらず辺りを漂う水精に、その水精を通じて術を行使するシン。
改めてここが違う世界なんだと実感する。
さりげなく左手を離し、だけど右手は先輩とつないだまま、俺達は水中を移動し続ける。
やがて、キラキラと光を乱反射する水面が視界に入った。
水精の青い輝きとは違う、白い輝きは陽の光を思わせる。
「地上……?」
「きっとそうだよ。いやいや、長かったね」
ホントに長かった。実際の時間はそうでもないだろうけど、色々あり過ぎた。
とりあえず地上に出たらシンに御礼を言って、これからどうしたらいいか色々相談に乗ってもらおう。
そう考えながら、俺は導かれるままに水面を頭から飛びだした。
瞬間視界に広がったのは、傾きはじめた太陽と赤みがかった空、水面に立つ淡い水色の髪の女性――え?
「わぷっ」
水面から飛び出した俺は、大きくて柔らかな胸の谷間に頭から飛び込んでいた。
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