第662話 豆を配る準備
数日間は、豆の配布事業に向けて全員がかかり切りになった。
他の領地から豆の手配を行い、住民の登録情報を整理し、配布のための笊や籠を準備する。
合わせて豆の栽培に詳しい人間がいないか、一応は探す。
ただ、一口に豆と言っても様々な種類があるので、その種の他の地域の専門家が役に立つかどうかはわからない。
むしろ、庭にレンズ豆を植えていた農婦のアドバイスの方が役立つかもしれない。
農婦は、そうして多忙な俺達の家事を手伝うために1日おきに働きにきていたが、ある日、おずおずと「本当に村人のために豆を配りなさるのですか?」と聞いてきた。
「そうでなければ、こんなに忙しくしてませんよ」と苦笑して答えると、しばらく言うか言わぬか躊躇した後に「できれば、屋敷でないところで配っていただけませんか」と申し出てきた。
「あまり屋敷に良い印象がない、ということでしょうか?」
「その、言いにくいことですが、前の代官様はたいそう自儘な方でしたから・・・」
なるほど。屋敷で配るとなると必要な人が受け取りに来ない可能性があるわけか。
「でも、ケンジは前の代官と違うんだから!」
「そうです。代官の変化と正しさを示すためにも、屋敷で配布をするべきです」
サラの言うこともわかるし、パペリーノは正しい。
前の代官から権力の移譲がなされた、政策が変化したことを示すためにも苛政の象徴であった代官屋敷で、逆に福利厚生のパフォーマンスが行われることは政治的な意味があるだろう。
少し考えてから決断する。
「いや、まずは見えるところで配ろう。極端な話、畑の真ん中で配ってもいい。実務的には屋敷の中で行ったほうが効率的だが、まずは最初の敷居を低くしたい」
文字の読めない農民達に対する広報の手段が限られている。
噂話による誤解を解くためには、見えるところで何かをするのが大事だ。
まずは正しさよりも、実効性と感情に配慮してこちらから歩み寄る。
農民の現場感を大事にしたい。
せっかく意見を出してもらったので、他の事柄についても農婦の意見を聞くことにする。
「豆の配布と共に、出稼ぎ農民の人手を出そうと思うのだが、農民としては歓迎するか」
「正直に申してよろしいでしょうか」
もちろん、と促すと農婦はいくつか批判的とも取れる意見をあげてきた。
「自分の庭の土をひっかくぐらいなら自分達で出来ます。ですが、最初に畑にする時に土の中の石ころを除けたり雑草を刈り取ったりといった作業に人手があると助かるのは確かです」
機械化されていない農業には人手がかかる。その点では、こちらの考えた通りのニーズがある、ということだろう。
「ですが、役立たずは要りません。開墾のための道具は自分で持ってきて欲しいですし、食事を出すような余裕はありません」
批判についても、黙って頷く。農家の負担にならないよう、費用の負担は元からするつもりだった。
農具については考慮していなかったが、村長の屋敷にあった農具の使用を許可すれば良いだろう。
「それと、余所者には村の中であまり良い印象がないのは確かです。格好は汚いし、ものを盗むとか乱暴をするといった噂も聞きます」
最後の指摘が問題だった。
余所者、と農婦が呼ぶように出稼ぎ農民に対する村人の印象は良くない。
そして、偏見はあってもある程度は事実に基づいているのだから、余計に問題の根は深い。
出稼ぎ農民には財産がないので格好が汚いだろうし、腹が減れば農作物も盗むだろう。
家庭を持てない男も多いし、農村の人間から余所者と拒絶された雰囲気を感じれば乱暴になるということもある。
「まずは清潔にさせよう。服の用意はできないが、川と水の使用を許可しよう。それで少しはマシになるはずだ」
元の村長の屋敷の設備を使わせるようにすれば、教会で雑魚寝している現状は改善できるはずだ。
仕事を通じて現金を配布すれば、格好を身奇麗にする余裕も出てくるだろう。
「乱暴については、希望者の中から大人しい者や女子供を最初に派遣するか」
ある種の福祉政策になるわけだから、弱者を先に派遣するのが理屈としても正しい。
「でも、そうしたら派遣された人達が意地悪されたりしない?」
サラが別の視点から危惧をする。
現金払いをすることや女子供が中心であることが知れ渡ってくれば、それを狙って農民の方から乱暴するということもあり得るわけか。
「なら、うちから送り迎えを出しましょうや」
とキリクが提案する。
最初はこちらで現場の情報収集もしたいし、同伴するのが良いかもしれない。
そうして、段々とやり方が固まってくる。
その日の午後、ゴルゴゴから最初の試作機が完成した、と知らせがあった。
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