第621話 一つの籠に盛らない
ジルボアのいう「何かが起きる」という予感に従い、まずは嵐に対応する準備をする。
危険(リスク)回避は、分散が基本だ。
全ての卵を同じ籠に盛るな、という投資の格言の通り、金持ちは財産を分散させて保有する。
例えば、金持ちは財産を土地、現金、証券、債権、金、ドルやユーロなどの各種資産に分散しているのだ。
何かがあったときに、全てを失う羽目にならないための用心だ。
それに倣うのであれば、自分の場合も財産を分散させればいいのだろうか。
教科書通りに考えようとして、たちまち壁にぶつかる。
自分の財産というのを考えてみると、簡単に分散できないものばかりだからだ。
例えば、靴の工房について。
今も靴の工房を拡大しているが、何かに備えると言うのであれば他所の街に靴工房を構える必要があるだろう。
将来的には可能かもしれないが、今は不可能だ。
代官となり赴く予定の領地の徴税権。
徴税権であるから大商人などに依頼して現金化することは理論上は可能かもしれないが、それをやりすぎた前任者が
失脚したばかりだ。同じことをすれば、当然のように失脚するだろう。というか、失脚で済めば御の字だ。
最近は事業が好調だから、運転資金と利益で金貨や銀貨は手元にそこそこあるが、他所の街に投資できるような縁故(こね)はない。ある程度の名家であれば、少なからず他所の街にも一族がいて、血族の縁故で安心して投資できるのだろうが、この世界に天涯孤独の俺には無理な算段だ。
どうも、この危険(リスク)分散という考え方はうまくない。
工房の奥にある黒板に白墨を構え、うなりながら一人で書きつけていると、仕事を終えた新人官吏達が寄ってきた。
俺が、またぞろ何か奇妙なことを始めたということで、その手法に関心があるのだろう。
一人で考えるのには、いい加減に限界を感じていたこともあるし、他人に説明することで理解が進むこともある。
「あのう、何をされているかお聞きしてもよろしいでしょうか」
聖職者のクラウディオが聞いてくる。
クラウディオは、聖職者としての教育を受け、知識も豊富で常識的な思考に優れている。
説明する相手としては、ちょうど良いかもしれない。
「そうだな。最近来た者達は知らないかもしれないが、この工房は何度も潰されそうになっている。なかでも、靴工房を立ち上げたばかりの頃に、伯爵様から事業を買い取る、という手紙をもらった時は、閉鎖を覚悟したほどだ」
「そんなことが・・・」
他の新人官吏達が、息を呑んだ。
「ああ。その時は運良く切り抜けることができたわけだが、これからも運を当てにすることはできないだろう?だから、どうやって危険(リスク)を回避するのか、その方法を考えていたのさ」
大きく頷く者達の中で、クラウディオが手を上げて意見を述べた。
「なるほど、それは重要な視点ですね。確かに、この工房は今や、小団長のものであって、小団長だけのものではありません。やはり、しっかりと自分の価値を理解して身を謹んでいただかないと」
「ん?」
クラウディオの指摘は、何か認識がずれている気がする。
「いや、なぜそこで俺の話になるんだ?」
「ですから、この工房の靴事業や製粉業、印刷業などをどのように守るのか、という話をされてるのですよね?」
クラウディオの理解に、同意してうなずく。そこの認識は合っている。
「そもそも、靴事業は小団長のケンジさんが何もないところから始めて、職人達を育成して、大きくしてきたものですよね。もしあなたがいなくなれば、この事業は終わりです。
製粉業も同じです。教会と交渉し、専門家集団に発注し、これから出来上がる製粉業の完成形は、ケンジさんだけが知っています。
まして印刷業などは、いまだ立ち上がってすらいません。
事業の危険というのは、あなたですよ。何かあったとしても、ケンジさんがいれば事業は立て直せます。ここで働く50人の職人達は、皆あなたを頼りにしているのです」
事業リスクは経営者リスクという言葉がある。
コンサルタントをしている頃にさんざん人に説いていた言葉が、まさか自分に降り掛かってくるとは。
クラウディオの指摘の正しさに、俺は返す言葉もなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
灯火の下で、羊皮紙にペンを走らせているが、どうも集中できない。
羽根ペンを放り出して、背もたれに身を預けると、昼間の疲れが押し寄せてくる気がする。
「俺が死んだら、か・・・」
昼間、クラウディオに言われた言葉が頭から離れない。
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