第547話 最善の場合の後で

全員が生きる最善の道。


俺なりに、今の政治的環境、技術的制約の中で最善の道を示せたはずだ。

だというのに、俺の話を聞いた新人官吏達は、口を開けたままで固まっている。


「どうかしたのか?」


と聞いても


「・・・いえ、その・・・・」


「なあ・・・」


などと返答が不明瞭で要領を得ない。


メニューやノウハウと原材料をセットで売る、という商売は元の世界では目新しいものではない。

例えば船外機の会社はアフリカで現地の人に漁を教えながら売ったと言うし、ゼラチンの販売でも料理メニューとセットで売ったという有名な話もある。

小麦粉の用途を増やそうと思えば、その活用方法を合わせて販売することはごく普通の発想のはずだが。


「みんな、ケンジの頭の中の小鳥に驚いてるのよ!」


サラが大きな声で主張する。


「それならいいが・・・」


すると、口を開いたままだった新人官吏達の中からクラウディオが、ようやくに苦労して口を閉じて、言葉を吐き出した。


「いえ、サラさんの言う通りです。正直なところ、製粉所で小麦粉を作った後のことは考えておりませんでした」


「そうか。まあ、説明していなかったか」


「てっきり、遠方の貴族達に販売するものとばかり。ですから、大きくなっていく計画に多少の懸念を覚えてはいたのです。ただ、街の平民が小麦粉を買ってパンにするというのであれば、そういうものなのか、と」


聖職者であるクラウディオに、ごく普通の街の平民達の暮らしが想像できないのも無理はない。

この工房に通うようになっても、基本的に食事は街の教会で摂っているし、食事も自分で街角の小麦を購入して料理しているわけではない。

聖職者にとって食事とは与えられるものであって、楽しみのために自分で作る、という感覚は人の話などから知っていはいても、自らの体験として落とし込めていない種類の知識あったのだろう。


「それに、印刷業についても、今、初めて伺いました」


「それは、悪かったと思っている。ただ、ゴルゴゴの印刷機がこの水準(レベル)に達するには、あと2年は猶予があると思っていたから黙っていたんだ。正直なところ、甘く見ていた」


今、領地で計画している大規模な製粉所のようなものを、他の教会や貴族が建設してこなかったのは、小麦粉の供給を徒に増やしたところで、投資に見合う需要増が見込めない、という点も大きかったのではと思っている。


そのあたりの仕掛けとして、農地開発の進展と共に予想される小麦価格の下落によって高付加価値製品である小麦粉への後押しを考えていたわけだが、印刷機による小麦粉料理本の普及という手法は、小麦粉の需要を引っ張る働きをするだろう。


「だが、今は難しいな」


何しろ、人手がない。

靴工房を維持しつつ、領地開発を進め、製粉業を立ち上げるためだけでも、これだけの人材育成の手間暇をかけてきて、ようやく計画が形になったところなのだ。

この上、もう一つの事業を立ち上げるなどと言ったら、俺と新人官吏達が過労死してしまう。


「ならば、どうしますか」


これからどうすべきか。決断を求める緊張感に張りつめた視線を感じる。


「時間稼ぎだな。それしかない」


肩を竦めて答えれば、俺の気の抜けた返事に、多少の失望と安堵の声が返ってきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る