第10話 淫靡なる街と、甘美なる勝利

 バルバスから一夜歩き通して、ベルディア一行は薄紫の怪しい光に包まれた峡谷の中心にある街に着いた。

 ここに一歩足を踏み入れただけで、そこら中から視線が集まるのを感じた。恐らく大所帯とこの魔装のせいだろう。

 二、三日はこの姿で歩いたが、まだ見られることに慣れていない。というか故郷でもここまで肌を晒して出歩いた経験はない。

 ボンテージやビキニアーマーで平然と歩く魔族達のことを、まだどこか遠い目で見てしまう自分がいるのも事実だ。

「こんばんはお嬢さん……そんな汗臭い連中とじゃなく、ボクと一緒に遊ばないかい? 気持ち良くなれるよ……」

「い、いえ……私は……」

 兜越しにもわかるほど酒臭い声で、気障っぽい魔族の男が声をかけてくる。振り払おうとするベルディアだったが、その前に傍らから剣が突き出してきた。

「クラァ君ィ! ……オレっちの予約相手に手出したらァ、タダじゃおかないッスよォ」

「や、やだなぁ冗談だよ……血の気の多い連中だな……チッ」

 ファダリが喉元に剣を突き立てて脅すと、男は渋々ながらそそくさと去っていった。

「ありがとうございます、ファダリさん……予約された覚えはありませんが、その……助かりました。意外と紳士的なんですね」

「いいってことよォ! お礼は今夜部屋でゆっくりと頂くッスかねェ……冗談ッスよ睨まんで下さいよシュナ様」

 くるくると格好付けながらファダリが剣を鞘に収め、辺りをゆるりと見回す。

「ここは歓楽街というか、まあ言っちまうと魔族達が性欲を満たしに来る楽園……名前は『アスモデ』。その様子から性止まぬ街とも呼ばれてるッス」

「そ、そうなんですか……通りで」

 言われた通り、確かに今は夜の只中であり、街は泥酔した男と妖艶な雰囲気の女性で溢れかえっているため、まだ若いベルディアでも“そういう場所”だと一目でわかった。

 この場に残ったのは自分とシュナとファダリの三人で、他の四人は一目散に自由行動を始めてしまった。乗り遅れたというか、完全に取り残された形だ。

「しかし、なぜファダリさんは行かなかったんですか?」

「あイ?」

 ベルディアの疑問は最もだ。聞けばファダリは魔族の中では女好きで有名らしく、が顔を合わせただけで舌打ちする程だ。

「そうよ。アンタ、アタシらの中じゃ一番こういうの興味ありそうじゃない」

「いやぁそれは…………護衛ッスよ護衛! 決してディアちゃんの尻を見ていたわけじゃないッスよ!」

 わかりやすい態度と言葉に反応して、ベルディアが腰をよじらせて肌を隠す。気休め程度の範囲しか隠れないのだが、気分的な問題で。

「さーて、じゃあアタシは魔王軍幹部として見回りの役目があるから別行動だけど……ベルディアに変なことすんじゃないわよ。んじゃ、あのピンクの宿屋に集合で」

「わーってますって! んじゃ、離れないでくださいッス! ディアちゃんは兜越しに見ても、結構美人なんスから……狙われやすいんで」

「は、はあ……」



 一方その頃。路地裏では別の騒動が起こりかけていた。

「ち、違うんです! わたしはそういうんじゃなくて……」

「あぁ!? こーんなでけぇ乳おっぴろげて指名できないゆーんケ!? こんなん詐欺やろぼったくりやろケ!」

「ひゃあんっ! やめてください……もう、こうなったら……」

 ベルは酔っ払ったゴブリンに絡まれ、自慢の胸や尻を触られていた。思わず右手に魔力を集中させ、“やってしまおう”かと思ったその時。

「おほぉ~! なんだこりゃ! まるで子供の肌みてぇにすべすべヘァ!?」

「レディの扱いが、些かなっていませんね。どれ、私が手本を見せてあげましょう」

 ゴブリンの男を殴り倒したのはダークエルフのルーダイ。彼は徐ろにベルの体に身を寄せると、ねっとりとした手つきでベルの胸をまさぐり始めた。

「ひゃっ! あっ! んあぁぁぁ!? 意外とダイタンなひィンっ!?」

「なんでェ……どうせオデはチビデブでブサイクなゴブリンですよーだケ……美形同士乳繰り合ってろケ!」

 顔を赤らめて逃げようとするベルを見て面白くなくなったのか、ゴブリンの男は捨て台詞一つ吐いて去っていった。

「……さて、大丈夫でしたか? ベル閣下」

「なーにが閣下ですかぁ! い、いきなりあんな……お姉さまにもしてもらったことないのに……」

「とにかく行きますよ。ここに来た本来の用事を済ませに、ね」

「わかってますよぉ! あまり急がないでくださいってばー!」

 上官に無礼を働いた者とは思えない強かな態度で、ルーダイは性でむせ返るような歓楽街の中をずいずいと進んでいく。右も左もわからないベルは、そんな彼から離れないように付いていくのが精一杯だった。

「しかし魔王の復活の報せが広まっていないのか……この街は以前にも増して治安が悪くなりましたね。おかしな男が増えている」

「ルーダイさんが言えたことですか……しかしなぜ魔王がいないってだけでみんな好き勝手するんですか?」

「秩序がなければ人も魔物もこんなものですよ。さて、それでこの街に来た目的ですが……媚薬でしたっけ?」

「違いますーっ! 計画を進めるために必要な……えっと、ひやく? ですよ?」

「そうそう、それですよそれ。薬学には明るくありませんが……きっとえげつない効能を持っているでしょうね」

 言いながらルーダイはロアから支給された地図を手に、目的の秘薬を持つ男がいるという場所を目指して歩く。

 ベルの美しさと豊満な胸が道中多くの視線を集めるため時間をとられたが、どうにか目的地まで辿り着くことはできた。

 そこは一見周りと大差無い一軒家の一つであったが、赤い鈴が入り口ににぶら下がっているのを見て、ルーダイが躊躇せずそのドアをノックする。

『墓守は……』

「笑わない」

 ドアの奥から聞こえる男性の声に、ルーダイが即座に応える。するとすぐにドアが開かれ、中に手招きで誘われる。

「入れ」

「では遠慮なく、失礼致します」

「し、しつれいします!」

 中に入ると、見慣れない服装の魔族の男が一人、狭い部屋で座っていた。向かい合う位置にある椅子を指差して、こちらも座るよう促される。

 おずおずと座るベルの横で、堂々とした姿勢で魔族の男と向き合うルーダイは、心なしか頼もしいものに見えた。

「ルーダイさん、いまの合図の意味は……」

「特にない、ですよね」

「ああ。ウチの社長は何かと見栄を張りたがるからな……張る胸もないのに」

 ルーダイに応えるように、男は呆れた溜め息を吐きながら独りごちる。心労が見て取れる姿に、ベルが躊躇いがちに声をかける。

「しゃちょう……って、どんなひとなんですか?」

「そうだな……うむ、俺にもよくわからん。人なのか魔族なのかも、誰も正確に把握できてない」

「ほほう! それは中々に興味を惹かれますなぁ! 是非お話を伺いたい!」

 興味津々なダークエルフを前に、とっとと終わらせたいと言わんばかりに魔族の男はスッと革袋を差し出してきた。 

「これが秘薬だ。製法は明かしていない」

「ありがとうございます。ではこちらで」

「…………確認した。今後ともご贔屓に」

 ルーダイが数枚差し出した金貨を受け取ると、魔族の男は一枚一枚丁寧に調べてから頷いて席を立って背を向けた。もう用はないということなのだろう。

 質素な家屋を出ると、再びいかがわしい町並みが目に入る。目を逸らしたベルを横目に、ルーダイは涼しげな顔で貰った革袋の中身を確認していた。

「相変わらず怪しい色ですね……しかしサーペントテール製のものですし、信用はしておきましょう」

「あの、早く……行きませんか!?」

「そうですね。集合場所に決めたのは、背の高いの宿屋でしたね。二つありますが……」

「多分目立つ方ですよ! ほら、あの城みたいなの!」

「…………ええ、それかもしれませんね」

 やや不安を抱きつつ、ルーダイがベルの背中を追う。しかしその途中で、見過ごせないものが目に入った。

「あ、あれは……!」

 釘付けになっている間、ベルはずんずんと先に行ってしまう。だがそれに気付く前に、彼の体が勝手に動く。

 視線の先にいるのは、金髪を肩の上で切った活発そうな印象の少女だ。角が無ければ耳も丸く、一体どんな種族なのかわからないが、それ故に惹かれる。

「そこのお嬢さん……よければこの後、私の食事でもいかがですか?」

「えっ!? い、いや私は……」

「遠慮なさらずに! このような街でも美味しい料理屋などいくらでもありますゆえ! ささっ、どうかこちらに……」

「あっちょっと! 私、人を待ってるんですけど!? だ、誰かぁぁぁぁぁぁ!!」



「ファダリさん!? ファダリさーん! どこですかー!?」

 一人になってしまったベルディアが、いつの間にか人混みに消えた同僚の名を呼んで回っていた。

「あの鎧のねーちゃん、見えてる部分だけでも上玉だろうに……クッ! 手を出せねぇのがもどかしいぜ!」

 近寄ってくる男も魔装の恩恵による腕力で追い払うようになり、次第に誰も手を出さなくなり、現在に至る。

(鎧は脱ぎたいけど、そしたら何されるかわからないし……あっ)

 グギュルルルルル……!

 そういえば、と思い出す。彼女はここに来てから何も食べていなかったのだ。どうしよう、と顔を赤らめて隠す仕草をするも、元から隠れているのであまり意味は無い。

「ねーちゃん! 腹減ってるのかい!? いい店知ってるんだけど……」

「おいおいソイツに最初目ェつけたのは俺だぜ? 粉かけてんじゃねぇよ!」

 また投げ飛ばさなければならないだろうか、とベルディアが身構えていると、大柄な背中が目の前に立ちはだかった。

「やめんかみっともない。こいつぁワシの身内じゃ。そら散った散った」

「ログダさん……」

 睨みを効かせて悪い虫を追い払った巨漢のオーガは、ログダだった。彼は集団からベルディアを見つけていち早く駆けつけてくれたようだ。

 落ち着いたところで、歩道の隅のベンチに座って一息ついた二人。周囲の喧騒が遠くに聞こえ、ここだけ空間が切り離されたような錯覚をおぼえる。

「あ、ありがとうございました……」

「腹減ってるんじゃろ。とりあえずこいつを食え。人間の口にも合うはずじゃ」

「はっ、はい! ……って、え!? ににに、人間!?」

「バレんとでも思うたか……他のヤツらには言わんでおいてやるが、ルーダイには注意せえ。アイツは目ざとく賢しいからな」

「あ、ありがとうございます」

 ベルディアが礼を言い終わると、会話が途切れてしまう。沈黙に耐え切れなくなった彼女が、渡された食べ物にかぶりついた。

 何の肉かもわからないソーセージを挟んだホットドッグが、今は最高級の料理に思える。パリッとした皮とジューシーな中身は、自分の知っているものと遜色ない。

「おいしい……」

「うむ、そりゃあ良かった」

「……ログダさん。ベルさんや他の闇の民の皆さんもそうですけど、どうして、どこの誰とも知れない私に、良くしてくれるんですか?」

「さぁな。皆お前さんに下心アリで接しとるんじゃないか?」

「は、はぁ……」

 再び会話が途切れ、何か話題を探すベルディアの目に、子供連れで歩く魔族が映った。こんな場所に子供を歩かせて大丈夫なのだろうかと心配になってしまう。

 その光景に何かを感じたのか、ログダが憂いを持った横顔でベルディアをちら、と横目で見る。

「……お前さんの気配が、娘に似とったんじゃ」

「娘さんに、ですか?」

「あぁ。顔はよく見えんが、声や雰囲気もよう似とる。だからわしは、ついつい意識してしまうのかもしれんな」

「今、娘さんはどちらに?」

 ベルディアの質問を聞いて、ログダが瞑目し首を横に振った。それを見たベルディアがその意味を悟り、素早く頭を下げた。

「すみません! すみませんっ! 私、皆さんとの付き合いもまだ浅いのに、無神経なことを!」

「ははっ、構わんさ。お主は随分と優しいのじゃな。他種族の死も心から悲しむことができる……娘が生きていたら、いい友達になってくれたかもしれんな」

「ありがとう、ございます……」

 控えめに礼を言うと同時に、ログダの表情が変わった。

「娘はな、人間に殺されたんじゃ」

「えっ……」

「大戦の時、帝国の兵士共に攫われ、王都の地下牢で見つけたのじゃが、その時にはもう既に、息も絶え絶えになっていた」

「…………!」

 そこから状況と彼の心境を想起し、ベルディアが息を呑む。日の当たらない地下に放り込まれた女性がどんな目に遭うかなど、想像に難くない。

「別に、お前さんが人間だからどうこうしよう、などとバカなことは思わん。ただ、覚えておいてくれ。

 ――わしらがこれから相手にするのは、そういう人間達だ、ということをな」

「……っ!」

 何も応えられなかった。自分の故郷にも悪人はいたが、この世界ではより身近に悪意や暴力があるのだと、思い知らされる。

 まだ半信半疑だが、ログダが嘘をついているとは思えないし、様々な種族がいる環境では、何が起こってもおかしくないと理解した。

「さて! 無駄話はここまでじゃ! わしらもそろそろ集合場所に向かうぞ!」

「はっ、はい!」

「がーっはっはっはっはっはぁぁ――!!」

 ログダは何事もなかったかのようにのっしのっしと前を歩き、豪快に笑った。その赤い肌の大きな背中が、今は頼もしくも、どこか悲しげに見えた。



「離して下さい! ……離せって、言ってるでしょ!」

 ヒュンッ! と矢のように鋭い手刀が、ルーダイの頬を掠める。

 気が付けば人気のない路地裏の広間まで連れて来られ、少女はもう苛立ちが頂点に達していたのだ。待ち合わせ場所からも随分と離れてしまった。

「おやおや、これは大歓迎だ」

 思わず手を離してしまったルーダイの隙を逃さず、少女が跳躍し距離を取る。向き合った少女が彼を睨みつけて、腰元のレイピアに手を掛ける。

「私はね、アンタみたいに調子づいて、相手を何でも思い通りにさせられると思ってる男が、大っ嫌いなのっ!!」

「ククッ……それはよく言われるな」

「本性を現したわね。あなた達魔族はみんなそう。甘い顔して近づいて、甘い汁を吸って捨てていく……」

「私は魔族の中でも特に聡明と言われるダークエルフなんだが?」

「それが何よ。魔族なんてみんな同じじゃない……あの時だって……!」

「ハハハハハッ……! 美しい! その生々しい怒り、憎しみ……私好みだッ! 我が名はルーダイ! その憎しみ、刈り取りたくなったぞッ!!」

 後手に構えた右手に、闇の魔力が集まっていく。魔力は長槍を象り、実体化して少女に突きつけられる。

「趣味が悪いわね。とても聡明とは思えないわ……いいわ。丁度修業相手を探していたところだったのよ……エルシャ、いざ尋常にッ!」

 エルシャと名乗った金髪の少女が、強く踏み込んでルーダイに向かって突きを放つ。一見、届かない距離を突いているように見えるが、ルーダイは咄嗟に槍を横に構えた。

 瞬間、風を切る音と同時に、構えた槍にいくつもの傷が付く。エルシャが放ったのは、レイピアの突きで周囲の空気も刃にして飛ばす技だったのである。

「やるな……ならば」

 穂先を下向きに構え、地面に刃を突き立てるルーダイ。石床にヒビが入り、炎の衝撃波がエルシャに殺到する。

「っ!? だったら!」

 左側に跳躍し、すんでのところで炎を避けるエルシャ。だがその背後には、既に金髪のダークエルフが立っていた。彼は槍を捨てて左手で彼女の首筋に手刀を放つ。

「がっ!?」

「動きが予測しやすいですよ……ふふ。まだまだですね……」

「ア、アンタ……は……」

 意識を失って倒れそうになるエルシャを、ルーダイが片手で支えて、両腕で抱き上げる。

「それでは今度こそお付き合い頂きましょう……なに、悪い思いはさせませんよ……」

 ルーダイが何か呪文を唱えると、抉れた石床や焼けた壁が全て元通りになり、戦いの痕跡が消えた。そのまま彼は人間の少女を抱えて、表通りに出る。

「それでは今度こそ……付き合って頂きますよ。ふふっ……」



「ルーダイさーん! どこですかー!? 他の男連れてっちゃいますよー?」

「俺を連れてってくれぇぇぇ!! ギャフッ!?」

「ほら……わたし、こんなにエッチな体だから……色んな人に言い寄られちゃうんです」

 ルーダイがエルシャの尻を追いかけてる一方、それを知らずに歩いていたベルははぐれてしまう。おろおろとあちこち見回して金髪に浅黒い肌を探すも、見つからない。

 大声で人探しをするものだから、周りに男も寄ってきて、ベルの胸を見ては声をかけてくるのでもう始末におえない。いい加減辟易してきたところで、手を掴まれる。

「ひゃっ!?」

 強い力で引き寄せられ、走らされる。引き剥がそうとするも、一介の魔族とは思えない強い力で握られているものだから、それもできない。

「くっ……一体、何なんですか!?」

 相手の顔を見ようとするも、焦りすぎただろうか。真っ白なローブを羽織った後ろ姿と、自分を掴む白手袋しか視認できない。

「離して下さい! どこの誰かは知りませんが、わたしはあなたのような暴漢には……」

「酷いな……オレの顔も忘れちまったのか?」

「ッ!?」

 いつの間にか路地裏の広場まで連れられて、手を離して壁に寄せられるベル。背後には壁、眼前には忘れるはずもない男の顔が現れた。

 白いローブの裏から見えたのは、短い亜麻色の髪と、自分と同じ金色の鋭い眼光。それは間違いなく、ベルが一番知っている男である。

「お兄、ちゃん……?」

「覚えててくれたのか。えらいな……」

「こんなところまで、なにしに、きたんですか?」

「何しに、だと? 妹が家出して、何もせずじっとしている兄がいるかよ……」

 そう言ってベルの兄――カウルは――壁に寄せた彼女を抱き寄せ、震え声で呟いた。

「なぁ……もう、いいだろ。お前は俺の大事な、たった一人の家族なんだ。だからさ……魔王の手先なんてやめて、戻ってきてくれ」

「ッ……何を……!」

 ベルの頭の奥にズキン、と小さな痛みが走った。

「いい加減に、目を覚ましてくれよ! お前は、こんなんじゃなかったろ! 村のみんなにも好かれててもっと優しくて、無垢で……」

「やだ……やめて……! 違います! わたしは、わたしは魔王軍幹部、サキュバス・ベル……!!」

 自分が自分で、なくなってしまいそう。

 自分にはアリアという大事な人がいるのに、まだ兄のことも大事に思っているのだろうか。

「無垢で――ちんちくりんだったじゃねぇか! そんな胸になったって、俺は全っっ然興奮しねぇからな!! エルシャの方がまだ興奮できるわ!!」

「………………は?」

 むにぃ、と自慢の大きな胸を鷲掴みにしながら、兄はそれを否定した。その瞬間、頭の痛みも違和感も綺麗さっぱりなくなった。代わりに怒りや嫉妬といった負の感情が湧いてくる。

 しかしそれを通り越して、肝心なところで外してしまう兄に呆れのような気持ちすらおぼえた。

「本当、わかってませんね……お兄さまは」

「え? ぶほぁっ!?」

「どうしてわざわざ!」

 右拳で兄の頬を殴ってふっ飛ばし、胸を揉む手を強引に引き剥がす。

「このわたしが!」

 両手の平から闇の球体を発生させて、力任せに投げつける。

「力もない!」

 追い打ちをかけるべく、爆炎の上がる兄のもとへ翼を使って飛ぶ。

「色気もない!」

 爪を伸ばして、兄を斬ろうとするが剣に阻まれる。

「ちんちくりんにっ!」

 斬り結ぶ。

「戻らないといけないんですかぁっ!!」

「がはっ!?」

 爪がカウルの体に、ブスリと刺さった手応えがあった。太股に刺さっていたその爪を引っ込めて、人差し指についた血をピッと払う。

「それで、私が何の得をするっていうんですか? あなたの思い通りにした結果、わたしがどんな気持ちになるか、ちゃんと考えたんですか?」

「だ、だがあの魔族は、俺達の村を……」

「人間だって、たくさんの魔族を殺しました。たくさんの犠牲を払って、前の魔王さんを倒しました……それとどう違うんですか?」

「でも、村の人達は、みんな優しかったのに……殺される意味も必要もなかった!」

「魔族のみなさんだって、みんなやさしいですよ。そりゃあ、あそこまで殺してしまったのは申し訳ないですが……あの時お姉さまがきてくれたから、わたしは生まれ変われたんです」

 ベルの言葉を聞いた途端、カウルが血相を変えて剣を握り直す。思い切り走って、ベルに斬りかかる。

「本気で言ってんのかテメェ!!」

「あぐっ!?」

 辛うじて両手の五指を硬化した爪で防ぐが、それでもやや押され気味だ。

「それはまるで、お前のその力が犠牲の上に成り立っているみたいな言い方じゃねぇか……」

「何ですかそれ……私がこうなったことと村の人たちの犠牲に、どんな関係があるって言うんですか……うああぁ!?」

 カウルが更に力を込めたのか、肩の辺りまで刃が届きそうになる。ベルの表情にも、次第に焦りが見え隠れしてきた。

「あるさ! あいつさえ来なければ、俺達はこれまで通り穏やかに暮らすことができた! あの女さえ来なければなぁぁぁ!!」

 剣を支えている爪からビシリ、と嫌な音がしたので、ベルはなりふり構っていられず、口元に魔力を集中させる。

「アガァァァ!!」

 ナハトの真似をして、魔法を擬似的にブレスのような放射状にして発射した。驚愕に目を見開いたカウルが、素早く後退し距離を取る。

「なっ!? お前本格的に化物になってんな……」

「いたた……これ、再生に三日はかかりますね。まったく、ひどいですよ肉親相手に……」

 爪を収納して指に戻すと、そこにいくつか切り傷ができ始め、黒い長手袋に血が滲む。

「決めたんだよ。例えお前が相手だろうと、魔族には容赦しないってな……」

「そうですか……だったらわたしも、容赦しませ……ん……っ!?」

 言いかけたところでベルがガクン、と膝から崩れ落ちる。

(力が、出ない……! いつの間に、こんな……)

「踏んじまったな……そいつを」

「あっ!?」

 足元には、魔法陣が設置されていた。普通の魔術師なら普通気付くのだが、ベルがサキュバスになった際に付与されたのは主に肉体・知恵・魅力・魔力・魔法の五つ。

 しかしながらその知恵の中には魔法の技術そのものは含まれていない。その上僅かな練習以外には経験もない。つまりこういったものの探知に関しては素人同然だ。

「ま、まさか、魔力吸われちゃう!? わたし、元に戻っちゃう!?」

「いやお前を戻す方法なんてあったらすぐ使ってたけど……あ、いやその通りだ! かかったなベル! やっぱりお前は相変わらずドジだな!」

「なーんだ……ただの拘束系なんですね。えいっ」

 ベルが涼しい顔で地面に手を当てた瞬間、魔法陣が消えてカウルの顔からも得意気な笑顔が消える。

「えぇ……」

(ですが魔力が今にも底を突きそうです……このままでは、元に戻ろうが戻るまいが赤子同然です……何か手は……)

「まあいい。とりあえずお前をふん縛ってエルシャと一緒に王国に突き出して、意地でも元に戻してやる……待ってろよ」

 そう言ったカウルの顔は優しく、かつての暖かみを思い出させる笑みを浮かべていた。

「お兄、ちゃん……」

 昔を思い出して固まってしまうベル。しかし次の瞬間にはハッとなってかぶりを振る。

(いけません! お姉さまの願いを叶えるまで、わたしは終わるわけにはいかないんですっ! でも……でも…………!)

「ふえぇ……」

「ど、どうしたベルッ!? どこか痛いのか……ってそれは俺のせいか」

「ごめんなさい……! わたし、わたし……!」

 ぽろぽろと涙をこぼして、血が滲んだ手で顔を覆うベル。その様子にカウルは焦り、困惑する。敵意が消えたことに違和感を持ちつつも、剣を鞘に納めて様子を見ることにした。

「たくさんの、ひとを……きずつけて……しまいました! でも、ちがうんです! わたしは、ただ、うらやましかったんです……!!」

「羨ましかった……?」

「お兄ちゃんの隣に立てるエルシャさんが! お兄ちゃんと一緒に戦えるエルシャさんの力が! お兄ちゃんをたまにドキッとさせるエルシャさんの体がっ!!」

「ベル、お前……」

 まくし立てて、腹の中にあるもの全てをぶちまけるかのように叫ぶベルの姿を見て、カウルが申し訳なさそうに項垂れる。妹の気持ちを汲んでやれなかった自分が情けなくて、合わせる顔がないと思っているのだ。

「全部手に入れたって、いい気になってました……でも、でもそれは、いけないことだったんですね……ごめんなさい」

「…………いいさ。兄ちゃんだってガキの頃、村に駐留してきた女騎士に憧れて、早く大人の騎士になりてぇなって思ったこと、一度や二度じゃない。気持ちは理解してるつもりだ」

 ゆっくりと歩み寄って、縮こまっている妹の姿を改めて眺めてみる。胸や尻や髪も生意気にも自分好みに成長しているが、背はエルシャよりも低い。会話して知識も成熟していることがわかったが、中身は変わっていない。

「やっぱり、ベルはベルだ……お前には兄ちゃんがいないとダメなんだな」

「お兄ちゃん……でも……」

 カウルが手を差し出すと、ベルが上目遣いで躊躇いがちに彼を見てくる。迷っているのだろうかと思い、カウルがすうっと息を吸って妹を元気付ける為に声を上げた。

「いいから来い! 来なきゃお前がいない場所で結婚式開いちゃうからな! さぁ、手を取るんだ!!」

「ありがとうっ!」

 次の瞬間、カウルの顔全体にむにゅり、と柔らかい塊が乗っかり、彼はそのまま仰向けに倒れてしまう。丁度、胸に飛び込んできたベルが覆い被さる形で。

「あははははっ! お兄ちゃん、大好き~! おっぱい好きなんでしょ~? ウリウリウリ~!」

 兄の顔にあらゆる感触がいくように、乗っかった胸を手で動かすベル。そんなことをさせられている兄は、興奮で顔が熱くなっているのを自覚してしまった。

「むごっ! むごごご~っ!」

 焦るな。落ち着け。相手は魔王に風船みたいに膨らまされた妹なんだ。妹に興奮するなんて、どうかしている。

 頭ではそうわかっていても、男としての体は正直なもので、股間の温度が上昇していくのはどうにも抑えきれなかった。

「やっぱり! 口ではあれこれ言ってても、体は正直なんですねぇ~……あ~あ、エルシャさんに言っちゃおうかなぁ?」

「お前! 正気に戻ったんじゃないのか!?」

「正気? わたしは正気ですよ? あ~この体最高ですぅ! 魔族最強、淫魔万歳っ! むしろお兄さまが魔族になっちゃえばいいのにっ!」

「なんてヤツだ……兄の良心を利用するなんて…………」

「それじゃお兄ちゃん、頂きま~すっ!!」

「なに!? や、やめろ! 妹がそんなことしちゃいけない! あっでも……巨乳サキュバスにされるのは……違う! ダメだけど……ダメだぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!!」



「アイツ、何やってるゲラか?」

 ダジが見つめる先には、男女組の客が喫茶店で向かい合うテーブルに座っていた。傍から見ればカップルに見えるのだろうが、彼から見ればちゃんちゃらおかしいものだ。

 自分の所属する部隊の隊長のダークエルフが笑顔で、短い金髪の女性が物凄く嫌そうな顔で向かい合っているのだから。大方また頭のおかしい方法でナンパでもしたのだろう、とダジは結論づけた。

「……いい加減にしてほしいゲラね」

「ゲラちゃーん、そろそろいくッスよー」

「ゲラちゃんはやめるゲラ!」

 途中で合流したファダリに呼ばれ、ダジはその場を後にする。しかし件の喫茶店の中では、今もなおルーダイのナンパが続いていた。

「はっはっは、お嬢さんはエルシャというのですか。いいお名前ですね」

「いいから、とっとと外しなさいよこれ!」

 エルシャの首には、刺々しい首輪が付いている。ガチャガチャと金属音のするそれはどれだけ力を入れても外れる気配がない。

「あと三分で綺麗さっぱりなくなるので、我慢してください」

「できっ! …………コホン。できないわよ。私は今すぐ待ち合わせ場所に戻らないといけないんだから……」

 周りが喫茶店ということを思い出して、“できるかー!!”と叫ぶのを思いとどまるエルシャ。彼女は一つ咳払いをして、静かに自分の意志を伝える。

「ほほう。そうですか。ではジャンケンで私に勝ったら、外してあげますよ?」

 ルーダイが提案すると、エルシャはニヤリと勝ち気な笑みを浮かべて袖をまくる。

「へえー、いいの? そんな条件、すぐ突破しちゃうわよ」

「構いません。このまま三分待つか、ジャンケンか……選んで下さい」

「無論、勝負を受けるわ。その前に、場所を変えましょう」

 そう言って彼女が席を立とうとした途端、首輪がガチャガチャと鎖を鳴らす。

「あいだだだだだだだ!」

「ですから、その首輪は私から一定以上離れられないんですよ」

「アンタももも、店を、でで出なさいギギギギ!」

 首輪のせいで変な口調になってしまったが、ルーダイもハハハと笑いながら彼女についていく。彼が店を出る直前、カウンターにむかってピンッと金貨を一枚指で弾いて渡した。

 大通りに出て、脇の歩道でエルシャが息を切らせながらルーダイを睨む。

「ハァ……ハァ……さあ、構えなさ……ハァ……なさい! ――じゃーんけーん……ポンッ!」

「はっはっは」

「も、もう一回! ポン!」

「はい」

「ポンンッ!」

「それ」

「ポォォォォン!」

「どうぞ」

「ポンヌァ!」

「ははは」

「何なのよアンタはぁ! ポン!」




 五分後。

「ハァ……ハァ……ハァ……ポン……」

「よいしょ」

「ポン……」

「おっといけない。待ち合わせに遅れてしまいますね……楽しかったですよエルシャさん。ではまた」

「待ちなさいよ! アンタ、逃げる気!?」

「そうは言っても、お互い目的は達成したじゃありませんか。あなたの首輪も、とうに外れている」

「んなことどうでもいいのよ! ほら、ジャンケンしなさいよジャンケン!!」

「ですから……」

 エルシャの予想外の負けず嫌いっぷりに、さしものルーダイもやや引き気味だ。

「勝つまでやってやるから、手ェ抜くんじゃないわよ!」

「なんと負けず嫌いな……」

 何事かと周囲に人が集まり、何試合目で女の方が勝つかと賭けごとを始める者も出てくる。

 結局このジャンケン勝負がエルシャの勝利で終わったのは、十分以上後のことだった。

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