第6話 ナイムネ ゼロムネ アルムネヒト
「はぁ~~……」
アリが深くため息を漏らした。
ただしその声音に、暗い雰囲気はなく、どちらかといえば快楽の色がうかがえた。
「いい湯ですね~。疲れた体にしみますわ~」
浴槽の端に肩から上をうつ伏せにもたれかかりながら呟く。
「…………」
自分の声の残響が大浴場から完全に消え失せるのを待って、アリは勢いよく飛沫をあげながら振り返った。
「ちょっと! これじゃーわたしが寂しく独り言を言ってるおっさん臭いOLみたいじゃないですか!」
「…………?」
今なんて言ったの? と言いたげな面々にアリは自分の額を押さえる。
「や、すみません。ちょっと意味不明なこと言いました。だけどですねぇ! まったく無視するこたぁないんじゃないですか!?」
「…………」
「……ハハッ」
なおもリアクションがなかったアリは顔を引きつらせて笑う。
暗い。暗すぎる。たった一人の歳もそう変わらない女性に大敗をきして以来、騎士団特設部隊の人間はアリ以外誰一人まともに口を開いていなかった。
これじゃあこんな広い湯船につかっているというのに体が休まっても心が休まらない。
「あれえ? そおいえばフルーナさんの姿が見えないなあ。どうしたんだろお」
何とか場の雰囲気を変えようと、再び話題を見つけて無理やり発言すると、とうとう、いたたまれなくなったネルマが応じてくれる。
「え、えっとぉ……。確か、夜の分の鍛錬を忘れていたので、その分の走り込みをするって……」
「マジですか。え、いや……マジですか」
日はとっくに越えていて心底疲れていたアリは、どこにそんな体力があるんだと思わず素の反応を返してしまう。
「すごいですよねぇ……」
感想らしい感想は述べられなかったがために、ネルマも神妙な顔で頷くだけで、そこで会話が途切れてしまった。
再び訪れる気まずい沈黙を破ったのはオズベルだった。
「ごめん」
「え?」
「私の身勝手で、あなたたちを巻きこんじゃうところだったわ。だから、ごめんなさい」
そう言って三人の方に向き直り頭を下げるオズベルにアリたちは慌てた様子で言葉を掛けた。
「や、やだなぁ。罰ゲームのこと言ってるんですか? 今こうしてお風呂に入れてるんですし、いいじゃないですか。ねえ?」
「そ、そうですよぉ……。謝ることないです……」
「けど、それはトル書記員がリク高等執筆員を説得してくれたおかげであって……それがなければ、今頃は……」
確かにオズベルの言う通りトルの厚意がなければ、自分たちは今頃、深い森の中で水浴びすらせずに寝袋に包まっていたかもしれない……。そう思うと二人は二の句が継げないでいた。
「んなこと、どうだっていいのよ」
「え?」
そんな状況を打破するかのように、アリがいるのとは反対側の浴槽の端で頬杖ついて横を向いたままのイガルガが口を開く。
「結局アタシたちは、アンタが勝った負けた悩んでる相手に完敗した奴らなんだから、アンタのせいで野宿だー、なんて言う権利ないのよ。文句あんなら自分で勝ちゃあ良かったってこと」
ズバズバとした物言い、けれど冴えた内容に同調するようにアリとネルマもこくこくと頷く。すると、オズベルの表情もいくらか和らいだように見えた。
「……ありがとう」
「べ、別に。当たり前のことでしょ。バカ」
オズベルの素直な感謝の言葉とは対照的な態度をとってイガルガはそのまま壁の方を向いてしまう。
う~ん。アリはその様子が、単なる照れ隠しとは思えなかった。いや、隠しはしているのだけれど、どうにも身体を、特に上半身を隠そうとしているように見えた。
アリはイガルガの方に向き直ると、にやにやと笑みを浮かべながら、わざとらしく声を発した。
「そうですよっ。女性の胸が膨らむのと同じぐらい当たり前のことですよ。膨らまない胸なんか胸じゃないですよ。ええ、まったく」
「がっ…………」
試しに放った言葉の矢は見事イガルガをとらえたらしい。うめき声が上がる。
自身の平坦な体つきを気にしているイガルガはぷるぷると震えながらゆっくりとアリを振り返る。そして右手の人差し指をアリの胸部に突き付ける。
「こ、ここ、こここの…………アンタに言えんのかッ!? ナイムネッ!!」
そこにはおよそ膨らみかけとしか形容できない代物がつつましやかに添えられているだけであった。
「だぁあ!? 言ってはならないことをッッ!」
アリはショックで声を張る。
「アンタから喧嘩売ってきたんでしょうがッ! つか自分でもナイムネっつってたでしょうがッ」
イガルガも負けじと大声で反論する。
「自分で言うのはいいんですッ。それに!? ゼロムネよりは!? 幾分かましですし!?」
「ぬぁああああにぃいいいいい!?」
突如勃発した貧相な身体の持ち主による争いにアルムネ達は戸惑いを隠せないでいた。
「アリが悪いわね。今のは」
それでもオズベルが何とか落ち着きを払って冷静に分析する傍ら、ネルマは愚かにも喧噪の中に身を投じてしまう。
「お、落ち着いてくださぃ。喧嘩は良くないですよぉ……」
途端に、ばちゃばちゃと水をかけあうまで発展していた二人がキッとネルマを睨みつける。
「いいですねッ。そんな立派なものをお蓄えなさってる人は! 余裕があって。裕福であるからには税を。固定資産税をお支払い願いますっ」
「アンタみたいなのがいるから、アタシが惨めな思いをしなきゃなんないのよ! このデカパイッッ」
「ふ、ふえぇぇ!?」
顔を真っ赤にして、この中でならば最もたわわで豊満なそれを、両腕で隠すネルマと、それをギャーギャーと非難するイガルガとアリを眺めながら、まああるよ程度のオズベルはふと思う。
騎士団の所属者数は現在、一万前後だ。故に騎士科や魔法科など各修科の人員も相当数いるわけで、特別な事情がない限り、他の修科の人間との交流はほとんどなく、部隊編成がされる際には多くの場合が初対面ということになる。
それは今回とて例外でなく、自分たちは騎士団の中でも数少ない女性であるにもかかわらず昨日着任するまで面識がなかった。
それが、たった半日の内にこうも仲良くなった。今の惨状を見る限りではとても仲が良さそうには見えないけれど、そうでなければこうして素肌を晒して騒ぐなんてことは起こりえない。
何故だろう。何故自分たちは短期間でこれほどまでに打ち解けあうことができたのだろう。
女同士だから? いや、違う。そんな簡単な話ではない。少なくとも、自分はそんな簡単な人間ではない。たかが性別程度で簡単に仲間意識を持ったりはしない。
そんな風にオズベルが思案に明け暮れていると、言い合いに疲れた様子のイガルガが顔に張り付いた前髪をかき上げながら矛先を変えた。
「にしても、あれね。あのクソメガネ、ほんとなんなのアイツ。ムカつくったらないわ」
「おおふ。唐突な隊長ディスリスペクト」
「え、隊長ってあの眼鏡をかけた人なんですか……?」
きょとんとした顔で尋ねたネルマにアリも同じ表情になって訊き返す。
「あれ、違うんですか? どうやら私たちが集められたのが、あの方に要請されたからみたいだったので、てっきり指揮下に入るのだとばっかり……」
「冗談じゃないっつのーッ。女の方ならともかく、あんな陰湿ごみ眼鏡の指揮下に入るなんて」
「言い過ぎ感はありますけど、確かにちょっときつい方でしたよね。もうちょっと、こう……気遣いみたいなのがあってもいいと思います。あれは本気で私たちを道具だと思ってますよ」
「怖い人は嫌です……」
「そんじゃあ、女の方がリーダーってことにして最低クズ眼鏡の言うことは無視するわよ」
「それは無理ね」
勝手な発言を見かねたオズベルが口を挟むと、イガルガは口を尖らせて彼女の方を向く。
「あんでよ。もしかしてああいうのが好みなわけ?」
何故そうなる。と眉をひそめながら説明する。
「そうじゃなくて、彼らの役職的上下関係をひっくり返してトル書記員を指揮官に祭り上げるのは不可能ってことよ」
「ああ、そういえば、オズベルさんってば、あちらさんのことを最初から妙な呼び方してますよね。書記員とか、なんたららとか。それって役職の名前だったんですか?」
アリの質問に軽く頷き、オズベルは言葉を続ける。
「館長、司書員、高等執筆員、執筆員、書記員、記録員、補佐員、見習員。順に図書館の役職の高位よ。リク高等執筆員とトル書記員には階級差が二つあるし、騎士団と違って最上位の指名で本来下の階級が一時的に特権を得ることもないらしいわ。まず間違いなく私たちの指揮を執るのはリク高等執筆員よ」
「あによ……サイアク。じゃあもう任務放り出して帰る?」
「だだ、駄目ですよぉ……! そんなことしたら騎士団に戻れなくなっちゃいますよぉ……」
とんでもないことを言い出したイガルガをネルマが慌てて引き留める。
「ところで、オズベルさんはなんで役職を付けて呼んでるんですか? てかそもそもなんで知ってるんですか? 名前とか、役職とか」
「何でって……辞令に書いてあったでしょう。名前とか人相とか」
「あれ、そーでしたっけ?」
「それで呼び方だけど、敬意を払って……っていうのが建前で、区別をつけているのよ。仕事上の関係者と、友人や仲間を」
本当はどちらでもあるというのが本音だったけれど、こう言った方がより信頼を得られると判断したオズベルの思惑通り、アリたちのオズベルを見る目がほんのり変化した。
照れと騙したような罪悪感から顔を背けながらオズベルは更に続ける。
「そんなわけだから、今この瞬間にリク高等執筆員から呼び出しがあったとしても、私たちが文句を――」
文句を言うだけ無駄。そう言おうとしたオズベルの言葉は最後まで形にならなかった。
ガラリと突然に浴場の扉が開けられて、湯煙の向こうに苛立った表情のリクが立っていた。
「お前たち、いつまで風呂に入ってるんだ! 予定が進まないだろうがッ、とっとと上がって食堂に集合しろッ」
それだけ言うとぴしゃりと扉を閉めてリクの姿は消えた。
沈黙がいくらか続き、乙女たちの悲鳴が上がるのはもう間もなくであった……。
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