エピローグ 夢から覚める頃

 「ぞれでば、びださん……っ、おげんきでぇぇ……。ふぉんどうに、ごめいわくをおがけじまじだぁ……!」

 アリ――いや、アールがぼろぼろと涙で顔を汚しながらフルーナたちに頭を下げた。

 箱記載番号38番『アラクネ』を討伐しゲインの街を解放した後、アールは、図書館に戻ることになったリクに連れていかれることとなった。

 脅しを受けていたとはいえ、彼女は洗脳されてリクたちを裏切っていたわけではない。全くお咎めなしというわけにはいかないのだろう。

「な、泣くなっつのー。べ、べづに、もう二度と会えないわけじゃないんだがらさぁ」

 言いながら途中から涙声になったイガルガがふいと顔を背けた。

「そのとおりです。たとえ離れたとしても、アールさんと過ごしたこの数日間のことは、決して忘れません!」

 フルーナもうっすらと瞳を潤ませているが、その顔には笑顔の花が咲いている。

「ま、また……きっと…………」

 それ以上は辛くて言えないというようにネルマはそれっきり俯いてしまった。と思いきやすぐに顔を上げて涙を零しながら最後まで言い切る。

「きっと……一緒に、お風呂に入ったり、料理を作ったりしましょう……!」

 オズベルは特に別れが悲しいという気持ちにならなかった。きっと心のどこかで、アールがスパイだったという事実が引っかかっているのだろう。それでも、オズベルは穏やかな微笑みを浮かべると努めて優しく声をかけた。

「それじゃ、元気で」

「はいぃっ、びださん、ざよぼだら~」

 涙の別れが繰り広げられている傍らでリクとトルは向かい合っていた。

「後は頼む」

「うん。任せて」

 別段特別な挨拶も無い。図書館職員と騎士団員と、立場の違うアールたちに比べ、同じ図書館職員である二人にとってこの別れはさして惜しむようなものではないということだろう。ただ、それを差し引いてもやはり二人の挨拶は手軽だった。

「それにしても……」

 トルはちらと、いよいよ号泣して抱き合うアリたちを見やる。

「ちょっとイジワルじゃない?」

「知るか。あいつらが勝手に勘違いしているだけだ」

 リクが知らんぷりをするように瞼を閉じてみせるとトルは苦笑を漏らした。

「俺は事情聴取のために本部に連れて帰ると言っただけだ」

 その後にひどい罰が下され二度と会えないと思い込んだのはあいつらだとリクは語る。

「そうかもしれないけど……。十日もしないで会えるのに……」

 トルは額を抑えながらため息を吐いた。

 ランドの担当していた箱の調査活動は全面的に特別調査隊に引き継がれることになった。ランドの容態が安定していないため、彼が無事だった場合に入れ替わりに司令官の席を空ける予定だったリクの人事はどう転ぶか定かではないが、そのランドの助手で箱物調査に長く関わった経験があり、もともと特別調査隊の一員としてリクの様々な行動計画に組み込まれていたアールは、ランドの調査報告の空白を埋める分の事情聴取を済ませたら、特別調査隊に戻ることが既に確定されていたのだ。

「奴が死んでいたら、俺もここに戻ってくることになるな」

「もう、そういうこと言わないの」

「そうなることを望んでいるわけじゃない。俺としても無能どもの面倒を見るのはうんざりしているからな」

「だから、そういうこと言わないの!」

 ぽかっと頭を叩こうとしたトルの拳をあっさりと躱してリクは彼女に背を向けた。そしてアールに、

「おい、そろそろ行くぞ」

 と言うなり朝日の差しこむ街の下り坂をさっさと歩き出した。

「え、あ、はい! それじゃあ、さようなら!」

 アールは涙を拭いながらいつまでもフルーナたちに手を振っていた。

「………………」

 角を曲がりトルたちの姿が見えなくなっても、アールはまだ涙を止めきれずにいた。同時に、妙な緊張感が二人の間に流れる。アールはあのことを覚えていたのだ。

「悪かったな」

「……え?」

 だから突然リクがそんなことを言い出したとき、まさかとは思いつつ若干の期待を寄せながら彼の顔を見上げた。

「二日目の晩。お前が料理を持ってきたとき、陰口を聞かせただろう」

「あ…………」

 自分の予感が当たっていたことにアールは逆に驚いてしまった。リクが謝っていることも合わさって、驚き祭りだなぁ、などと考えてしまうぐらいには驚いていた。

「詳しい話は面倒だから省くが、あれは本心じゃない」

 その台詞を聞いた途端、アールの心はなんだか晴れ渡る思いだった。

「えと、それはつまり、わたしが箱物のスパイかどうかを探るためだった……みたいな?」

 けれどどうしても信じられないアールはその気持ちを素直に表現することができなかった。一度虎ばさみを踏んだら、そこの茂みにまた虎ばさみがあるのではないかと警戒してしまうのと同じように。

「違う」

 リクは軽く首を振った。

「お前に嫌われるようにわざと陰口を聞くように誘導した。スパイかどうかを探るためだったなら、実際お前がスパイだったわけだから謝る必要性がないだろう」

「…………ですね……」

 結局アールは消沈した。わたしに嫌われようとしていたってことは、わたしが鬱陶しかったってことか……。ほらね、やっぱり。わかってた。

「だが、今はお前に嫌われたくない。……いや、違うな。嫌われたいとは思っていない」

「……………………え?」

 アールは呆然と隣のリクの顔を見上げた。まっすぐと前だけを見て歩いている彼の横顔を見つめていると、しばらくしてようやくその言葉が頭に染み込んできた。

 え? いやいや……え? き、嫌われたくないって……え? 言い直してはいたけど、リクさんって……え? ツンデレ……え? ということは……?

 もちろん、何か自分が勘違いしているだけだろうと心のどこかで感じてはいた。けれどそれを遥かに上回る驚きと照れが、アールを抑えきれなくさせた。

「ぅええええええええええええええええええええっっ!?」

 見送りを終え共同住宅の玄関を開けたところだったトルたちにも聞こえるほどの大きな叫び声は、後に、彼女たちとすぐに再会できることを知らせたときも、リクの耳を塞がせることとなるのだった。


――完――

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