第608話 民のお喋り
「まあ、いい。それで、その割られた賤貨とやらが、印刷業と何の関係があるのだ」
旗色が悪いことを察したのか、黒ヒゲ司祭は賤貨と印刷業の関係性について自分から切り出した。
相手から話を印刷業に振ってくれるのは、悪くない説明(プレゼン)の流れだ。
「割られた賤貨。これも民の声でございます。貧しき民は1枚の賤貨の、そのまた半分で命をつなぐ暮らしをしています。ですが、3等街区の民の声は、この高く美しい壁に囲まれた1等街区の大聖堂の奥までは伝わっていない、その証左であると捉えております」
「それが?」
教会への体制批判と思われたからだろうか。
黒ヒゲ司祭の声の圧力が、一段あがった。
「印刷業とは、民の声を大きく伝えるものである、と申し上げました。印刷業が立ち上がることで、下々の声が壁を超えて届くようになり、また、聖職者の皆様方の声を、広く、直接に届けることができるようになります」
印刷業による階層間の双方コミュニケーションが進む、という説明については黒ヒゲ司祭からは別の意見が出た。
「我々の声を民に届けるというのは良いだろう。我らは聖職者として然るべき教育も受け、民に声を届けるための技能も倫理もある。だが、民の声を我々が直接聞き届ける必要があるのか?そのために、教区があり、教会があり、司祭がおるのだ。お前の言うことは、その体制の否定ではないか?」
双方向のコミュニケーションなど不要、民は自分達の言葉を聞いていればいい、ということだ。
もともと教会というのは民を導くための機関であるから、その立場と理解の仕方は無理もない。
少し頷いてから、反論する。
「司祭様。民というのは、大変にお喋りなものでございます。朝起きて、仕事に出かけ、帰ってきて日が沈んで寝るまでの間、小さな暖炉の前で、今日あったことを話すのが、民の一番の娯楽なのです。苦しいことや、悩みがあれば、もちろん教会を頼ります。ですが、嬉しいこと、楽しいこと、役立つことを共有したい、と思うのも、また自然な感情ではありませんか」
「まあ・・・そうだが」
教会にとって導くべき弱く愚かな存在であるかもしれないが、庶民はもっと逞しく、明るく、前向きに人生を生きている。そう言われれば、黒ヒゲ司祭の言葉にも、勢いがなくなる。
「私の工房では、様々な出自の者が働いております。その中に、農民であった者がおります。その者は何しろ食べることに目がなくて、白いパンが出されると、まるで天上の食べ物を押しいただくように、一心不乱で食べるのです。もちろん、上等な小麦がそうそう回ってくるわけではありませんから、そうした機会は限られております。
ですが、最近は面白いことを言うのです」
「ほう、面白いこととは?」
黒ヒゲ司祭に代わって、問いただしてきたのは眉の白い司祭だ。
この聖職者は、先程も割られた賤貨を、興味深そうに弄っていた印象がある。
「その者の言うには、白パンは村の祭りでしか食べられないそうですが、村によってパンの作り方が微妙に異なるそうです。また、街中のパン屋でも、上手なパン屋と、そうでないパン屋、変わったパン屋など、様々なパン屋がある、とのことです。今は、そういったパンやパン屋の一覧を図鑑や地図にしたい、と言い出しています」
「パン屋の地図?」
「パンの図鑑だと?それがどうしたというのだ?」
彼らぐらいのおエライさんになると、朝食は自室に運ばれてくるし、夕食は身分の高い者同士での会食である。
そこで出される贅沢な料理といえば、専門の技能を持つ調理人により様々な技法で調理された仔牛や豚の肉であり、ソースであり、ワインである。
たかがパンのために印刷業を利用する、というのが現実の理解とうまく結びつかないのだろう。
あるいは、聖職者の体制批判などが続くと思っていたところへの食事という、意外な方向からの意見に対応できていないようにも見える。
「その者の言うには、美味しいパン屋が流行れば、美味しいパンが増える。美味しいものは独り占めするのでなく、みんなに知ってほしい、とのことです。それに、地図とパンはただの絵ですから、字が読めない民でも理解ができます」
言葉で説明をするのもいいが、やはり現物に叶うものではない。
クラウディオに合図して、パン屋地図と、パンの一覧の冊子を配布する。
「これは・・・」
「なんとも、無駄にうまそうな・・・大した技術だ」
それを目にした聖職者たちの反応は見ものだった。
忙しい男爵をつかまえて描いてもらった、写実的なパンの絵である。
パンの絵の下には、銅貨や賤貨で、どれだけの量を買うことができるか、絵で書かれている。
サラのこだわりが詰まった、渾身の一作だ。
「印刷の技術を用いることで、パンのように繊細な絵についても大量に複写することが可能となります」
説明をしたのだが、誰一人聞いていない。
贅沢に慣れているはずの聖職者達が、農民が制作した下町のパン屋の情報に夢中になる、という少々不思議な光景がしばらく続いた。
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