第575話 鶏
いろいろとシミュレーションをした結果、ニコロ司祭と印刷業の行末について議論するには、自分の方に準備が足りないという結論になった。
脳内でニコロ司祭と議論してみたのだが、あっと言う間に論破されてしまうのである。
明らかに、自分の知見が煮詰まっていない。
「印刷物なんて、空気みたいなものだったからな・・・」
元の世界では印刷物が溢れていた。
朝起きれば新聞があり、新聞には記事と広告があった。駅には看板広告があり、電車の中には雑誌の吊り下げ広告があった。会社では書類が回ることで稟議が回り、議事録が作られ、経費は書類に記入することで決済される。
書店に行けば天井まで届く本棚にギッシリと様々な分野の書籍が詰まっており、平棚には新刊が山と積まれていた。
そんな光景がいつか実現されることを、どうやって説得することができるだろうか。
痴人の夢にしか思われないのが当然ではないのか。
「もう少し幅広い意見を聞いてまわるか」
この世界に生きている人の意見を聞いて回ることで、自分の独りよがりでない、印刷業の役割が見えてくるかもしれない。
新人官吏達の意見も役に立ったが、いつも仕事をしている彼らは距離が近すぎて、どうしても自分の価値観に沿った意見のように思えてならない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「小団長、お出かけですか」
「ああ、頼む」
街での移動には、相変わらずキリクの護衛が欠かせない。
革通りの事務所は3等街区でも隅の方にあるので、2等街区の剣牙の兵団までは、そこそこ距離がある。
すると3等街区を抜けていかなければならず、どうしても治安の面で不安がある。
前夜の雨で少し泥濘んだ道を護衛と距離が離れないよう、衣装に泥が跳ねないよう歩くのは少しばかり面倒くさい。
思わず不平を言いたくなるのも、仕方ないというものだ。
「いい加減、護衛の要らない身分になりたいものだけどな」
「小団長、それは無理ってもんですよ」
背中に大きな剣を背負ったキリクが、こちらを振り返らずに大声で答える。
この男はどうしたものか、大柄な癖に泥濘んだ道を歩いても泥が跳ねていない。
「無理かな?」
「無理ですよ。小団長は、いわば黄金の卵を産む鶏みたいなものですからね。飢えた連中から見ると、美味しく見えてしょうがないでしょうよ」
「鶏(にわとり)・・・」
もう少しマシな例えはないだろうか。
一応、冒険者は5年ほどやっていたし、中堅手前ぐらいまでは行っていたのだから。
「護衛の仕事っていうのは、依頼者の実力を高くも低くも見ないのがコツでしてね」
「その眼力で言うと鶏というわけか?」
「小団長は冒険者を引退してから結構たっていますよね?剣牙の兵団に喧嘩を売ってくるレベルの連中からすれば、小団長の腕では、残念ながら鶏ですな。何かあったら、腰の剣で何とかするよりも、逃げることをオススメします」
キリクの悪気のない明け透けな批評に、思わず腹の肉をつまんでしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます