第605話 高すぎるハードル

3等街区でも隅にある革通りから1等街区でも中心地にある大聖堂までは距離がある。


単純な物理的距離という意味でもそうだが、貴族や大商人が住む街区と、冒険者や下っ端職人達が住む街区という社会的距離という意味でもある。


「どうにも、足元が悪いですな」


ミケリーノ助祭と共に迎えに来ていた聖職者が眉を顰めながら不平をこぼす。


「昨夜、雨が降りましたからね」


そう答えるミケリーノ助祭は何度か3等街区の革通りまで来ているし、街の外で野宿をしたこともあるせいか気にした様子はない。


3当該区は石畳もところどころしか整備されていないし、水はけが悪いせいかすぐに道が嫌な匂いのする水たまりだらけになる。


「道も悪ければ匂いもヒドイですな」


不平と言うには、少しばかり大きい声をあげ続ける聖職者に道を行く人々の視線が向けられるが、あまり気にした様子を見せない。


本来なら聖職者に先導されて招待されるというのは名誉な行いであるはずだが、それを自ら貶めるかの行動に不審をいだかざるを得ない。


ふと、こちらを見つめるミケリーノ助祭と視線があった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


1等街区の大聖堂でも、基本的には聖職者の先導に従って進むだけである。

正門から入ったはいいものの、何度も似たような通路を曲がっていると、いったい自分がどこにいるのか分からなくなる。


ある種の防犯や防諜対策なのだろうが、地下の私設小法廷といい、この大聖堂には一体どれだけの怪しげな施設や部屋があるのだろうか。

建物の構造の複雑さが、そのまま権力というものの複雑さを表しているようで何とも面倒くさい気持ちになる。


「こちらで少しお待ち下さい」


通された控室らしき部屋で椅子と茶を勧められ、自分達だけが部屋に残される。

やれやれ、とクラウディオが茶を飲もうとするのを、護衛のキリクがとめる。


「茶は口にしない方が」


「そんなにマズいか?」


俺が問いかけると、キリクが頷く。


「マズイですね」


「いったい、何の話をしてるんですか?」


俺とキリクが話していると、クラウディオが疑問を口にする。


聖職者であるクラウディオに、この感覚をどう説明したものか。

それに、あまり言葉を発したくない状況でもある。


「うなじの毛がね、逆立つんですよ。昔から」


キリクが小声で言う。


「それが何だっていうんです?」


基本的には平和な世界で暮らしてきたクラウディオには、それでもピンと来ないようだ。

だから、わかるように平易な言葉で説明してやる。


「ここは敵地だ」


思えば兆候はあった。

単なる説明であったはずが、大聖堂で公的な接見となったこと。

迎えに来た聖職者が2人組であること。

両者でろくに会話をしていなかったこと。

平民を迎えに行くという仕事に明らかに不満であること。

そしてミケリーノ助祭が今、部屋に残らなかったこと。


そこから導かれる推測は、おそらく、印刷業を巡って保守派と革新派で何らかの争いが発生している、ということ。

そして、その渦中に、これから飛び込まされるということだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


通された会議室らしき場所は、部屋というには天井が高く、外からの明かりが入ってくるように工夫された会堂のような一室だった。

中にはニコロ司祭をはじめ偉そうな聖職者が5人、一段高くなった場所でこちらに相対するように座わっている。


これから説明を聞くというよりも、私設小法廷で体験した裁判でも始まりそうな雰囲気だ。

そう思って前の聖職者を見てみれば、裁判で見かけた聖職者もいる。


「さて、それでは印刷業とやらの説明を聞かせてもらおうかな」


敵意と反感に満ちた偉いさん達を相手に新規事業の説明(プレゼン)か。


ニコロ司祭の無茶ぶりの課題は、いつもながらハードルが高すぎる。

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