第606話 最初にして最大のハードル

それでは、と印刷業の説明を始めようと準備してきた資料を配布すべく、背後に立つクラウディオに合図する。


羊皮紙の資料なので紙のようにガサガサと音を立てないのが、この際はありがたい。


「代官のケンジと申します。この度は、お時間をいただき・・・」


「それはなんだ」


挨拶と説明を始めようとしたところ、1人の聖職者から、横槍が入った。


顎髭の黒い精力の強そうな聖職者らしからぬ風貌をしている。

ちなみに名乗りは一切受けていない。

下々の者に名乗る名前はない、ということだろうか。


「はい。今回の説明のために用意した資料でございます」


「そんなことはわかっている。だから、内容はなんだ」


なんだこいつ。と、反射的に浮かんだ反感を隠し「はい」とだけ返事をして時間をかせぐ。


ニコロ司祭もそうだが、聖職者は偉くなるのに短気である必要でもあるのか。


この黒ヒゲ司祭が、このタイミングで声をかけてきた理由、求められている回答は何か。

笑顔を浮かべながら、素早く適切な回答を選択するべく考えを巡らせる。


ニコロ司祭と対立する派閥のものか。おそらくは、そうだろう。


ならば、回答はどうするべきか。


事実を説明したところで、相手に聞き入れる気はないだろう。

利益を説明したところで、ニコロ司祭の立場を悪くするだけだ。


対立する派閥にも共通する、大義名分は何か。拠って立つ正義は何か。


「これらは、市井の民の声でございます」


「民の声?」


選択した回答は、相手の機嫌を損ねることなく、しかも意表をつけたらしい。

黒ヒゲだけでなく、ニコロ司祭を含めた他の聖職者たちからも「ほう」などと声が漏れ聞こえてくる。


教会の聖職者というのは、民を教え導く存在であるから、民の声とあれば聞かないわけにはいかない。

続けてたたみかける。


「はい。農民の声であり、職人の声であり、商人の声。そして、秩序の外の民の声でございます」


秩序の外の民、つまり冒険者のことを付け加えたのは自分の出自を知っているか、との探りであったが相手が反応をしないところを見ると、特にこちらを調査したわけではないようだ。


やはり、この説明(プレゼン)はニコロ司祭と対立派閥の代理戦争の場であるらしい。


「それと印刷業に何の関係が?」


「はい。印刷業とは、結局のところ、声を伝え、大きくする事業でございます。市井の民が何を求め、どんなことを話しているのか。それらを伝える機会と考え、本日は説明をさせていただきたいと思っております」


市井の民の声、に焦点をあてて説明したところ、黒ヒゲ司祭からの反論がなく、他の聖職者たちも小さく頷いた。

続きを説明しろ、ということだろう。


教会にもたらされる利益を中心に組み立ててきたニコロ司祭向けに準備したシナリオとは異なるが、この方向で説明しきることができればいける、という手応えを感じる。


まずは説明(プレゼン)の最初にして最大の難関、まずは聞いてもらう態勢を作る、という課題(ミッション)をクリアできた、ということだ。


ここから、ようやく説明(プレゼン)が始められる。

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