第729話 猛烈に嫌な予感

そろそろ話題も尽きてきた頃、バタンと勢いよく開かれたドアがニコロ司祭の到着を知らせた。

ツカツカ、と早足でやってきた痩せぎすの司祭は用意された席に着くや前置きの口上を一切述べることなく


「では、始める。報告を」


とだけ告げた。


ニコロ司祭は元々余計な口上を嫌う人物だったが、さすがに異常である。

おそらく、猛烈な忙しさが極限まで無駄を省く、という行為にでているに違いない。

そんなに忙しいなら呼び出さなければいいものを・・・と思わないでもない。


こちらもニコロ司祭の流儀に合わせることにする。


「こちらに報告書があります」


余計な挨拶はやめ、託されていた分厚く、ずっしりと重い報告書を直接手渡した。


ニコロ司祭は一瞬だけ片眉を動かしたようだったが、何も言わず受け取ると


「少し待て」


とだけ断り、懐から掴みだした銀色の粉をふりかけつつ小声で詠唱をはじめた。


やはり魔術か。封蝋を破ろうとしないで良かった。


何をしたかはよくわからないが、ばつん、と封蝋と革紐が千切れ飛び報告書の封印が解かれたようだ。

この時点で、俺のミッションは完了だ。正直なところ、帰りたい。


もちろん、そんなことを言い出せる雰囲気ではなく、ニコロ司祭が報告書をめくる音だけが静まりかえった教会に響き続けた。

小一時間は待たされる、と思ったのだが、それは杞憂だった。


パラ・・・パラパラ・・・パラララと、ニコロ司祭が報告書をを人間業とは思えないほどの速さでめくり続ける。


(あの速度で読めているのか?いや、読めているんだろうな)


一見すると報告書の内容を流しているように見えるが、おそらくそうではない。

ギョロギョロと素早く動く視線と、顔に昇ってくる血の赤さとが、内容を理解した上で興奮していることを示している。


速読、記憶力、理解力、それらの知的能力が高水準で備わっていれば不可能な芸当ではない。


およそ数分で鈍器のような報告書を驚異的な速度で読破し、ぱたり表紙を閉じるとニコロ司祭は口を開いた。


「問いただしたいことは幾つかあるが・・・まずは先に用件を済ませるとしよう。ケンジよ、そなたが持ち込んだ印刷業の管轄についてであるが、自然に放置するには世間への影響大、ということで教会で総合的に統括し、王国側で新規設立される印刷業組合がそれを補弼する形となった。教会は組織として出版部を設ける。そして出版部には各派で人員を派遣することで決着がついた」


少し理解しにくいが、国をまたいだ管理組織が教会、各地域の管理組織が王国などの統治機関、そして教会と統治機関で印刷業組合を設立する、ということだろうか。

教会に出版部を設ける、そこに各派の人員を派遣する、というのが教会内での利権をめぐる暗闘の結果の落としどころなのだろう。

会社法などないので、人員の派遣人数という人事によってガバナンスのバランスをとる、ということか。

合併する銀行などがよくやる方法だ。効率は良くないが、組織間の力関係を崩さない、という意味はある。


以上の形で印刷業の利権調整はついた、だから以降の襲撃はない、という宣言でもあるだろう。

どちらにせよ、雲の上の話ではある。


「穏当な落としどころだと思います」


教会のお偉方の前で主張した内容からは大幅な後退に見えるが、まあこんなところだろうな、というのも率直な感想ではある。

傍から見れば、せっかく考案した印刷業を教会にかっさらわれる形になるし、自由な印刷業の芽を潰す形に見えるかもしれない。


だが、見方を変えれば教会が印刷業全体を統括する、というのも今の段階ではそこまで悪い話ではないかもしれない。

生まれたばかりの印刷業は、活字の統一や用紙サイズの規格化など、効率的な成長のために様々な指針を必要としている。

大組織であり、同時に消費者である教会が印刷事業を積極的に主導することで、印刷業と出版市場の成長はより早くなるかもしれない。


どうせ市民階級全体に教会の出版物が行き渡る頃には、さまざまな技術開発や人々の好奇心によって教会や統治機関では管理しきれない多様な印刷物が出版されることになるだろう。

一度動き始めた事業、芽吹きはじめた人々の好奇心は多少の規制で押しとどめられるものではない。


そこまでに何十年、ひょっとすると100年はかかるかもしれないが、こちらとしては身の安全が第一である。

職人のゴルゴゴさえ教会に召し上げられなければ、地道に印刷機を改良して身内で精度を高めていれていればいい。


しかし、これだけの理由でなぜ急遽、領地から呼び戻されたのだろうか。

急ぐような内容には思えないが。


「そして教会では新規の組織である出版部設立にあたり、一部の人員に実務の経験を積ませることとなった」


なぜだろう。猛烈に嫌な予感がしてきた。


「代官にして枢機卿御用達靴工房の工房主であるケンジよ。そなたにも参加を命じる」


無理です。おことわりします。


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