第574話 事業の将来像

そのうちにニコロ司祭の呼び出しがあるとして、そのための準備をこちらで進める必要がある。

事前にミケリーノ助祭と話し合って、幾つか理解できたことがある。


まず、教会には印刷業を巡って推進派と保守派に分かれるであろうこと。

そして、ニコロ司祭の派閥は推進派に属する可能性が高いということだ。


「何にせよ、ニコロ司祭を敵に回さなくて済むのはありがたいな」


「そうね。そうなったら大変だものね」


サラも相槌をうってくれるが、そうなれば大変だ、では済まされない事態になるだろう。

彼が敵にまわると、代官をしている製粉業や、靴に刻む教会の印など、様々な面で築いてきた教会との協力関係が全てご破産になる。

そんな状態になれば、靴事業の存続どころか生命の保証も危うい。


「準備か。何が要るかな」


必要な準備を挙げてみる。


まず、冊子の見本は必須だ。


新人官吏達が悩みながら作成してくれた冊子の見本は、教会だけでは印刷業を管理しきれない、という印象を強める何よりの証左になった。

やはり、100の理屈よりも1の事実である。


印刷業に対し保守的な立場を取る人間がいたとしても、実際の見本があると理屈を立てるのに苦労するだろう。

小麦粉料理の本を、教会の人間が企画することができるのか。料理の本が教会を害するといえるのか。

最高レベルの教育を受け、優れた人材であると自負する人々が、そのようなみっともない議論を展開できるのか。

まずは、何よりも平民の暮らしに役立つものだ、という認識を持ってもらうことが第一だろう。


「美味しいパンが食べられて嬉しくない人なんていないじゃない!」


というサラの意見が、この際は正しいだろう。


次に、印刷業の事業計画が必要だ。


「また計画立てるの?」


とサラが少しうんざりした声をあげる。


「たしかに、最近は計画ばかり立てている気がするな」


領地開発の計画、製粉業の計画、そして今度は印刷業の計画だ。


「でもまあ、多少なりとも計画を立てられるのが自分だけだからなあ」


そもそも、この世界に誕生していない印刷業の事業計画を立てられるのが、自分しかいないというのが問題なのだ。

それは製粉業にも言えることだが、計画を立てる技能自体は新人官吏達に折に触れて伝えられているが、結局のところ事業の全体像がどのようなものにするべきか、というビジョンが元にないと計画が立てられないのだ。


「あたしたちも、いろいろとこんなのが欲しい、って話はしたし、それで頑張って見本は作ったけど、結局のところ全体がどうなるのか、ってケンジに聞かないとわかんないのよね」


「そうなんだよな。俺の方でうまく伝えられていないのもあるんだが」


事業の計画を立てることと、事業のビジョンを描くことは、まるで異なる種類の能力が求められる。

後者はある種の天才だけが持つ能力で、市場のタイミングと事業化のビジョンが偶々重なった時に、結果として能力があったと証明される博打のような能力である。

これについては、自分の場合は元の世界の印刷業の大きさを知っているものだから、だいぶズルをしているという自覚はある。

だから、この能力を人に教える手段はよくわからない。


「結局、よく話し合うしかないんだけどな」


今回は、その話し相手がニコロ司祭になるだろうということが、今から頭が痛い。

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