第2章 「禁忌の子」 全28話+2 

プロローグ 悪い夢を忘れない

 薄暗い洞窟の中。鮮血がアールの手を赤く染めていく。

「あ……あぁ…………」

 呆然とした面持ちで顔を上げると、そこには彼女が誰よりも信頼しているその人が、背中の激痛に耐えながら笑顔を浮かべていた。

「ご、ごめんなさ……。ちがっ、わ、たし……」

 何とか弁明しようとするけれど、上手く舌が回らない。それもそのはず。他の誰でもない、自分が彼を背後からナイフで突き刺したのだ。言い訳のしようがない。

「大、丈夫だ。このくらいの傷……」

 その人……ランドはナイフを背中に生やしたまま、それでもアールを安心させようと笑みを一層濃いものにした。

 そんな過ぎた優しさが、アールにより深い自責の念をかり立てさせる。

「ただ……、もうここからの挽回は……厳しそうだ」

 ランドは大きく息を吐いた。少しだけ笑顔を苦しそうに歪ませた。

「そんな! だめ、ああ、どうしたら……!」

 アールは相も変わらずつっかえつっかえにしか言葉が出ない。もはや冷静さなど微塵も消え失せてしまっている。

 そんな彼女にランドは穏やかな声で告げる。

「……逃げるんだ。僕が時間を稼ぐから……」

「嫌です! 置いていくなんて……そんな!」

 すがるようなアールの言葉にゆっくりと首を振る。

「駄目だ。ここで二人ともやられれば……何も残らない。君だけでも、逃げるんだ。……僕を置いて、逃げろ……!」

「いや、いやです! わた……わた、し、まだ、何も恩返し出来てないのに……」

「行くんだ! 君が生き延びることが、最高の恩返しだ……!」

 最後にそれだけ言うと、ランドはアールを突き飛ばした。痛くないように柔らかく押し出すようなその動作にも、ランドの優しさを感じたアールは涙や鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながらも、ついに踵を返した。

「絶対、助けますから……必ず、助けに来ますから……!」

 そう決意を胸に駆けだすも、次の瞬間。

 アールの前に巨大な黒い影が降り立った。

 ………………

 …………

 ……

「……きろ、起きろ……おい、アール。起きろ!」

「ぎゃ!?」

 自身を呼ぶ声とげんこつにアールは瞼を開いた。

「リクさん……? なんですか?」

 頭をさすりながら身体を起こしたアールに、眼鏡をかけた銀色の髪の男が不機嫌そうな声で言葉を返す。

「どうもこうもない。隣でえんえん泣かれてたら読書に集中できないだろう。どんな夢を見ていたか知らないが黙ってろ」

「夢…………」

 ため息を吐いて本に視線を戻すリクの横で、アールは今しがた自分が見ていた悪夢を思い出して身震いした。

 忘れなきゃ……。いや、違う。忘れちゃいけないんだ。わたしはあの人のことをぜったい忘れたりなんかしない。

 自分のために犠牲になった彼のことを思うとアールは胸が締め付けられる思いだった。辛くて、悲しくて、胸が苦しくなる。

 しかし、そんなことをあかたさまに表に出す彼女ではない。

「そうだ、リクさん。勉強会やってくださいよ! 勉強会!」

「………………」

「あれ? ちょっと、聞いてます? リクさーん。せんぱーい。ごしゅじんさまー!」

 耳元で喚き始めたアールに、寝かしたままの方がましだったとため息を吐いてリクは魔導図書をぱたんと閉じた。

「五月蝿い」

「だぁって~。暇なんですもん~、することないんですもん~」

 身体をくねくねさせながら言うアール。

 揺れる馬車の中にはアールとリクしかいない。リクのように世界の全ての知識を蓄えた魔導図書という暇つぶしがないアールには寝る以外の暇つぶしといったらもう、リクとのおしゃべりしか思い浮かばなかった。

「お前の耳は飾りか? 俺は読書に集中できないからお前を起こしたと言ったんだ」

「飾りならもっと可愛い耳をくっつけますよ! 猫耳とかぁ、犬耳とかぁ、デーモンホーンとか」

「今ぶっちぎりで魔族チョイスいったな」

「はい。それじゃあ本日の議題は、魔族と人間ということで」

「……お前、そんなことも知らないのか」

「ええ。まあ。ぼんやりとしか」

 リクは三度目となるため息を吐く。

 アールは自称田舎娘なだけあってこの大陸についての知識がおおよそ無いに等しい。こんなのが大陸最大の調査機関にして全知と比喩されるほどの知識を溜めこむ王属万全図書館の一員なのかと思うと情けなさすら覚えたが、それを放置したままにしておくのは現在アールの上司であるリクにとっては許容しがたい事態であった。

 故に、リクは毎日少しずつ、アールへ己の知識を注ぎ込んでいくことにしていた。アールも無知を自覚していたのか、それとも今のままでは生きていくのも厳しいと思ったのか素直に耳を傾けている。

 ただ、今回のようにアールが自分から何かを教えてくれと言い出すのは非常に珍しい。普段はリクが自分の思い立ったタイミングで突然語り出し、アールも自然と聞く姿勢になっているのだ。

 なので急に教えを乞うたのには何か誤魔化そうとする意図があるのだろう。

 それが何なのかアールの寝言でだいたい見当ついてはいたが、それをわざわざ口にするほど野暮でも無神経でもなかった。

「大陸にまだ何の生き物もいなかった頃――」

「ところで、あとどのくらいで到着しますかね」

「………………」

 リクは黙って手にした本を開いた。学ぶ気がないものにわざわざ無理やり教え込むほど親切でもおせっかいでもなかった。

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