第140話 聖職者の交渉力
「少しか。では少し待とう」
そう言って、ニコロは書類の広げ、書き物に戻った。本当に少ししか待たないつもりだ。
こちらの都合など全く考慮してくれない。
仕方ない。腹を決めよう。
「わかりました。その件、お引き受けできません」
俺はそう拒否したが、ニコロは表情を変えずに問うてきた。
「理由を聞こうか」
「手法を示すことはできます。ですが実際の成功は覚束ないからでございます。失礼ながら、ニコロ様は貴族様方の出してくる農地の税収について、完全に数字を信頼することはございますか」
ニコロは片方の眉をあげて、答える。
「できぬな。そもそも貴族は税収を過少に申告するものだ」
「そのように聞いております。今のように信頼できる数字がとれない状態で、いくら机上で計画を練ったところで事業がうまくまわる筈がありません。暗闇の中で灯り一つなく坑道を歩くようなものでございます。誤った数字をいくら弄っても、誤った結果しか導かれないものです」
たかが冒険者ギルドの案件評価をするだけでも、俺がこっそりとウルバノの権威を使って独断で全てを設計する必要があったのだ。それを、ニコロが考えるように王国全体に適用しようとすると、どのような混乱が起きることになるか、想像もできない。そして、その混乱の中では、俺の命など紙屑よりも簡単に吹き散らされることだろう。何を好き好んで、そのような修羅場に飛び込みたいと思うものか。
「ふむ」と呟くとニコロは続けた。
「つまり、時期尚早である、というのだな」
「さようでございます」
「どうなれば、可能であるか」
ニコロに問われて、俺は少しばかり誇張して答える。
「王国や貴族様の領地について、中立で正確な計数を取り扱う機関が必要です。市井の学者や民草にも開かれ、数字の妥当性について広く論議され、意見を容れて修正できる文化が必要です。計数が信頼されるために、少なくとも10年の積み重ねが必要です」
俺が言っているのは、正確な数値を王国全土から集め蓄積したければ、統計局という部署を設けろ、ということである。政治に左右されず信頼できる数字を蓄積する全国組織がなければ、まともな中央集権国家は運営できない。
税金や献金の収支計算については現在の教会でも辛うじて官僚組織が機能していると見えるが、それ以上のことができる組織の体力はあるのか、と問うたのである。当然、難しいだろう。元の世界でも信頼できない統計をあげてくる国家は多い。要するに、これは無茶振りばかりしてくるニコロへの、俺なりの意趣返しである。
だが、ニコロは俺の密やかな反駁を意に介さずに問答を続ける。
「なるほど。では教会が管理している領地であれば可能ではないのか。数字を管理しているのは身内であるから、誤魔化しは難しかろう」
大きく風呂敷を広げてから、小さくたたんでみせて譲歩を迫る。教会のような大組織で枢機卿づきの司祭をやっているということは、相当に交渉の修羅場をくぐっているということでもある。ニコロは、さすがの手腕で粘り強く議論を誘導する。
そして、そう言われてみれば、できる、と俺も思ってしまった。
その表情に意を強くしたのか、ニコロは、畳みかけるように言った。
「あるいは、教会で測量士なり計数に強いものを派遣し、帳簿と農地を調べることに同意した場合のみに貸し付けるのであれば、可能ではないのか」
「たしかに、可能です。できると思います」
俺としては、そう答えざるを得ない。
要するに、事業のお金を貸してやるから、財布の中身を見せてみろ、話はそれからだ、ということである。
難しく言えば、事業評価を正確にするために、事業投資のガバナンスと監査の問題をクリアできる対象のみに投資するならば良いだろう、と言っているのだ。
「お前が事業と関連する制度を手掛ける気はないか。聖職者となれば、教会全体の事業にできよう。聖職者になる件は、私から枢機卿にお願いをする。そうして王国全体の政策を奏上する機会など、平民には二度と得られぬ好機であるぞ」
そう言って、再び俺に聖職者にならないか、と誘いをかけるのだった。
さすがに、枢機卿づきの司祭ともなると、頭の切れも交渉力もタフだ。
なかなかに手強い。
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