第139話 あの線の先には

「報告書の話に戻るが」


ニコロは、俺に聖職者になれ、とは続けず報告書の話に戻るようだった。


「王国の現状を知っているか」


「いえ、私のような下々の者には全く」


これは謙遜ではなく、単なる事実だ。統計の資料等が公開されている世界ではない。街の物価の動きや商人の噂話などを総合して何が起きているのか、と想像することはできるが、国政の状況など、うかがう術もない。


「王国は、長く忍耐のときを強いられている。寸土の領土をめぐる貴族間の争いと、その調停。一向に止まぬ怪物の脅威。天候不順による作物の減収と飢饉。人間の領域はなかなかに増えず、自然と怪物の脅威に一進一退の続けておる。人々は城壁の内の街に閉じこもり、貴族は屋敷に財産を貯め込んで万一の事態に備えておる。本来は、先頭に立って民草を導くはずの者たちが、嘆かわしいことだ。とは言え、教会の努力も十分ではない。万が一の事態に備えることを名目に、信徒の喜捨を蓄えていることは同じだ。神の祝福は、戦士を癒すことはできても、麦を生み出すことはできんのだ」


ニコロのような高位の文官ならば、枢機卿のような王国の重鎮について裏の文書管理などを手掛けているのだろうから、その認識には何らかの数値的根拠があるのかもしれない。

なかなかに厳しい現状認識、というべきだった。一言で表現するなら、ジリ貧か。よく言って現状維持。


「だが、あの、ぐらふ、という線が続くのならば、全ては変わる」


ジリ貧の王国に、成長の可能性という希望を持ち込んだ衝撃。それは、俺が思っていた以上に大きなものだったのかもしれない。


「投資に利益が見込めるのなら、財産を持つ者達はこぞって投資する。現に、貴族たちは開拓に投資を始めておる。貴族達は貯め込んだ財貨をもって、それでも足りずに教会に投資を無心にきておる。土地を開拓し、豊かな農地にするには水利が必要となる。そうすると、次に何が必要になるかわかるか?」


「水路とため池ですね」


荒れ地を拓いても、ただちに農地になるわけではない。土地を耕し、肥やし、水を撒いて最初の作物を育てなければならない。そのためには、水がどうしても必要だ。


「そうだ。そして、人が生きていくためにはパンが要る」


「それで、水車建設への投資と製粉権というわけですか」


続きを、引き取って話す。なるほど。ニコロが俺に声をかけてきた理由が見えてきた。

確かに、これは面倒な話だ。土地の評価をして、はい、終わり、というわけにはいかないわけだ。


俺は単純に過去の収税記録などから土地の評価をしたわけで、それでも、最初のとっかかりとしては十分な知見だった。そもそも、俺に土地を開発する伝手も権利もなかったわけだから。


ところが、貴族や教会が報告書で見出したように、どこの土地に投資すれば良いのか、という基準ができた。基準ができれば、かけるべき費用の性質が変わる。一般的に、利益が見込めない事業への出費は最低限に抑えるべき経費となる。そのために冒険者への報酬は最低限に抑えられてきた。それが、冒険者へ払う費用は投資に変わったのだ。結果的に冒険者の賃金が上がることになる。それは俺が狙っていた通りだ。


だが、もっと投資は効率良くなるはずではないか?とニコロは言っているのだ。どこへ投資すればいいのかはわかった。それなら、どのように投資すればいいのか?と。土地を広げるのがいいのか、水利を良くし、水利の権利を取ればいいのか、ため池を広げて利用権を抑えるのがいいのか。それとも水車小屋を建設し、製粉権で回収すればいいのか。


元の世界で言う、事業評価やプロジェクト評価というものだ。

その評価基準を作りたいのだろう。


「お前なら、あの線の先を見せられるのではないか?」


確かに、俺が評価基準を作れば3%で見込んだ成長率を5%に引き上げることができるだろう。

土地の価値を倍にするのに25年を要するところを、15年程度に短縮することもできるかもしれない。

だが、そこまで急激な変化を、この世界に起こしてしまっていいのだろうか。

史実のオランダチューリップバブルのような事態を、この金融が未熟な世界に引き起こすことにならないだろうか。それとも、ここまで好き勝手にやらかしておいて、今さらの躊躇だろうか。


「少し、考えさせてください」


結局、俺は、そう答えるのが精一杯だった。

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