第06話 帰還と来訪

  朧げな意識が徐々に鮮明になってきて、目を開ければ天井も空もそこにはなくて。

 俺はそれが高級なベッドの天蓋だと気付くのに結構時間がかかってしまった。

 これには見覚えがある。確か姫を守るよう頼まれた時に、一度お世話になったんだよな。

「……もしかして、リエか?」

 呟く自分の声はかすれていて、なんだかえらく頼りない響きだった。一体どれだけの間眠っていたのだろう。

 気怠さをこらえながらゆっくりと身を起こすと、太腿の辺りに僅かな重みを感じた。重みの正体を見て、俺は思わず口元が緩んでしまった。

 ベッドに一人の女性が寄りかかっていたのだ。後ろで結った金髪が毛布の上に流れて、なんだかいつもより色っぽい。

 服装はいつもの白い甲冑だったが、不思議と見た目程の重みは感じない。いや、意識したら段々重くなってきたような……。

「ん、んんぅ……」

「起きたか?」

「あぁ……起き……っ!?」

 とろんとした眼が、俺を見るなり丸くなって、徐々に潤んでいく。栓が抜けたような感情の波に抗えないのか、彼女は上体を起こした俺を抱き寄せてくる。

 普段の彼女からは考えられないような突然の行為に、思わず胸が高鳴った。もし彼女の鎧がイレーネのように露出度が高かったら危なかった。

 ベッドの天蓋が作るのは二人だけの空間。意識しないようにしても、俺を見つめてくる潤んだ碧い瞳が俺の胸を叩くのを止めない。

「レスクっ!」

「おわっ!? な、なんだよ!」

「ほ、本当に……本当に、レスクなのか……?」

「………………え、えぇとだな……」

「報せを聞いた時は、本当に……本当に心配したよ……その上、帰ってきても、何日も起きなかった……!」

 しおらしく頭を垂れ、涙を拭う彼女の姿を見る俺。かける言葉が見当たらず、ただただ心配をかけたことの申し訳無さが胸に募る。

 まったく女の子っていうのは、何でこんなにも複雑で繊細で……可愛いんだろう。

 そういえば俺の周りって、結構綺麗な子が多いるんだよな。勇者だから、ってのはあるんだろうけど……なんだか罪深いような気がする。

 女の子……イレーネ、リエンデ姫ことリエ、あと今目の前にいる姫様の騎士エルスロットことエルス、あと諸々……何か忘れているような…………

「はっ!? 大変だエルス!」

「うわっ!? どうしたレスク!?」

 俺が重大な事実を思い出して大声を出すと、エルスは驚いて俺から後退ってしまった。

「すまん……感極まってる所悪いが、リエと……いるなら他の仲間も呼んできてくれ。話したいことがある」

「わ、私は感極まってなど…………いや、すまない。わかった。今すぐ姫様とゼズの二人を呼んでこよう」

「ああ、助かる。結構シリアスな話だから、心の準備をするように言っておいてくれ」

 立ち上がりながら頷くエルスが部屋を出たのを確認すると、体が自然と脱力感に襲われベッドの柵により掛かる。

 溜め息と共に様々な光景が頭の中を巡っては消え巡っては消え、最後に浮かび上がったのは黒い女騎士の姿だった。

『少しでも方法があるならって……レスクは言ってた……』

 違う。そうは言ったが、それで他の誰かが不幸になるなら、俺はそんな方法を選ばなかった。

『わたしは、アリア……もうそんな、名前、ではない』

『その名で呼ぶなっ!』

 お前は、自分の名前が好きだと言っていたはずだ。まさかあれは嘘だったのか?

 虚ろな瞳の色が、俺の知っているアドネと同じ赤色だったことが、なぜか無性に悲しい。

 彼女が“魔王の魔力に侵されてしまったという事実を改めて認識すると、強烈な喪失感に襲われた。まるで胸に穴が空いたような気分だ。

 俺がまだ動けていれば、助けられたかもしれない。アドネを力づくでも止められたかもしれない。魔王は満身創痍だったのだから。

 それでも、アドネの行動で命が救われたのも事実だ。彼女に今すぐありがとうって言ってやりたい。俺は生きていることを知らせてやりたい。

「なんて……今のアイツに言って通じるわけないよな……ははっ」

 わざとらしく溜め息を吐いたのが合図になったように、部屋に仲間達が入ってきた。

 ばたばたした足音からして、相当慌てて来たのか。俺もいい仲間を持ったなぁ……なんて代表した言い方も今はできないか。

 魔王がいなくなったし、俺ももう勇者じゃない。魔王と滅び合う血の運命も、この世代で消えたのだから。 ……彼女のお陰でな。

「おぅ、久しぶりだな勇者サンよ」

「レ、レスク……!」

「二人を連れて来たよ、レスク」

 思考に耽っていた意識を現実に引き戻したのは、懐かしい男の声だった。常に疲れ気味な声なのは、今でも変わっていないみたいだ。

 リエの透き通るような声も、さっきまで聴いていたエルスの凛とした声も、何もかもが懐かしい。ほんの数ヶ月前の話なのに。

 そう思っていたら、懐かしいモーションが目の前で繰り広げられ、気付けば俺はふわりとした感触に包まれていた。

「レスクぅぅ――――! レスクですわっ! レスクが、帰ってきましたわーっ!」

「おわぁっ!? リエ、ちょっ……相変わらず積極的だなお前はっ……」

「んん~……この匂いにこの癖のあるリアクション、正しく貴方ですねっ!」

 華のような香りに包まれ動揺する俺を、彼女は面白そうな顔で見ていた。顔に息がかかる距離にいる美少女に、俺はまたドキドキしてしまう、

 慌てる俺を見て楽しむリエの肩を、その護衛騎士であるエルスが困った顔で掴む。ゼズは我関せず、といった態度で腕を組んでいた。

「姫様……レスク殿は今起きたばかりである故、あまりそのような……」

「あらあら、嫉妬しているのかしらエルちゃん?」

「あのですね姫様、私は姫様の身を案じているのですよ。そのように茶化されては困ります。それとエルちゃんはやめて下さい」

「新しい返しね。そんな真面目に言われたら何も言い返せませんわ」

 そこまでしてようやくリエが俺から離れた。少し動揺したが、いつも通りのやり取りを見て、二人が変わってないことに安心した。

 二人との出会いは、秘密裏に移動していたリエが負傷したエルスの代わりに、偶然その場にいた俺達に護衛を頼んだのがきっかけだ。

 それからは幾度も仲間として一緒に戦った。魔王城での戦いには、国に大挙してやってきた魔王軍に応戦することになって参加できなかったが。

 戦いが終わって平穏が訪れた今、二人は事後処理に追われて疲れたりはしていないだろうか。ゼズの怪我はもう治ったのだろうか。

「そんじゃレスク、魔王城で何があったか教えちゃあくれねェか?」

「……そ、そうだったな。それじゃあ、話すよ。落ち着いて聞いてくれ……」

 ゼズの質問でハッとなる。その話の為にわざわざ三人を呼んだんだ。俺はなるべくありのまま包み隠さず、俺とアドネが魔王城で体験した出来事を三人に話した。

 イレーネとグリーズ、ニンジャと別れたことを。その後の戦いで魔王は確かに消滅したことを。そして、俺の血にかけられた呪いのせいでアドネに起こった事を。

 そして俺は長い銀髪と赤い瞳、黒い鎧を着たアリアと名乗る女性を見なかったかと、三人に質問した。だが良い答えは得られなかった。

 だがゼズだけは何かを思い出したように頭に手を当て、無精髭を蓄えた口を開く。

「そういや、つい最近ソロネモの街でイレーネが魔剣士に負けたとか言ってたな」

「何……あのイレーネがか!? じゃあその魔剣士ってのは……」

「かもな。もしそうなら、元仲間だから癖が見抜かれてるとか、そもそも魔王の力を持つ相手に一対一じゃ勝てなかったか……」

 俺の言葉に、ゼズがうんうんと頷きながら魔剣士がアリアであるという説を強める言葉を付け加える。

 同意するようにエルスが身を乗り出して、真剣な眼差しを向けてきた。だから何でこう、顔が近いんだよ……。

「それは考えられるな。まず、魔剣士という存在自体が稀有な上、場所と時期を考えても合致する」

「だろ? 俺の情報のお陰で一気に情報が進展したなァ」

「でもそれじゃあ、今あいつはどこにいるんだ? そもそも“アリア”の目的は何なんだ……わからないことが多すぎる」

「ぐぬぬ……!」

 自慢気に言った手前悪いが、ゼズの情報だけでは今一つ行動を開始しにくい。そもそも、その魔剣士がアドネだと確定したわけでもない。

 憶測だけで動くわけにもいかないので、とりあえず俺は体を鍛えることにした。

 借りるのは以前も使わせて頂いたこの王城地下の修練場。一週間以上ぐっすり眠って鈍った体を動かして、気分転換するのだ。

 何故いきなりそうなるんだ、この脳筋め。などと罵られようと、体が運動を求めているのだから仕方がない。

「君達! 今日は勇者様が直々に相手をしてくれるぞ!」

「おぉ、ご顕在でしたか! 流石勇者様!」

「また私達のお相手をして頂けるなんて……光栄です!」

 エルスがまた勝手に勇者の名で兵を盛り上げている。士気を上げることにはやぶさかではないが、変な使い方してないだろうな。

 だがまあ、これぐらい気合の入ってりゃ……相手にとって不足なしってもんだ。エルスから稽古用の木剣を手渡されると胸が高鳴った。

 血筋のせいか剣を扱うことは昔から得意で、俺自身も剣技を磨いて強くなっていくことに充実感を感じていた。勇者というのはまさに天職だったのだ。

 その血筋のせいでアドネがあんな事になってしまった。なんて風に悩んでいては何も進まない。まずはカンを取り戻すところから始めよう。

「それでは勇者様、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い致します!」

「そういう堅苦しいのはいいって……お前達、実戦だと思って全員まとめてかかってこい。剣を離したら脱落だぞ!」

「はっ!」

 返事なのか気合なのかわからない掛け声とともに、模擬戦は始まった。俺は全員の剣を一太刀一太刀丁寧に受けながらアドバイスをしていく。

 腰が入ってないとか、構えがなってないとか、以前はあれこれ言っていたが今日はそうならなかった。兵士達の練度は確実に上がっている。

 そういえばこの兵士達は、あの魔王軍との戦争に参加したはずだ。なのに誰一人として欠けていない。それだけの力を身に付けたということか。

「私達も……!」

「以前と同じではありませんよっ!」

「おっと! なるほど、確かにこの連携は一朝一夕じゃあ身に付かない……!」

 “剣から手を離したら脱落”というルールの中にありながら、未だに誰一人として剣を落としていない。もう少しキツ目にいくか。

 戦場では臨機応変な戦い方が求められるのだ! ……なーんてな。俺は疾さだけに頼った単調な攻めを止め、二段三段と続く連続斬りに手を変える。

 突然の変化に対応できなかった兵士達はどんどん剣を弾き落とされ、十人弱いた兵士は残り三人となった。屈強な男が二人、細身の女が一人。

 なるほど、男の方は……以前にも注目していたが、やはり手強い。魔王軍相手に全員無事恐らくこの二人の存在あってのことだろう。

 岩石兄弟こと『ウランス』と『カイラス』の二人。そしてこの女剣士は……見覚えはあるが、名前がわからない。

「行きますぞ勇者様……我ら兄弟の剣は、例えそれが木剣であろうとも岩石の如き重みを持つ!」

「これぞ、双竜岩石剣!」

 仰々しい名前を叫び、二人が対になる構えで走ってくる。剣と剣で作ったバツ字に俺が挟まるような構えだ。

 確かに隙がない。岩石に挟まれたような威圧感だ。だがそれ故に遅い。並みの戦士なら捉えられるだろうが、俺からすれば簡単に避けられる。

 だが右に跳躍して避けた先に、女剣士がいた。隙の出る上段の構えから、既に斬りかかる動作に移っている……『双竜岩石剣』は囮だったのか。

「勇者様、お覚悟ッ!」

「うおっ……!」

 重い一撃を咄嗟に受ける動作になり、少し焦った。この状態から切り返すのは中々難しい。そこに岩石剣が襲いかかるものだから恐ろしい。

 だがそう簡単にはやらせない。俺が木剣を滑らせると、力み過ぎた女剣士の剣が強かに床に打ち付けられる。単純な“受け流し”だ。

 そして『岩石剣』を避け、二人の剣を弾き落とした。こう言うとさらっとやってのけたように思えるが、実は結構ギリギリなやり取りだった。

 三人とも剣を落としたため、模擬戦はここで終わりとなる。エルスがパンパンと手を叩くのを合図に、張り詰めた空気が弛緩する。

「我ら兄弟……まだまだ未熟ですな」

「お強い……流石勇者様」

「ですが今回は五分持ちこたえましたぞ!」

 各々がにこやかに感想を言い合い、修練場は和気藹々とした空気に包まれる。その隅の方でさっきの女剣士が防具を外しているのが目に入った。

 兜を取ると後ろで結った長い亜麻色の髪が広がり、思わず目を奪われた。顔立ちも凛々しいエルスとは違う親しみやすい綺麗さがある。

 言うなれば花を配る町娘のような柔らかい雰囲気だ。それでいて戦いの時は勇ましいものだから、女性とは不思議なものだ。

「そこの君、名前は?」

「………………」

「むぅ……」

 俺が女剣士に名前を訊くと、本人は「誰? 誰?」と言った風に辺りを見回している。結構抜けた所があるのか?

 そしてエルスの顔が険しいものに変わった。別に勇者の名前にかこつけてナンパしてるわけじゃないから、そんな目で見るな。

 だがそう見られても仕方ないという自覚はある。あるが興味という欲求には抗えないので、俺は女剣士の顔を覗き込んだ。

「君だよ」

「うわっ……勇者様!? あ、あわわわわ……」

「キミか……以前とは比べ物にならないぐらい強くなったな。剣技に磨きがかかって、個性も出てきている」

「じ、自分は……ミーシュと申します! 歳は十七、生まれはヘルモンの町で、昔から剣士になるのが夢でした!」

「…………気合の入った自己紹介、ありがとう。思い出したよミーシュ」

 そこまで言えとは言っていないのだが、全体的に力み過ぎる人なのかもしれない。

 悪いことじゃないが、その過剰なまでの力みが剣技に影響を及ぼしていることは確かだろう。さっきの模擬戦でもそれを感じた。

 さっきみたいな状況では、普段避けられやすいが受け流されにくい突きをするのもアリだがどちらにもリスクはある。

 相手の動きの癖や傾向を見極めながら攻撃を選んでいくのも大切だ。なんて自分流の講釈を垂れると、周りから感嘆の息が聞こえてきた。ちょっと恥ずかしい。

「あ、ありがとうございます、勇者様!」

「彼女は両親の反対を押し切ってまで士官学校に通ったそうだからな。筋金入りだ」

「そして我が隊では数少ない女性でありますから、癒やしであります!」

 エルスに付け加えるように兵士達が弾んだ声で話す。確かにこんな可愛い子が男所帯にいたら、飢えた狼達が群がってきそうだ。

 ……実際の所大丈夫なのだろうか。まあ兵士は皆人が良さそうだし、ミーシュもこんな性格だし、大丈夫なのだろう。

 俺が緩みきった空気の修練場を出ようとすると、背後から「待て」と俺を呼ぶ声。

「……エルス」

「起き抜けにも拘らず、以前と遜色ない研ぎ澄まされた剣技……見事だよ」

「うずうずして堪え切れず、辛抱たまらず我慢できなくなったか?」

「それは全部同じ意味ではないか」

 最早言葉など何の意味も持たない。こうして剣を合わせて切磋琢磨するのを、以前は戦友として互いに楽しみにしていた。

 エルスと剣を合わせるのは久々なので、内心結構ワクワクしている。多分相手も同じ気持ちだ。この場に好戦的なイレーネがいたら、恐らく乱入されるだろう。

 互いに剣を構え、見詰め合う。エルスはニヤリと笑っている。恐らく俺も。実戦なら僅かな油断で命を奪われる程の伯仲した実力が、そうさせる。

 俺達戦士は、敵であれ仲間であれ、剣で心を通わせることができるはずだ。 ――額の汗が床に落ちると共に、戦いの口火は切られた。



  首都『アルナ・マグス』。ここに来てまず目に入ったのは、煩わしいまでの人混みであった。

 人間嫌いを通り越して人間を滅ぼすと言って憚らない彼女からして、この人混みは不愉快でしかない。

 その上“魔王の魔力”を探しに来たのだから、ここまで人が多いと探す手間も多く、煩わしさは増す一方だ。

「どこに行っても人、人、人……これでは誰が魔力を持っているかわからんな」

「賑やかでいいところですねぇ~! 今度こそ可愛い服を探しましょう!」

「今の我は人間用の服を着れん。悪いが後にしてもらえぬか」

「はぁ……そ、それじゃあお食事に」

「魔族にはそれ程重要なことじゃない」

「あ、あぅ……」

 女三人寄れば姦しいという言葉があるが、あれは嘘じゃないかとオルバは疑い始めていた。

 基本的にベルの意見が他二名に否定される会話が先程から続いており、その谷間にいるオルバも気が気でない状態である。

 会話に混ざろうにも気の強い女性二人相手ではオウム如きでは歯が立たない。というかごく自然にベルの谷間にいることを突っ込まれてしまう。

 頭を捻る彼の頭にぴちょん、と何かが落ちる。上を向くとそれがベルから出た汗であることに気付く。

「んんっ……ありえませんぞ、上級のサキュバスとあろうものがそこまで狼狽えるなど……」

「だ、だって……わたしまだ子供だもん」

「こういう時だけ子供扱いされたいのですなベル殿……」

 魔族の特徴は早い成長と不老長寿だが、それは元人間の精神年齢には適用されないのかもしれない。

 アリアに与えられた人格や知識とは別の根本的な部分で、彼女はまだ幼いのだと思われる。

 これは自分が手取り足取り教育しながら紳士的に見守っていかねば、とやや怪しげな決意をするオルバであった。

「む? アリアよ、あの辺りから妙な気配がするが……どうだ?」

「図書館か……嫌いではないが、人気を感じないな」

 ナハトが指差す場所にあったのは、石造りの古めかしい施設であった。大きさはブリュールの風車を優に超える。

 見るからに人気の少ないそこに三人が足を踏み入れると、無数の本の列に迎え入れられた。厳かな空気の中にも、円筒状に立ち並ぶ本棚にはどこか親しみやすさがある。

 入館している者もまばらというか二、三人程度しかいない。司書らしき人物がカウンターにいるので、まずナハトが話かける。

「この図書館はなぜこれほどまでに寂れているのだ?」

「え? あぁ……首都は魔王亡き今、事後処理に追われている者が殆どなのよ。国政も整理されつつあるし」

「誠に、人間とはほんに面倒なものだな……」

「そういう貴方は獣人……いえ、リザードマンの類かしら?」

「魔物と一緒にするでないっ! 我は誇り高きむぐっ」

「図書館では静かに……ところでこの図書館は、何時頃設立されたものなんだ?」

 激情に駆られたナハトの口を塞ぎ、次はアリアが質問した。努めて冷静な口調で、相手を見極める為に。

 見れば司書は、役職とは裏腹に中々刺激的な格好をしていた。タイトなロングスカートの大胆に開いた胸元は、これから男を誘惑にしにいく娼婦のようだ。

 まるで女性の魔族が好んで着用するタイプの服だ。それをさも当然のように着こなすこの女性が、アリアは怪しくて仕方がなかった。

 プラチナブロンドの金髪をうなじの辺りで括っており、金色の瞳は何かを奥に秘めるかのようにギラついている。

 というか初対面の客相手にこのさばさばとした口調と態度が、礼儀云々以前に不自然である。この女性には、“何かある”と確信した。

「そうねぇ……あたしは長くここに務めているけど、遥か昔の大戦末期ということしか知らないわ」

「お姉様、“たいせん”ってなんですか?」

 あどけないベルの質問には司書が答えた。

 遥か昔に、この世界の創造主である神とそれに対抗する悪魔達の勢力が戦ったという、概ねありふれた神話である。

 魔族の敵である人間にしては、妙に中立的で冷静な語り口であり、オルバから感嘆の息が漏れる。

 それに気づいた司書の視線がベルの胸の谷間に刺さり、彼女は思わず胸元を手で隠した。

「い、一体なんなんですかっ……あんまりじろじろ見ないで下さい……」

「何なんですかはこっちの台詞よ。何でサキュバスが胸に魔物挟んでいるのよ」

「――――!?」

 その一言で誰かが息を呑み、三人を包む空気が変わった。それはつまり、魔族を相手に話しているという自覚がこの司書にあるということである。

 ベルがサキュバスだと見抜かれたのはなぜか。そしてそれを知っていながら平然としているのはなぜか。様々な疑問が浮かんだ。

 だが今までで浮かんだ疑問全てを納得させる答えを、この場において唯一純粋な魔族であるオルバは知っていた。

「さては貴女は……魔族ですな?」

「正解よ。フフ、貴女達の馬鹿みたいに大きな魔力、人間のそれじゃなかったもの」

「ええいっ! いい加減離さぬかアリア!」

「おっと、すまない。忘れていた」

 ずっと口を押さえられていたナハトが豪腕でアリアを振り解く。それを面白そうな目で見る司書を、ナハトは目を細めて睨む。

「……我をリザードマンなどと一緒にしたもの、鎌をかけていたのか」

「失礼ね。あたしがそんな性悪女に見えるの?」

「見える」

「あらそう……じゃあ本当の姿を見せてあげるわ」

 そう言って瞑目する司書の体が、魔族特有の黒紫の魔力光に包まれる。服の色合いが赤い装飾をあしらった黒基調のものに。

 彼女自身は耳が左右にピンと尖り、白かった肌は浅黒く染まる。結ってあった髪はそのままに、色がくすんだ金へ変わる。

 その姿は森にひっそりと暮らす温厚な種族、エルフのものと合致する。だが服装や彼女自身が漂わせる雰囲気は、まるでダークエルフのそれだ。

「なっ……」

「オルバ、お前はこの女を知っているのか?」

「……もしや貴方は、死霊使い《ネクロマンサー》ロア殿ですかな!?」

 そう言ってオルバがベルの胸からきゅぽんっ、と抜けて羽ばたいた。翼をばたつかせながら司書の露出した胸元まで飛んではたき落とされた。

 ロアと呼ばれた司書が頷き、オルバの言葉を肯定する。はたき落としたオルバを尻目に、ロアはカウンターから乗り出してアリアの眼を覗き込む。

 感じたことのないような類の視線に、アリアが後退りながらロアを睨む。ビリリと張り詰めてきた空気に、ベルは押し黙り、ナハトは腕を組み静観する。

「感じるますわ……わたくしの中の“魔王の魔力”と共鳴してるのです」

「まさか、お前は……」

「そうです魔王様。ある日私の中に渡り鳥のように突然訪れたこの感覚……私は確信しました。これは魔王様に捧げるべきものなのですね?」

「ま、待てロア……何を……」

「魔力の反応、でしょうか……なんだか、体が、熱く……」

 張り詰めた空気は一転。ロアの息が徐々に荒くなり、カウンターを乗り越えアリアに迫ってくる。じりじりと後退るアリアであったが、その内本棚に後退を防がれる。

 マントが落ちて、ダークエルフの好みそうな彼女の鎧が顕になる。見ようによっては艶やかなその姿にますます息が荒くなるロア。なぜか口調まで変わっていた。

 ここまであからさまに狼狽するアリアが新鮮なのか、ベルもナハトも傍観に徹する。オルバに至っては奇声を上げて飛び回る始末。

 ついに何かが切れたのか、ロアがアリアに覆いかぶさるような形で倒れた。押し倒した、と言えなくもない。

「魔王様……わたくし、もう……限界であります」

「早まるな……今の私なら、魔力の移動など触れるだけでできる」

「そんな野暮なこと言わないで下さいな……私の胸、触ってみて下さい。こんなにドキドキしているのですから」

 艶かしい声と共に、ロアがアリアの手を無理矢理自分の豊満な胸に持っていく。ガントレットがなければ直に触れていた。

 だがこのロアという魔族の女性、あまりにも“知りすぎている”。それだけの知識と思考力を持っている彼女は、一体何者なのか。

 気になることが山積みだが、この状況では追求するところではない。今の彼女はロアの熱烈な求愛から逃れるのに精一杯だ。

「んはァ……魔王様、このままじゃ私、変になってしまいますわ……」

「もう十分変だ。どけ……」

振り払おうにも相手は同族の女性。しかも自分の目的を知っていて近づいてくれる相手なので無碍に扱うこともできない。

それに彼女にはこのようなことはあまり経験がない。不慣れなスキンシップに顔を赤らめるアリアの姿は、この場にいる誰の目にも新鮮だ。

「どけっ…………どい、ひぁ!?」

 次第にロアの両手がアリアの鎧の隙間に潜り込み、細い指を豊かな膨らみに沈めていく。

 アリアは慣れない感触に声にならない声を上げてしまう。ロアがその反応を楽しみながら、次第に互いの顔を近づけていく。

 ロアの求愛を避けることもままならず、アリアの唇は容易に奪われてしまった。

「ぁン……ンっはぁ……クチュ……」

「ふぁぁ……プハッ! まったく、何だというのだ……」

 抵抗して抜け出すも、またすぐに奪われる。このように先程から受け手に回ってばかりのアリア。

 こんな状況がいつまでも続いていたが、いつしか彼女の目にも闘志のような光が宿っていた。

「チュルッ……はぁ、ンっ……!? んんぅ! ぷはっ……ま、魔王様……んむぅ!?」

 率直に言えば、アリアの吸い付きが強く、積極的なものに変わった。これにはロアも驚き、成すがままにされることを覚悟した。

 だがしばらくすると一転攻勢して攻めに回ったはずのアリアの体が離れ、ビクンと跳ね上がった。彼女の体に異変が起こる。

 しまっていたはずの角と翼が出てきて、三対の翼の下にもう一対、黒い突起がにゅるり、と生えてきた。

 彼女はビクビクと何かを堪えるように震えながらも、その変化を受け容れる。七、八枚目の翼が生えようとしているのだ。

 背中をくすぐる感触がゾクゾクと増大し、自分の血液が沸騰するような感覚を伴って力が増大していく。

 この作用が起こるということは、魔力交換行為はもう既に終わってる。ロアはただ楽しんでいただけである。

「くっ……」

 慌てて抜け出そうとするアリアの態度もお構いなしに、ロアはそこを動こうとしない。彼女はうっとりした表情でアリアの角を撫で、愛おしげに眺めた。

「これが魔王様の角と翼……パールのようなな光沢があって、とても綺麗です」

「素敵です、お姉様!」

「…………そろそろ退け」

 無事に四対目の翼が生え終わった時、彼女は既に果てた顔をしていた。図書館の静寂を塗りつぶすほどの愛のぶつけ合いは、アリアをそうまでさせる程のものだったのか。

 魔王により近づいた証でもある翼の増加。ベルとナハトの時にはここまで悶えはしなかったが、ロアのやり方があまりにも激しすぎた。

 翼が十ニ枚になれば先代魔王と同じ最高位になるのだが、その域まで到達するのにはこれまでの比でない程の魔力が必要になる。

 ここまで簡単に数を増やせたのは、既に持っていた半分の“魔王の魔力”があってこそのことだ。故に、これからはより効率よく集める方法を考えるべきなのだが……

 そう思ってアリアはロアと共に立ち上がり、乱れた鎧の位置を整えて魔族の司書に背を向ける。

「……はっ!?」

 恍惚としていたロアの顔色が、すうっと青くなった。何かまずい事をしてしまった、という不安に染まった顔だ。

 首を傾げながらその様子を見るベルがその肩に手を置こうとするが、その前にロアが崩れ落ちて、震えだしてしまう。

「ま、またやってしまったわ……魔王様、ごめんなさい! あたし、この姿になるとなんだか興奮しやすくなって…………美女を見ると襲っちゃうの!!」

 最早この図書館には「大声で騒がず、静かにしろ」というルールはない。それは今しがた司書自らが破ってしまった。

 おろおろと困り果てた顔になりながら、ロアが立ち上がって人間体になる。なぜか服の色はそのままだったが、問題ないだろう。

 ともすればまた崩れ落ちそう彼女だったが、その手をアリアの肩にかけてなんとか持ち堪えた。彼女はそのまま本気の表情でアリアを見詰める。

 「魔王様……こんなあたしだけど、是非あなたの旅に同行させてほしいの。何でもするから、お願い!」

 「なぜそんな話になる……大体、お前は何ができるというのだ?」

 「死霊使い《ネクロマンサー》であり研究者でもある私の知識と能力は、きっと役に立つと思うわ。本の知識だけじゃ、あたしは物足りないし、それに……」

 「……それに?」

 「もっと死体を解剖したいのよっ!!」

 苦い顔のアリアに向かって、ロアは金の瞳を今日一番にぎらつかせながら必死に呼びかける。

 自分を売り込むというよりは、既に死霊の叫びのような形相だ。だが動機が動機なだけあって、とてもじゃないが正気とは思えない。

 死霊使いとして生きるとこうなってしまうのか、それとも外界との交流の少ない研究者故の狂気か。どちらにせよ普通ではない。

 気持ちは有り難い上に稀有な能力も持っているのだが、性格上の問題がこの図書館以上に大きな壁となって立ちはだかる。

 答えに迷うアリアを庇うように、ベルが前へ出る。頭に乗せたオルバと共に、真摯な眼差しでロアに向かって叫ぶ。

「ダメです!」

「そ、そうよね……やっぱりこんなの変よね。でもあたし、他に探究心を満たす方法を知らなくて……」

「バストサイズが九十センチ以下の女性は、アリアさんに付いて行く事を許されないのです!」

「なっ!?」

 ガーン。そんな幻聴が聴こえそうな程に、ロアの表情は自身の絶望を克明に描いていた。再び崩れ落ちて、先程アリアに無理矢理触らせていた自分の胸を両手で掴む。

 立派な大きさを持っていて、自分でもきちんと手入れをしてきたはずのそれが、今はひどく頼りないものに見えてきた。

「そんな…………! あ、あと一センチ…………足りない!」

 その通り。彼女の乳房は実に豊満であるものの、三人の内最も小さいアリアのものにも届かぬ大きさなのであった。

 いや、細身の彼女ならばカップ数で三人の内の誰かを優れるのかもしれない。だが例えそうだとしても、ベルが提示した条件は絶対にクリアできない。

 彼女は今までの自分の食生活を恨んだ。そして「もしかしたら」という希望に縋って、再び測り直すことをベルに提案した。

「私の連れて行く仲間にそのような決まりはない」

「え」

「その者が信用に足る者かどうか……私が求めているのはそれだけだ。付いてきたいのならば、勝手にしろ」

 微笑みながら、アリアはロアに手を差し出した。魔王の手を掴んだ先にあるのは修羅の道。決して気軽に掴んでいい手ではない。

 だというのに彼女は、何の躊躇もなくその手を握って微笑み返したのである。ロアは声にならない声を上げながら握った手を激しく上下に振った。

 ぽかんと困惑するアリアであったが、彼女があまりにも豊かな表情をするので思わずまた笑ってしまう。

 だが、そんな爽やかなやり取りを好としない者もいた。今しがたアリアの肩に止まった黒い鳥型紳士、オルバである。

「待つのですぞアリア様! ベル殿との綿密な協議の結果決まった制度を今破られては困りまグォアアアァァァァ!?」

 もう見慣れてきたオルバの殴られる姿だったが、初めて見るロアは若干驚きを見せた。

 目をぱちくりさせる彼女と床で伸びるオウムを見ながら、アリアは呆れた様子で図書館を出た。他二名もそれに続く。

 取り残された一人と一羽は、互いに見つめ合いながら、再会の言葉を交わす。

「ロ、ロア殿……百年前から変わらず、お美しゅうございます」

「アンタも、割りと変わってないのね」

 呆れながら言うロアにも、これまでのオルバの所業には心当たりがある。後にアリア達が聞いた話だが、彼は紳士然とした変態鳥として魔界でもそこそこ有名だったのだ。

 思い出話に花を咲かせるのは後にして、二人もアリア達を追って図書館を出る。偽名を使った司書としてのロアは、もうここにはいない。

 研究者として首都の図書館に触れられる役職を辞めてもいいのかとアリアに問われたが、「全部読んだ」の一言で済まされてしまった。

 かくして、新たに加わった仲間と共に、アリアは次なる街へと発つことにした。首都のどこかで宿を取り、今夜出発する予定である。

 今回は相手が事情を隅々まで理解している味方の魔族だったので、スムーズに“魔王の魔力”を取り込めた。 ……本当にそれで終わるのだろうか。

 図書館から近場の大きな宿屋に向かいながら、アリアは胸騒ぎを感じていた。ロアから取り込んだはずの“魔王の魔力”の気配が、まだどこかにある気がして。

 そういえば今の自分達は、目立っていないだろうか。ロアはともかく、外套を脱ぎ去った自分とベルに、一番の問題になりそうなナハトとオルバ。

 歩く度に石畳をガシャガシャと鳴らす、妙に露出度の高い黒ずくめの四人組とオウム。これが目立たないわけがない。しかもここは首都だ。

 背後に特に強い視線を感じる。意図はわからないが、少なくとも友好的ではない強い気配を持った視線。周囲の好奇の目とは違う研ぎ澄まされた目が自分達を見ている。

「……三人とも、先に街を出ろ」

「え? でも……」

「私はオルバと共に行く」

 言いながら、アリアはナハトとロアの二人に目配せする。いざという時でも、この二人の武力と知力があれば対処できるだろう。

 オルバの言葉通りなら、ロアは信用に足る人物であることも間違いない。次期魔王らしい自分を裏切ることはない。

「…………この気配は」

「来るぞ」

 屋敷と屋敷の間から、一人の影が出てくる。影はこちらに近づいてきて、徐々にその全容もわかってきた。

 その者は血のように赤い鎧に身を包み、腰にニ振りの剣を下げている女性であった。鎧の肩には鳥と獅子が合わさったような生物を描いた紋章が刻まれている。

 紋章に描いてある生物はグリフォンという魔物だ。アリアは自分がこの紋章に見覚えがあることを思い出した。

 あれはこの王国の者だけが身に着ける紋章だったはずだ。つまり自分は今、厄介な事に巻き込まれかけている。仲間を行かせたのは正解だったか。

(しかし、何だこの胸騒ぎは…………あの女は、一体……)

「グッ!?」

「アリア様!?」

「…………何でもない。それより、お前は隠れていろ。遠くから様子見して、必要であれば皆に状況を伝えるんだ」

 軽く頭を押さえながら、アリアが前へ出る。歩み寄る女性へと自分から近寄っているのだ。やがて赤い鎧の剣士がアリアと向き合い、瞳により力を込めていく。

 やや釣り目の翠眼に睨まれたアリアは、しかし全く同様せずにその目を見返す。ここでこの女性と関わるのは、はっきり言って時間の無駄なのかもしれない。

 厄介事は御免だ。だがもし目の前の女性が“魔王の魔力”の所有者ならば……そんな期待を僅かに抱いていた。しかし目の前の剣士は、やや予想外なことを言う。

「あなたが魔剣士アリアですか? はいと答えれば連れて行きます。いいえと答えても連れて行きます」

 理不尽な質問と共に、王国の剣士がアリアに手を差し出した。

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