第534話 製粉業の理由
靴事業を選ばなかった理由は、もう1つある。
「靴の職人は育成が難しい。可能な限り工程を分解して熟練度が低くても高品質な靴を作れるようにしているが、若手の職人達も、小さな頃から靴職人の元で従事していたわけで、全くの素人というわけではない。そうなると、領地に靴職人を呼んでくるしかないが、彼らに十分な待遇をする代官が続くとは限らない。自分が離れたら、新しい靴職員達も離れてしまうだろう。この土地の農民が靴職人になるのは、数年では難しいだろう」
最終的には、何らかの機械的な仕組みを入れて、ド素人も靴事業に従事する仕組みを作りたいが、現在は工場制手工業とでも言うべき段階であって、職人の手を介さずに靴を作ることはできない。
「靴事業を選ばなかった理由でもあるが、自分が代官を辞めてからも領地で富を生み出す仕組みを作っておきたかった、ということもあるな」
そうなると、価値の創出が人によらない産業、つまり装置産業ということになる。
「水車を使う、というのは、その時点で確定事項でもあった。水車を使えば領地にいる人間以上の働きができる」
領地で生み出す富を増やそうと思えば、付加価値を増やすか、生成する量を増やす必要がある。
水車があれば、水の力で人間が眠っている間にも仕事をしてくれる。
少なくとも、量として領地から生み出す富を増やしてくれる。
「なるほど。しかし、そうなると他の領地はや村はなぜ水車を作らないのでしょう?」
水車で富が増えるのであれば、どこの領地でも競って作るはずだ。
「想像だが、理由は2つあると思う。水車は高い。正確には、水車を作り出す技術者を雇用するのには費用がかかる。そして、水車は稼働してからも費用がかかり続ける。領内の農民から使用料を取るだけであれば、その費用を賄うだけの利益が出ないのだろう」
「それは、わかります」
「もう1つは、水車というのは領地や村にとっても大きな利権だ。どこに水車小屋を置くべきか、その意見調整や意思統一が難しい。費用が高いこともあって、誰が費用を負担するのか、という話にもなりやすい。利益が少なければ尚更だ」
「それも・・・わかります」
小さな領地や村であっても、政治的問題もあれば経済的問題もある。
逆に、小さな範囲であるからこそ、より生々しい形で問題が見えやすいということもある。
新人官吏達は領地に通い、各種の調整を行う過程で、それらの事実に散々、直面してきたのだろう。
「ところが、その問題は、この領地では起こらない。教会の直轄地であるから技術者を比較的確保しやすいこと、前任の代官が財産を残しておいてくれたおかげで、集中的な投資ができること、メンテナンスのコストは製粉業という形で他所の領地からの仕事も引き受けることで利益をあげて相殺できる。それに、前任の代官と一緒に村長達も追放されたお陰で、用地について文句を言う人間はいない。費用はこちらで負担するのだから、口を出す人間もいない」
「まるで、誂えたように条件が整っているわけですね」
「そうなるな」
正確には、与えられた条件の中で最大限の富を領地と領民にもたらそうと頭を振り絞って考えた結果であって、順序が逆ではある。
だが、そのように見えるのであれば、それはよくできたビジネスということだ。
「それに、冒険者時代から小石の入ったマズイパンを食わされてきたからな。あれは、何とかしたかったのさ」
冗談を付け加えると、新人官吏達にようやく笑顔が見えるようになった。
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