第687話 待つことと思うこと
豆を配ってしまうと、領地運営の仕事にずいぶんと余裕が出るようになった。
基本的にはこちらからは何もせず、農民達のリアクションを待っている状態、と言い換えてもいい。
「ケンジ、ちょっと暇じゃない?」
「いや、別に」
仕事机の上には、決済待ちの書類が山積みになっているし、パペリーノは教会向けの報告書を書くのにペンをカリカリと動かしている。
「でも暇そうな顔してるわよ」
暇そうな顔、とは何だ。
サラの指摘に書面に落としていた視線をあげると、赤毛の娘は机の端に両手と顎を乗せて、椅子を前後にブラブラさせていた。
「前にも言っただろう?今は待つ時期だって」
ペンを置いて話しかけると、サラはこちらに視線を合わせずに口をとがらせた。
「わかってるわよ。村の人達が何かを言ってくるのを待つんでしょ?」
「そうだ。わかってるじゃないか」
栽培のための豆を配られた村人達は、今頃は家族会議を開いたり近所の農家同士で集まって、栽培方法や新しい代官、つまり我々について噂をしたりと新しい情報を咀嚼するのに忙しくしているに違いない。
「サラさんの不満はわかります。私も何かしなければ落ち着かない気分です」
パペリーノも、報告書にはしらせていたペンを止めてサラに同意する。
「そこは我慢のしどころだな。我々の言うことに、これからも耳を傾けて欲しかったら、相手が理解できる内容を、理解できるタイミングで、理解できるだけの量に絞り込んでメッセージを送らないとな」
パペリーノのような聖職者の賢い人間が陥りがちなのは、大衆の理解度を自分を基準にして考えてしまうことだ。
賢い人間が先導する改革はわかりにくく、しかもそのわかりにくさを伝える努力が不足しがちになりやすい。
結果として賢い人間の先導する改革は、笛吹けど踊らず、の言葉の通りになりやすい。
「あれだ、怪物の討伐と一緒だ。罠を張って待つようなもんだ。獲物がちょうどいい位置に来るまで、じっと待つ。そういうことなんでは?」
キリクの例えはわかりにくいが、時期を待つことの必要性を理解しているのならば、それでいい。
「じゃあ、こっちの手伝いをするか?」
「それって豆を配った日に集めた内容でしょ?それで何をしているの?」
「そうだな。今は教会から持ってきた生誕名簿の内容と合わせてチェックをしている」
「内容に間違いがあるってこと?」
「間違い・・・そうだな。違いはある。例えば」
そこで言葉を区切り、名簿の一箇所を示す。
「この農家は生誕名簿では6人ということになっているが、豆の登録に来た時に確かめた人数は7人だ」
「1人増えてるってこと?」
「いや。祖父1人が亡くなって、子供2人が増えている。差し引きで1人増えたということだ」
「それって、前の領主のせいなの?」
「そうだ。無茶な税の掛け方をするものだから、葬儀や誕生について報告するのを嫌ったんだろう。死んでも葬儀税、誕生しても人頭税、教会から情報が行くと思えば村民達が今の教会に寄り付かないのも納得できる。司祭が交代したのは、今考えると正解だな」
「嘆かわしいことです。ですが葬儀税はともかく人頭税の徴収は代官の権利ですから、当時の司祭も反対はしにくかったのでしょう。生誕名簿の情報を代官と共有するのは統治の原則として必要なことでしょうし」
「まあな。だが、そのせいで苦労するわけだ。今はとにかく名簿を正しい情報に更新しないとな」
データを集めただけでは役立たない。
こうした地道な正規化という過程を経て、はじめて活用できる情報へと加工できるようになるわけだ。
前の領主が代官を勤めた数年の間、この種の統治の劣化が各所に澱のように貯まっている。
今の時間を利用して、統治の仕組みの整備とメンテナンスを図っていく。
地道な行動に見えるかもしれないが、細部の仕組みが生きていないと政策を大々的に実施する際に失敗する。
「それと、気になるのは名簿に出てこない名前だ」
「出稼ぎの人ってこと?」
「そうじゃない。生誕名簿には載っているけれども、豆を取りに来なかった家だな。十分に豊かで豆の必要を感じていないのなら、それでいい。あるいは、他の村に逃げてしまったのでも止むを得ない。問題は、そのどちらでもなかった場合だ」
生誕名簿に書かれた幾つかの家庭の名前。
羊皮紙に滲んだ文字が、何かを伝えているように見えた。
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