第12話 王都と侵略

 勇者レスクが発ってから数ヶ月、尚も平和な朝を迎える首都、アルナ・マグス。その城下は新たな闇の軍勢の報せに不安の声が上がりつつある。

 都の中心に立つ王城の地下修練場では、一人の少女が木剣の素振りに明け暮れていた。

「精が出るね。でも根の詰め過ぎは厳禁だよ。ほら」

「ありがと、ミーシュ!」

 ミーシュという名の女性から水筒を投げ渡され、タオルで顔を拭きながら彼女がそれを受け取った。

 彼女の名はナギサ。長い黒髪と柴色の瞳が特徴の、優れた剣術の腕を持った通称“異郷の少女”。白昼流星と呼ばれる現象の元を辿ったところで発見されて、今はミーシュの隊に兵士として所属している。

「ナギサのいた国にも、剣士はいたのかい?」

「うーん、私がいたとこは平和だったから……剣は競技にしか使われなくて、振るわれるのは一部だけだったわ」

「それはいいことだね。ボクも一度見てみたいな! 剣で血を見なくても済む世界……きっととても綺麗なんだろうね」

 爽やかに笑うミーシュの亜麻色の短髪が揺れる。ナギサが来てから彼女は何かを決心して長い髪をばっさりと切っていた。性格も合わさってボーイッシュな印象で、城内の女性からの受けは良い。

「いやいや、それは違うわ。武力を持たなくなるったらなったで、今度は表面化してないところで起こる醜い争いが問題になっていてね」

「それはそうと、また手合わせしてくれるかい?」

「えっあっ、うん。いいよ」

 頷きながらナギサが水筒を置いて木剣を投げ渡し、ミーシュがそれを受け取る。お互い準備が整ったのを合図すると、二人は即座に剣を交わし合う。

「へぇ……これはなかな、かっ!」

 鍔迫り合いになった状態を、ミーシュが純粋な腕力だけで打ち破る。

「相変わらず無駄に馬鹿力……」

 弾かれるように二人の間に距離ができるも、ナギサは動じずに目の前の相手の太刀筋を見極める体勢だ。

「ボクだって隊長になったんだ! 今度はそう簡単にやられないからね!」

 くるっと剣を持ち直し、ナギサが左腰に木剣を構えた。まるで鞘に納めたかのようなその体勢から、瞬時に剣を前に引き抜く。

「ズぇいッ!」

「ガッ!?」

 即座にミーシュが吹き飛び、修練場の壁にぶつかって倒れる。

「今のは私の流派に伝わる技の一つ!」

「また未知の技をっ!」

「これでもまだ序の口だけど、本気、見せちゃおうか??」

「興味はある……けどやめておくよ」

「そ……残~念!」

 ちっとも残念でなさそうな悪戯っぽい笑みを浮かべながら、黒髪の少女はすたすたと壁際へ戻っていく。

「その技の一つでもエルスロット様に見せれば、隊長になったのは君なんじゃないかな?」

「ガラじゃないし、私の技は見世物じゃないの。だから任せたわよ、隊長さん?」

「はは……ま、ガラじゃないってのは、ボクも似たようなものだと思うけど」

 苦笑するミーシュが、木剣を定位置に返し修練場から出ようとした時、背後から声をかけられる。

「今日は急ぎなの?」

「まあね。魔王復活の噂もあってこのところ物騒だし……街の中も外もくまなく自分の目で見て回りたいんだ。走り込みでもしながらね」

「行ってらっしゃい。私もあと一時間くらいで出るから、合流したらよろしく」

「うん。じゃあまた」

 手を振ってミーシュと別れ、一人になった途端にナギサが溜息を吐く。

「……そろそろ、みんなを探す事も考えないとね」

 彼女が思い出すのは、ここに来る前に一緒にいたはずの、二人の友人のことだ。旅行中に突如現れた穴に吸い込まれ、いつの間にかここにいたのが事の始まり。

 自分のように定住地と職を持てるとも限らず、途方に暮れて飢えているかもしれない。魔族や魔物が闊歩する混沌としたこの地に、誰も頼れず無防備な状態で降り立ったのだとすると、最悪の場合――

(いや、そんなことは考えても仕方ない。今は少しでも情報が欲しい)

 姫の計らいで、白昼流星の調査隊が編成されはしたものの、期待し過ぎるのは良くないだろう。いっそ自分で調べに行きたいのだが、勝手の分からない世界で突っ走るのも危険が多いと周りに止められてしまった。

「あーもう! もっと強くなって……力を付けるしかないってことよ私! 筋力とか権力とか筋力とか魔力とか筋力とかっ!」

 もやもやを振り切るために自らの頬を叩き、ナギサは再び剣の素振りを再開した。



「やっ、おはよ! みんな!」

 見回りの途中、王都の華やかな町並みから少し距離を置いた位置にある孤児院に入ったミーシュが、柔和な笑みを浮かべて子供達に手を振った。

「あー、ミーシュおねーちゃんなの!」

「ミーシュおねーちゃん! きょうはあそんでくれるんーっ!?」

 駆け寄ってきた無邪気な子供二人に、ボーイッシュな部隊長は申し訳無さそうに苦笑いをして返した。

「ごめんね、メリニアちゃん! シフェちゃん! おねーちゃん仕事で、今日は忙しいから~……」

 彼女の言葉に、メリニアとシフェと呼ばれた二人はあからさまにがっかりした様子で肩を落とす。そこにすかさず屈んで、二人の頭を撫でたミーシュが「今度遊んであげるから」と付け加えた。

「おいおいミーシュに迷惑かけちゃダメだろー? 今日はウチが遊んでやるから、な?」

「うん、わかったの!」

「アーズおねえちゃん、やくそくだかんね!」

「おうよ!」

 長椅子の上で足を組む少女が手で促すと、撫でられていたメリニアとシフェはそそくさとその場を離れた。

「アーズ、元気だったかい!? ごめんね。今まで魔王討伐後のゴタゴタで一度も顔を出せず……」

「構わねーって! 今は色々と大変な時期なんだろ? 院長先生もよく家を留守にするようになってるし、大人達は大変だな」

 アーズと呼ばれた少女は、人懐っこい笑みを返して長椅子から跳ね降りる。彼女は孤児院の子供としては最年長の十三歳で、リーダー気質な性格で慕われているのだ。

 華奢で平坦な体つきと肩からずり落ちたタンクトップとは対称的に、夕焼け色の長髪と瞳はえらく艷やかで女性的に見える。

「ウチも院長先生の代わりに、今やれることをやる! それで言いっこなし! お前もそう思うだろ、ニフル」

「……うん。あと、出世おめでとう……」

 部屋の隅で本を読み耽っていた空色の髪と瞳の少女が、平坦な声で返す。ニフルと呼ばれた彼女は、まだ十二歳。読書好きで大人しく、性格はアーズとは真逆である。

「えっ!? ミーシュ、ホントに隊長になったのー!? すげえじゃーん!」

「シーボくん。それほどでもないって……照れるなぁ」

 次いでシーボという純朴そうな少年が目を輝かせてミーシュの腰元に挿された剣を眺める。気恥ずかしさに目を逸らすミーシュだが、その胸中、満更でもない。

 差し入れのお菓子のバケットと新聞紙を渡して帰ろうとするミーシュに、アーズが駆け寄る。

「ありがとなミーシュ! でも今度はチビ達と遊んでくれよな……みんなミーシュのこと、大好きだからさ」

「うん、わかってる。今週末は空けておくさ。それじゃあまたね!」

 爽やかに孤児院を出たミーシュを尻目に、子どもたちが名残惜しそうな顔をしながらお菓子に手を伸ばすも、アーズがその包みをさっと取り上げ指を立てる。

「もうすぐ昼飯だぞお前ら! こいつはその後だぁつまみ食いしたら飯抜き!」

「ええー……」

「わかったぁ」

 子供達に釘を刺したアーズが、新聞紙を手にニフルに近づいて腰を下ろす。気付いたニフルが本から顔を出して、それを傍らに置いて座ったまま彼女と距離を詰めた。

「その前に、いつもの頼む」

 アーズの言葉に頷いたニフルが、新聞紙を手にとって、ゆっくりと読み始める。

「うん…………んと、勇者が魔王を倒した時、その血は彼方の血へと降り注ぎ、災厄をもたらすであろう……大賢者の標、三十二ページより引用……」

「んな胡散臭ぇコラムはどうでもいいんだよ! 第一、世界を救ったレスク様を悪く言う記事とかやめろよ子供達の前だぞ!」

「ごめん……じゃあこの大きな見出しのところにする」

「いや、ウチも言い過ぎたよ……ここで文字読めるのニフルだけだから、つい頼っちまってさ。じゃあそこも、頼めるか?」

「いいよ。じゃ、読むね……王国推薦闘士リザノス、今日も華麗に勝利を決める。毎年闘争の街グシャラスの闘技場で開かれる闘技大会では、今年も我が国の闘士が」

「だぁぁ――――――ッ!!! どうッでもいいなぁ本当に! 前は作物の話とか占術師の天気予報とか真面目な話も多かったのにさぁ!?」

「知らないよ……」

「まあいいや。ありがとなニフル。あとでタメになりそうな記事があったら教えてくれ」

「……ない」

 ニフルは無感情にそう言って、新聞紙を置いた。彼女が読書に戻ったことを確認すると、アーズは大きな麻袋とガマグチの財布を用意してシーボに声をかける。

「そろそろ買い出しいくぞシーボ」

「おう! 荷物持ちは任せろな!」

「アーズおねーちゃん、シーボおにいちゃん、いってらっしゃいなの!」

「いってらっしゃーんい!」

 二人を見送る子供達に釣られ、ニフルが再び本から顔を出して控えめに手を降った。



 かつて、王都の周囲には多重に結界が張り巡らされていた。城壁とその周囲の土地と森や山、洞窟などをすっぽりと覆い囲む半球状の不可視の魔力の壁が。

 しかし魔王討伐以降、結界を張っていた者達はその任を解かれていた時期があった。かつて魔王候補のアリアはそれを知らずに王都に入ったこともある。

 此度の任務に関してはロアからの助言があった。結界の内側には、かつて彼女が使っていた“抜け道”が存在するのだ。

 薄暗い地下道を抜けた先にあるのは、かつてロアが務めていた図書館の物置。第三亜人混合部隊の面々はそこにある棚の影から、さながら冬眠明けの岩下の虫のようにもぞもぞと這い出てきた。

「うへぇ……ペッペッペ! やっと外に出られましたぁ~……」

「老眼にあの暗さは辛いのぉ……いつ失明するかヒヤヒヤさせてくれるわい」

(誰か……お尻触ってた……小さい手だったから、ダジさんかな……いやでも……)

「はぁ~、結構柔らかかったゲラよ」

「次はオレも触りたいッスね~」

 それぞれ埃っぽく狭い道やら視界の悪さやらセクハラなどに不満を抱いていたが、すぐさま切り替えて全員で円陣を組み、視線の合図を送り合う。

「では作戦どおりにいきますよぉ。みなさん、またここで会いましょうね!」

 ――応ッ!!!

 ベル、ベルディア、ルーダイ、ログダ、ファダリ、ダジ。別行動中のシュナ以外の全隊員が拳を突き合わせる。これより、魔王軍の行動は開始された。



「あんなにかっこよく解散したのに…………」

 そんな王都の商店街の隅で、壁に身を寄せる少女が一人。その美貌と物憂げな表情に、通行人達は何事かと一瞬立ち止まって彼女を見てしまう。

 ふわりとウェーブのかかった紫髪をすっぽりと覆う大きな麦わら帽子。その下からにょきっと顔を出す羊の角のような髪飾り――のような何か。そしてなにより、白いワンピースを押し上げる豊満なバストが周囲の目を惹きつけてやまない。

「ここは、ここはどこなんですかぁ……?」

 溜息を吐く小柄なのに色気のある女性を見て、気になって話しかけたのは買い物帰りのアーズとシーボ。

「なぁねーちゃん、どーしたんだぁんなトコで立ち止まって」

「そうだよそうだよ! オレたちでよかったら力になるぜ!」

 自分を見上げる二つの視線に気付き、少女はしゃがんでアーズ達に目線を合わせてにこやかに語りかける。

「ありがとうございますふたりとも。でもだいじょうぶですよ。わたしはおとなですし……おとなにもわからない悩みもあるんですよ」

「へぇ……んでその大人の悩みってのは?」

 シーボの質問に彼女は、困ったように目を逸らし、顔を伏せ、どうしようか迷っていた様子を見せた後しばらくして、絞り出すような声で話した。

「………………じ、実はぁ……道を、踏み外してしまってぇ……」

「踏み外すってなに? ねーちゃん悪い人なの?」

「いえその、そうじゃないです。道を間違えて、知らないところに来てしまってぇ……みんなもいなくなってて……」

 年上の女性にそんなことを言われて、きょとんと首を傾げるシーボ。恐らく、予定された道で他の同行者とはぐれたのだろう、と察したアーズが頭を掻きながら女性と目を合わせる。

「迷子か。お姉さん、どこに行きたいんだい?」

「ま、迷子じゃないよぉ! ……はっ! いや今のは、違くて……そうなんです。わたし、迷子なんです……」

 えらく辿々しく子供っぽい口調を聞いて、アーズはなんとなくメリニアなど他の子供達のことを思い出してしまう。そのせいか、わざわざ不慣れな敬語で喋る気にもなれなかった。

「えーと、アルクルスという孤児院に用がありまして」

「へぇ。ねーちゃん、ウチらに用があんのか? 一体何の?」

「それはそのぉ……わたし、ロエナさんとおともだちでして……ぜひ、おかおを出してほしいと言われまして」

「ほぉー、あのロエナ先生の知り合いに、アンタみたいのがいたなんてねぇ」

 ロエナとは、王立図書館の元司書長のことだ。アーズ達のいるアルクルス孤児院に処分する予定だった書物を寄贈してくれたり、童話を読み聞かせたりしてくれて、子供達からの人気も高かったが、突然行方をくらませてしまった。

 シーボも彼女のことはえらく気に入っていたが、その理由の大半はおそらく普段味わえない大人の色気、というものだろう。今隣にいる彼はロエナの胸もよく鼻を伸ばして眺めていたものだ。

「あのっ! ロ、ロエナおねーちゃん、今どこなの!?」

「えとぉ、それはぁ~……その、どこでしょうねぇ~……?」

 それは自分も気になるところだ。とアーズは黙って頷く。しかし、相手の反応は芳しいものではない。

「と、とにかく! げんきでやってることだけは確かなので、ごしんぱいはなさらず! それよりも孤児院、つれてってください!」

「それ、どういう意味ですかぁ?」

「あーいえ、別になんでもないですよ。気にしないでくださいですよ」

「とってつけたような敬語ッ!」

 自称司書長の友人にビシッと指差しされ、あー、と明らかに面倒臭そうな顔をするアーズを気にせずシーボは買い物袋を振り回しながら駆け足で孤児院に向かった。

「ロエナおねーちゃんのともだちの人! 待ってて! 今みんなに知らせてくるから! へへっ!」

 なんだか今、彼の顔がえらくニヤニヤしてた気がする。ニフルよりも年下なのにませた男だな、とアーズが呆れた溜息を吐く。 

 しかし年頃の少年が意識してしまうのも仕方がない。まだ十三の幼い女の自分でも、あの胸を見て平然といられるわけがない。

「……ロエナ先生より、デカかったな」

 中身は自分よりガキだけど、とは口に出さずに呟くアーズであった。



 一方その頃、孤児院には別の来客があった。

「ヒナコおねえちゃん! つぎはなにしてあそぶの!?」

「そうだね~、ふふっ。じゃあおねえちゃんの国に伝わる遊びを教えるね」

 子供達に囲まれているのは、ゴシックドレスを着た短い黒髪の少女ヒナコ。その顔には、心からの笑みがこぼれていた。

 魔装を脱いだ人間として心置きなく、無邪気な人間の子供達と触れ合うことが、こんなにも楽しい時間になるとは彼女自身も思っていなかったようだ。

「お手玉っていうんだけどね。この米が入った袋をね……それっ」

「すごいの! まるでテジナのひとなの!」

「おこめって、すごいんだね!」

 ヒナコはジャグリングの要領で、三つの袋を右手から左手へ、左手から空中へ投げ渡す。それを見る十人程の子供達の眼差しはとても眩く、清涼剤として荒んだ彼女の心を癒やしていく。

「ニフルちゃん! そこにまだあるから、こっちに投げてみて!」

「え、あ、うん……」

 読書の体勢のままだったニフルが急に呼ばれて、おどおどした様子で本を置いてお手玉に手を伸ばす。

「ほら、ふふっ……」

「ッ!!」

 投げ渡そうとすると、ヒナコは嬉しそうな笑みを浮かべてそれを待っていた。その時、初めてニフルはプレッシャーを感じた。もし変な投げ方で、失敗してしまったら、と。

 他の子供達の目もある。ここで下手なパスをしてしまったら、この場にいる全員ががっかりして、誰も得をしない展開になってしまう。

「あ、あの……」

「大丈夫だよニフルちゃん。ほら!」

「でも……ボクは……」

「絶対に、大丈夫、だからッ!」

 あぁ、楽しい。私ってこんな子供好きだったんだ。と新たな自分の一面を開拓して上機嫌なヒナコとは反対に、ニフルは冷や汗が止まらない。


「みんな――――ッッ!!」


 バンッ!


「あっ」

 扉が勢い良く開き、快活な叫びと共に一人の少年が乱入する。いきなりの出来事に気を取られたヒナコのお手玉袋がポトリ、と床に落ちてしまった。

「ロエナおねーちゃんのともだちがきたよっ!」

「え、えと……こんにちは……ベルです」

「あぁベルさん、来てくれたんですね……」

 シーボの後ろで、麦わら帽子と白いワンピースの淫魔が控えめに頭を下げる。見知った顔の到着を、ヒナコは苦笑と安堵が入り混じった表情で出迎えた。

「はい! このふたりがここまでつれてきてくれたんですよ」

「アーズ……です。チビ達が世話になったようでして……ありがとうございます、です……」

 ベルの前に出た赤髪の少女が不器用な敬語で頭を下げるのを、ヒナコが微笑ましげに見詰める。

「こちらこそ、ベルさんを見つけてくれて……ありがとうございました」

「ごめんなさいヒナコさん……わたし、あなたを助けるつもりだったのに……まさか道に迷うなんて……」

「い、いえ! わたしだって、ベルさんがいなかったら今頃……それに、こんな広い街、迷って当たり前ですし!」

 譲り合うベルとヒナコを尻目に、アーズはニフルの方へ駆け寄る。彼女はなぜか布袋を手に持って彷徨わせていた。

「なんだそれ」

「なんでもない」

 布袋を置かせたアーズは、ニフルの青い髪をかき分けて耳打ちする。

「なぁ、このお姉さんはどんな人だったんだ?」

「……いいひと」

「そうか。お前がそう言うんなら、そうなんだろうな」

 納得したようにアーズがそこから離れると、ニフルは戸惑いがちになりながらも読書を再開した。

「……うーん」

 シーボはヒナコの胸の辺りを見て、なんだかがっかりした顔をしていた。

 その後しばらくはまたお手玉をしたり、子供達の独自の遊びをベルと一緒にしたり、シーボがベルにハグされたりと色々あったのだが。

「あっそーだ!」

 ベルが何かを思い出したようにぽん、と手を叩く。どこからか出した鞄の口を開けて、中をゴソゴソと探る。

 その様子を見たヒナコが何かに気付いたような素振りをして、俯いて目を逸らした。

「じゃーんっ!」

 そこには藁で編まれたカゴに大量に盛られたキャンディーの山。ファンシーな柄の入った包み紙からは、甘い匂いが漂ってくる。

「みんなにこれをあげます! はいならんでー! 一人一つですからねー!」

 たかが飴玉と言えど、こういったお菓子はこんな場所では貴重品だ。子供達は我先にとベルの前に群がって小さな壁を作った。

 他の子供達に行き渡ったところで、最後尾にいたアーズはようやく受け取れたキャンディーをしげしげと見詰める。

「へぇー……最近のキャンディーって、こんな黒いのもあるんだな」

「と、東方の方には、クロアメ、なんてのもあるみたいだよ……」

 どこかぎこちない様子で、俯きがちにヒナコが付け加える。キャンディーに何か嫌な思い出でもあったのだろうか。

「……わたしのは、いい。アーズにあげる」

「え? いいのかよニフル……まあいいや。有難く頂くぜ。あむっ……」

 ニフルから受け取ったキャンディーを、アーズは自分のものと一緒に一気に口に入れる。それらがゴリゴリと噛み砕かれたのを見ると、ニフルは興味なさげな態度で読書に戻った。

「ああ~~~~~~~~っ!!?」

「ええぇ――――――――っ!!?」

 次の瞬間、けたたましい叫び声が院内に響いた。ベルとヒナコのものだ。まるで取り返しのつかないことをしたかのような、ひどく絶望的な声で叫んで両手で頭を抱えている。

「な、なんだよ二人して……いいだろ? ニフルがいいって言ったんだから……」

 アーズが目を向けた二人は周りの声が聞こえないのか、震えたまま小声で何かを話していた。

「どどど、どうしましょう……ヒナコさん?」

「ご、ごめんなさいベルさん! 私が見ておかなかったばかりに……それで、これ……どうなるんですか……?」

「わ、わたしにも……それは、わからないです……」

 言ってる内容は聞こえてきたが、理解はできなかった。

「あれって、そんなに大事な飴だったのか? ごめん、そうとは知らなくて――――ッ!?」

 途端に、アーズは体中に熱さを感じた。体に力が入らなくなって、ガクンと膝を突いてしまう。

「な、なんだよ……?」

 皮膚の表面から、内蔵の内側まで、グツグツと煮えたぎったような感覚に包まれる。熱い。燃えるように熱くてたまらない。

 両手で抱えた体からは汗が吹き出し、簡素な服をじわりと濡らしていく。喉は乾き、視界は歪んで正常な認識を遅らせる。

「おいアンタ、あの飴は……ハァ……ハァ……あぐぁ!?」

 ビクンッ、と跳ねるような感覚とともに、視界が頭一つ分高くなった。座り込んだまま動いていないのに、どうして。

「何かが……入ってきて、止まらねぇ……嫌だ、止まれ……止まれよぉ!!」

 同じ感覚に襲われ、また視界が高くなる。同時に汗に濡れた肌が服にぴったりと貼り付く感触があった。不気味に思い見て、理解する。自分の体が、少しずつ大きくなっていることに。

「はっ……あっ……ウチは、ウチはどーなっちまうん、だっ……あンッ!?」

 少しずつ声が低くなっていることを自覚すると、途端に怖くなった。自分の内側を得体の知れないものが這い回り、元の自分の体を喰らって、別の何かを残していくような感覚。

 今度は胸の辺りに圧迫感を覚え、ビリ、と布地が敗れる音が耳まで届いた。タンクトップが真ん中から裂けて、身に覚えがない谷間が顔を覗かせる。

「胸が……風船みてぇに……あぁ!? も、もうやめてくれ! これ以上、はっ……!」

 ググッ……! ミチミチッ……!

 手で押さえつけても、膨張が止まることはない。栓を切った水底のように、どんどん指と指の隙間から肉がこぼれていく。次第にそれは、過去に自分が見た中で一番大きかった女性の胸を超えた。

「嫌だ……やだ、やめろぉぉぉ!! ウチが、ウチじゃなくなるっ!!」

 困惑と焦燥の中で、ようやく周りの声が聞こえてきた。

「うああああぁぁぁぁぁ! いたい、いたいよぉ……ママぁ……!」

「はぁ……からだが、はっ……からだがぁ、へんなの……せんせーに、みて……もらわなきゃ……」

「えへへへ……見て。あたしのからだ、ひゃうっ! ……ロエナさんみたいになってるぅ」

「はんっ、あっ……! ううっ! ニフルおねぇちゃん……あんっ! ……この、びょうき、なおる……?」

 女の子達は皆一様に体を震わせて、自分と同じように服を破りながら急成長している。感じ方こそ人それぞれだが、どう考えても普通のことじゃない。

 シーボはガクガクと体を震わせて床にうずくまったままうわ言のように何かを呟いていた。

「わ、わたしより大きくなるなんて……ずるい……二個も食べたから……?」

「おい、ベルぅ……ウチらを、どうする、つもりだ……アガァァァァ!!?」

 距離を置いて静観していたベルに詰め寄ろうとしたアーズの体が、急激な力の活性化にビクンと反応して跳ねる。両手で肩を抱き、エビ反りになった状態で硬直し、動けなくなる。

 夕焼け色の髪がふわりと伸びて床に落ち、服が破け丸裸になった全身にピリピリと電流のような感触が走った。身長も胸も成長しきったのに、まだ別の変化があるのかと考えて、アーズの顔が恐怖に染まった。

「ひっ!?」

 ビキッ、と首の辺りから音がした。見ればその部分は青白く染まり、次第に魔の色は体中に広がっていく。健康的な肌が、魔族の色に塗り替えられていく。

「あああぁぁぁぁぁぁ! 嫌ぁぁぁぁぁぁぁあ!!」

 絶望の叫びと共に、彼女の真っ赤な瞳の外側の白目が、漆黒に覆い尽くされる。口元には牙が伸び、次第に彼女を構成する“人間”の要素が、剥がれ落ちて止まらない。

 こめかみの辺りがむずむずして、内側から出た上下二対の角に突き破られた。その下にある耳は鋭角的に変形し、臀部の上からはずるりと粘液を纏った尻尾が二メートルほど伸び、彼女の意志を無視してウネウネと暴れ出した。

「ううっ……ひぐっ……や……やだ……やだぁぁ……ァギッ!?」

 抵抗できない感覚によだれが人外の青白い肌に垂れ流しになり、溢れる涙が人外の黒い目の周りを真っ赤に腫らし、咄嗟に顔を覆った手のひらは既に指先が鋭利なものに変わってしまっていた。

「ふふっ……そろそろ、終わりましたか?」

 ベルの声がした方を見ると、姿見に化物が映っていた。大きすぎる胸、真っ黒な目の中に真っ赤な瞳、青白い肌に尖った耳、鋭い牙と角、床に横たわった尻尾もその腰から生えている。自分が知る姿と変わらないのは髪の色しか残っていない。

 すらりと伸びた手足の関節から先は太くなり、黒く硬質な外皮で覆われて、鈍く光を反射している。指を動かそうとしたら、そこにあるナイフのような爪が動いた。その体の構造は、まるで戦うためだけに生まれてきた生き物のそれだ。

「その爪と尻尾は、ナハトさんのそれとは違うようですね……鱗と言うにはツルツルしてますし、なんか別の生き物ですかぁ? ……ふふっ、こんなの今まで見たことないですねぇ」

 子供のように首を傾げたベルの白いワンピースと大きな帽子が、蒸発したかのように空中に溶けていく。むき出しになった彼女の裸体に、激しいハイレグのボンテージが申し訳程度に貼り付いた。

 足にはロングブーツ、手には長手袋。その衣装のどれもが黒くぴったりとした謎の素材で、頭には羊のようにねじ曲がった角が一対、腰元からはハート型の先端を持つ尻尾が生えて、そのやや上を根本にして羽根が一対生えてきた。

 それがベルの本当の姿で、この状況は彼女の手によるものだと、アーズはすぐに理解できた。

「うるせぇ……ウチを、みんなを元に戻せぇ!」

 成長して低くドスの効いた声で叫び、アーズがベルの首元に手を伸ばそうとする。しかしそれは間に入ったハルバードアクスに遮られた。

「ベルさんには、手出しさせません」

 黒い鎧の女が邪魔をしてきたらしい。さっきから姿が見えないと思ったら、この鎧の女がヒナコなのか。感情を押し殺したような声と兜で、何を考えているかわからない。

「……ごめんなさい。ですが、命令なので……」

「ふざけんな! 誰の命令でウチは……我は……アタシ、は……こんな、化物に……ぐうッ!?」

 ヒナコだった女性に食ってかかろうした赤髪の悪魔は突然、異形と化した手で頭を抑えてうずくまる。

「ぐああぁぁぁぁぁぁぁア!?」

「ひっ!?」

 目をくわっと見開き、涎を垂らしてガクガクと震えている。それまでの様子を全て見ていたニフルもまた、部屋の隅で膝を抱えて震えていた。

「ち、違う……! ウチは……ニンゲン、だ……ば、ばけもの、なんかじゃ……!」

「ふふっ……そんな姿で言っても説得力ありませんねぇ。わたしなんかより、よっぽど人間離れしてますよぉ?」

「……黙れ」

「だいじょうぶです。おちついて……その力に慣れて、使いこなすことができれば……きっとあなたは今よりもっと自由でたのしい生き方ができるはずです!」

 ベルが挑発的な口調で嗤ったかと思えば、今度は優しく気遣うような口調で語りかける。しかし当のアーズ自身は、未だ頭を抱えながら歯を食いしばり、表情には不快感や憎しみが顕になっている。

「黙れ! 黙らねぇと……黙らねぇとブチ転がすぞッ!!」

 ギン、と鈍い金属音が辺りに響いたかと思えば、彼女を阻んでいたハルバードアクスは弾き飛ばされ、持ち主の黒騎士もニフルのいた場所まで吹き飛ばされてしまった。

「次はてめぇだァァァァァ!!」

「なっ!? なんなんですか、このちから……! 聞いてませっ……ひゃっ!?」

 ズン! とベルの顔のすぐ脇に鋭利な爪が突き立った。爪は壁を裂きながらズリズリとベルの首元に迫る。壁まで追い詰められたベルと、アーズが顔を突き合わせた。

「お望み通り……存分に使いこなしてやる! テメェの体でな……クハハッ!」

 身動きの取れなくなったベルに、アーズは牙を覗かせた邪悪な笑みを見せた。そこにかつてのアルクルス孤児院のまとめ役の少女の姿は既になく――

「アーズ……どうして……?」

 彼女の一番の親友だったニフルの目には、涙が浮かんでいた。その傍らでまだ立ち上がれずにいるヒナコが、ニフルにだけ聞こえるような声で何かを呟く。

「逃げて……今なら、あなただけでも……」

 それを聞いた時のニフルの頭には、恐怖と焦りと混乱が浮かび、ヒナコがどんな目的でそんな事を言うのか理解できなかった。

 だがアーズとベルが争って、他の孤児院の子供達が嬌声を上げて何かに耐えている今なら――逃げられるだろう。

 疑う余地は多分にあった。逃げた後どうするかなど考えてもいない。だが今のニフルは恐らくこの場で最も非力な存在。そして恐らく、人間としての姿と精神を保っている唯一の存在。

 ニフルはすぐさま壁際のドアを開けて、その部屋にある窓を出て、気付かれないようにそっと外へ抜け出す。

 然るべき場所に報告すれば、なんとかしてくれるかもしれない。もしかしたらこれは全部悪い夢なのかもしれない。だが、現実は違った。


 ▼


「なに………………これ…………?」

 窓を出てからすぐに目を疑う光景が、彼女の目に飛び込んだ。咄嗟に走り出して、物陰で息を潜めながらその様子を見る。

 空は暗雲に覆われ、街中にはアーズが可愛いくらいの異形の化物達が平然と歩いており、人々は逃げ惑っている。

 ある者は助けを求め手を伸ばし、ある者は窓のカーテンの隙間から外の様子を伺っていたり、またある者は話し合いで解決しようとして殴られていた。

 この世のものとは思えない。まるで魔物の巣に迷い込んでしまったかのような光景だった。だがそれだけではない。

 蛇型の魔物に襲われた妙齢の女性が、倒れたところにとぐろを巻かれ拘束されてしまう。蛇は尾の先で無理矢理女性の顎を固定し、口を開けさせる。

「い、いやらぁぁぁぁぁぁ! やめ、やめへぇぇぇぇぇぇ!!」

 半狂乱になって叫ぶ女性の声も意に介さず、蛇は二股になった舌先から、黒い何かを垂らす。

「ああぁぁぁぁぁァァァアアアア!!?」

 すると女性の体が、瞬時に変質していく。肌の色が徐々に薄緑に染まっていき、爪は青く、鋭く尖っていく。そこから徐々に鱗に包まれていき、服も破れていく。

「やぁ! なんで、どうして、こんな……! なりたくない! 魔物になるなんて嫌ぁ――――!!」

 肌がむき出しになった両脚も鱗に筒状に包まれ、鱗の内側で体組織が組み変わっていく。二本の脚の境界は徐々に曖昧になり、やがて一本の尾のようにしなっていく。

「ふしゅるる……ちがう……違うぅ! こんなの、こんなの私じゃ……私じゃないぃぃぃぃぃぃ!!!」

 絶望に歪んだ顔も、徐々に異形に覆い尽くされていく。牙は鋭く、瞳孔は鋭く縦長になり、怪しい光を放つ。そこで変化は殆ど終わったようだ。

「チガウ……オマエ、ラミア……オレ、ノ……ツマ……ダ」

「何を言う! そいつは人間だった頃から、俺の女房だッ! お前なんぞには渡さん!」

 辿々しくも、少々嬉しそうな口調で蛇の魔物は言った。そこに割り入ったのは、筋骨隆々な人間の体を持った牛頭の魔物だった。

「ソウカ。オマエモ、マモノニナッタノダナ。ダガ! ラミア、ナラ、オレノホウガ……シアワセニ、デキル!」

「ラミアにしたのはお前ではないか、おのれぇ!」

 二体の魔物が言い争い始めたかと思えば、牛頭の方が頬に鞭を打たれて一歩引いた。いや、鞭のように見えたそれは、蛇の尻尾であった。

「ダメよぉ? 私のお婿さんは……この体を下さったあなた以外有り得ませんもの……」

「フシュルゥ……オレ、シアワセ……」

「醜い牛に変じた男になど、興味はありませんわぁ……あぁ、すごい! もう窮屈な人間の体には、戻れないわぁ……」

 頬を紅潮させたラミアが、うっとりと陶酔した様子で両手で頬を押さえる。形成されたばかりの尻尾をくねらせ、今の夫が持つ尾と絡ませる。

「コレガ、ワレラノ、リソウキョウ! アリアサマ、バンザイ!」

「くっ……くそぉぉぉぉぉぉ!!」

 牛頭の男が悔しげに地面を殴りつけて割る。ニフルはそれ以上、見ていられなかった。孤児院の外の更に外側の世界を知らぬ彼女にとって魔物のやり取りなど、完全に理解の外だったからだ。

 殺されたり食われている人間もいれば、人間でなくなっている者もいて、魔物は気まぐれな生き物なのかとも考えたが、あまり考えないほうがいいだろう。

「いやだ……」

 ――ドクン。

 自分達が置かれている状況を理解すると、自然と否定する言葉が溢れた。胸の鼓動も激しくなってきて、怖くなった。

 皆いずれはああして人間じゃなくなってしまうのか。自分やアーズ達だけでなく、アルナマグス王とその娘の王女リエンデや守護騎士エルスロットまでもが。

 暗雲の下で、王都は魔物達に支配されかかっている。街がこうなっているということは、精強な兵士達や名のある騎士達は皆、より大きな障害に立ち向かっているのか、それとももう既に……

「院長先生……ロエナさん…………」

 ドクン、ドクン。

「アーズ……ッ!」

 まだ止まらない。熱くて、痛くて、どうにかなりそうだ。

「ニフルおねーちゃん、みつけたの!」

 不意に、背後から無邪気な声がした。咄嗟に飛び退いてみれば、見知らぬ女性が立っていた。耳が尖っているところから見て、人間ではない。

 ……いや、以前より大分長くなっているがあの鮮やかな金髪には見覚えがあるし、声や顔も面影を感じるものはある。メリニアがアーズと同じように変化した姿なのだろう。

 露出度の高い黒い鎧まで着せられて、成長した胸も半分以上丸見えだ。ついさっきまで自分以上に幼い子供だったとは思えない。

「こんなところにいたんだ~……それじゃあいっしょに、ベルさまをたすけにいくの!」

 幸いあのベルという女は、まだアーズに止められているらしい。

「それは……できない……」

「どうして~? ベルさまのめいれいは、ぜったいなの」

「あ、あの人は……悪い人だから。メリちゃんも、簡単についていっちゃダメだよ」

「わるい、ひと……」

「そうだよ! どうか、目を覚まして……」

「でも、でも! ベルさまはごしゅじんさまで……ニフルおねーちゃんは、おねーちゃんで…………あうっ!? ぃやあぁぁ!」

 メリニアは槍を落とし、頭を押さえていやいやと左右に振っている。どうやらまだ完全に魔に染まったわけではないのかもしれない。

「落ち着いて! ベル様のことは大事かもだけど、今は私に協力して、メリちゃん!」

「はっ……はっ……あぅ……」

「……ね?」

 そこからしばらくして、荒かった息を落ち着けたメリニアが、ゆらりと頭を上げる。

「………………やなの」

「え?」

 ドクッ……!

「だってニフルおねーちゃん、ちいさいの。どうしてわたしが、わたしよりよわくてちいさいヤツのいうこと、きかなきゃいけないの? いまのわたし、ニフルおねーちゃんより、つよくておおきいんだよ?」

「そ、そんな……うっ!?」

 その時、ニフルの腹に鈍い衝撃が走った。他の民家の石壁に吹っ飛び、強く背中を打ち付けてしまう。どうやら彼女の脚に蹴られたようだ。鎧を着けていたのもあって、酷く痛くてズキズキとする。

「かはっ……!」

 困惑と共に目を開くと、目の前でメリニアだった戦士が槍をくるくると回して構え直す。その顔は不快感や憎悪といった、かつて無縁だった負の感情に染まっていた。

「ニフルおねーちゃんに指図されるなんて、イライラするの! いますぐここで、殺してやるの!」

「やだ……なんで、どうして……」

 気付けば自分は、あのラミア化した女性と同じことを呟いている。だが私は、魔物に生まれ変わることすら許されない。ここで、殺されてしまう。

 自分より遥かに強く、大きくなったメリニアが、自分を殺す。想定すらしなかった最悪な人生の幕引きだ。私は何も理解できぬまま、大事な家族達を奪われたまま死んでしまう。

 ドクンッ!

 絶望を自覚した途端、一層心臓が高鳴る。同時に、何か強大なものが、自分を内側から食い破るような感覚が、ニフルを襲う。

「うぅ……うあああぁぁぁぁぁぁ――――――――ッッ!!!」

「っ!? な、なんなの!? こ、このひかり……」

 ニフルの胸から、紫の光が迸った。光は周囲の建物や柵を瓦礫に変えながら遥か高くまで昇り、この都市にいる誰もがその方向を見て、目を見開いた。

 すぐ近くのアルクルス孤児院もその暴風に飲み込まれ、中にいるベルやその部下達も吹き飛ばされてもみくちゃになってしまう。

「な、何ですかこれっ!? 一体、何が……」

「ふふふ……あははははは!」

 ヒナコが辛うじて床に得物を突き刺して耐えている横で、ベルはまるで部屋の中のように平然と立っていた。先程まで追い詰められていたとは思えぬほど嬉しそうな表情で嬌笑する。

 困惑する騎士を差し置いて、ベルは両手を広げ一歩、また一歩と前へ進んでいく。その十歩後ろで倒れていたアーズが立ち上がって彼女に向かおうとするも、八人の黒い鎧の兵士達がそれを阻む。

「どけ! 離せ! お前らは元に戻りたくないのか!?」

「じゃましちゃダメ……ごしゅじんさまは、わたしがまもるの……」

「アーズ、お主の行動は間違っておる! なぜ主に刃を向けるのじゃ!?」

 今彼女の足を掴んでいる黒い鎧の兵士達は、元孤児院の子供達だ。だがその孤児院は無くなり、姿も性格も一日にして全て変わってしまった。

 だが、この暴風の中で立ち上がるのも困難な中、這ってまで主を守ろうとする姿には、ひたむきな姿勢を感じなくもない。まるで善悪の認識だけが、すっぽりと入れ替わってしまったようだ。

「ちくしょぉ……ウ、ウチも……いつかは……そうなっちまうのか……」

 まだ暴風は止まない。だがアーズは、今の自分の重く硬い肉体なら暴風の中でも歩いて、ベルを殺せるだろうと考えていた。だがその本人は、なぜか平然と歩いている。 その先にいるのは……

「――ニフルッ!?」

「見つけましたよ。ああ、何ヶ月ぶりでしょうか……」

 自分の中にかつてあったモノの抜け殻と、そこにある光が、共鳴している。その事実にベルは嬉しくなり、うっとりとした様子で暴風の、紫の光の中心へ向かっていく。

 まさかこんなにはやく目的を達成できるとは。これが無事終われば自分はアリアに褒められて、また大きな力を授かって、彼女に並ぶ力と美しさを手に入れられるかもしれない。

 アリアと同じ背丈になって、肩を並べて、時には慰めたりして、ロアのように頭も良くなって、そんな未来を夢想しながら、ベルはニフルのもとへ近づいた。

「これは――――“魔王の魔力”ッ!!」

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