第3話 クロスワード、解散か

 夕食後、すみれは自室のベッドに横になりながら、読みかけの小説を持ったまま、ボーッとしていた。枕元にはスマホが置いてあるが、まもなく夜の十時半を越えるというのに相変わらず牧人まきとからは連絡がない。ページをめくるも、文字が頭に入ってこない。


 そんなにキツく言っちゃたかな、アタシ。でも牧人にはしっかりしてもらいたいんだよなあ。いや、それはもちろんリーダーとしてね。と思う。


 夕方スーパーマーケットで出会った美樹には心の奥まで見透かされたような気分であったが、むしろ嬉しい照れくささがあった。


「おっ、突然メロディが浮かんできた」


 すみれはガバッと上半身を起すと、ベースをスタンドから取り上げようと腕を伸ばす。


 ベースのネックをつかんだ姿勢が悪かった。胡坐あぐらをかいていた脚が布団の上をズルッとすべる。あわててベースのネックをつかみ直すが、ベッドから落ちそうな態勢になってしまっている。


「ありゃりゃっ」


 背筋に力を込めて姿勢を正そうとした時、スマホが電話着信のメロディを鳴らし始めた。


「デーッ、こ、こんな時に、いったい誰ようっ」


 足を伸ばしてスマホをひき寄せようと試みる。足先がいきなりつっぱった。


「ヒエエッ、つった! つった!」


 すみれはベッドから転がり、ドシーンとお尻からフローリングの床に落ちてしまった。

 舌を鳴らし、お尻をさすりながらスマホを持ち上げる。相手は牧人であった。

 待ち焦がれた相手だが、つった足とお尻の痛みに顔をしかめる。


「あっ、すみれ。こんばんは」


「痛たたっ、なによマッキー、いきなり電話してこないでよ。びっくりしちゃうよ」


「いきなりって。じゃあ今から電話しますって、先にメールしてからのほうが良かったのかなあ。ごめんね、いったん切ってメール打つよ」


「もういいから。なに?」


 すみれは口調とは裏腹に、大きく安堵している自分に気づいた。


「いや、ギタリストなんだけど」


「結局代替案が浮かびませんから、どうかお知恵を拝借させてくだいって言うんでしょ。

 アンタの言いそうなことは、こっちはお見通しよ」


「ありがとう。だけど、違うんだよ」


「何が、どう違うのよ」


 電話口の向こうで、牧人が何やら躊躇ちゅうちょしているような雰囲気を感じ取る。


「ええーいっ、さっさと言わんかい、マッキー」


「あの、あのギタリストなんだけど」


「うん」


「見つけちゃった」


 ぼそっとささやく牧人。すみれは声を大きくしながら訊く。


「なんだってぇ? もっと大きな声で報告せよっ」


「は、はい! えーっと、やっちゃんの替わりのギタリストを、本日獲得いたしましたっ」


 すみれは耳からスマホを離しながら、片目をつむった。


「それ、マジ? まさかエアギタリストでした、なんてオチを言わないでよ」


「いや、本当だよ。それで、来週の月曜日、午後一時からスタジオを予約するんだけど、すみれの都合はどうかなって思って」


「エーッ、本当に見つけてきたんだあ。やるじゃん、マッキー。さすがはリーダーだね。

 で、そのギタリストは何て名前で、どういう経歴なの? アタシらはオリジナルを演奏するって伝えてあるのかな」


 すみれは興味津々丸だしでたたみかける。


「えっと、名前は葉っぱに隠れる里って書いて、葉隠里はがくれざとさんってんだ。高校二年生だから、僕らとタメだよ。それにこの前のマミヤ祭を観てくれていて、クロスワードの曲は気に入ってもらってるから大丈夫」


「なんだ、アタシらと同級生なんだ。へえっ、それなら気を遣わなくてすむじゃん。

 もう、会ったの? もしかして、チョーイケメン?」


「うん、今日会ったよ。ただ」


 なぜか口ごもる牧人。


「ただ、どうしたの?」


「いや、いいよ。じゃあ来週マミヤミュージック、午後一時ね」


 何かしっくりいかない会話であったが、すみれは「りょーかい」と言いながら電話を切った。しばらくスマホの画面をながめ、肩の力を抜く。


「イケメンかどうか、返事しなかったじゃんマッキー。まあ会えばわかるけど。

 それにしても、あのマッキーが自力で探してくるなんて。少しは成長してくれているのかしら」


 すみれはニンマリと相好をくずした。


~~♡♡~~


「よーし、よし。これでリーダーとしてのメンツは保たれましたな、マッキーよ」


 牧人はスマホを枕の上に置いた。「だけど」やっぱりアルバイトの件は言えなかった。バンドに参加してもらうかわりに幽霊集めの手伝いをします、なんて。


 牧人は再び澄清すみきよ邸での出来事を思い出していた。

 霊体を採取して、いったい何を行おうというのか?


「澄清よ、そなたのわけのわからぬ映し物をさらしても、この寺子にはわからぬぞよ」


 チョウちゃんの首が回った。


蝶妙ちょうみょう殿。しかし次の化学式は、目を通す価値は充分ございますぞ。僕などはうっとりとしながら五時間はながめられますけどね」


「そなたの脳がそうできておるからじゃぞい。わらわにとっては、なにやら邪教の呪文に見えてならぬわ」


 牧人は初めて蝶妙の言葉に賛同する。


「わらわが言の葉ことのはを使おうぞ」


「蝶妙さまがおっしゃるのでしたら、お兄さま、ここはお任せになったほうが」


 亜津美あつみが助け舟を出す。


「そうかい。亜津美ちゃんがそう言うなら、蝶妙殿に解説をお願い申しあげるか」


 澄清はあっさりとバトンを渡した。抱えていたチョウちゃんをテーブルの上に乗せ、顔が牧人を向くように合わせる。いや、顔はこちらに向けてもらわなくても結構です。と牧人は思ったが、ここは逆らわないほうが得策と考え直す。


「うおっほん、それでは寺子や、よおくお聴きや」


「はい、聴かせていただきます」


 人形の口にリンクするように、澄清の口から裏返った声が出る。


「わらわは亜津美が申したように、生前は誘い師いざないしとして朝廷に仕えておったのじゃ」


 牧人はチョウちゃんからなるべく視線をはずすように顔をそむけながら、手を挙げた。

 目が合ったとたん、かれるか呪われるのではないかと危惧したからである。


「あのー、いきなりですみませんが、そのイザナイシってえのはいったいナニなんでしょうか」


「もそっと学問いたせ、寺子よ」


(って言われても、そんな言葉は教科書に出てないはずだし、受験にも関係ないもんなあ)


陰陽師おんみょうじばかりが後世に名をはせておるようじゃがの。

 よいか、誘い師とは、迷える魂を諭し、無事に霊界へ送ることを生業なりわいの中心としながら、異界からの招かざるモノ共から現世を守ることを隠密裏に行う、崇高な使命を持っておったのじゃぞ」


「普段はお坊さんで、いざって時に戦士になるってやつですか。ププッ、なんかゲームでありそうなチープな設定ですね」


 牧人は思わず笑った。


「たわけもの! 誘い師を愚弄ぐろうするのかやっ」


 チョウちゃんの首がギュギュッと伸び、口と目が大きく開く。


「ヒーッ、大変申し訳ございませーんっ」


 牧人はあわてて机の上に伏せた。


「よいか、寺子よ。誘い師とは万人にひとりもおらぬ、貴重な呪い師であったのよ。

 ゆえにわらわは肉体が消滅しようとも、こうやって磨き抜かれた魂を自由に霊界と現世を行き来させることができるのじゃ」


 横に座る亜津美は、尊敬の眼差しをチョウちゃんに送っているようだ。


「誘い師の血筋は絶えて久しい。わらわや霊界で気ままにすごす他の誘い師たちも、すでにその能力は枯渇しておるでなあ。まあこれだけ文明が発展すれば、わらわたちの出番もなくなろうぞ。

 たっぷりと時間のあるわらわはかねてより、霊体が冷却期間のために現世で浮遊しておる時に発する力場について、関心を持っておった」


 蝶妙の言葉が止まった。チョウちゃんの目がジッと牧人を見ている。ちゃんと理解しているか? と言わんばかりに。牧人は青白い顔で、コクコクと首を縦にふる。


「その力場、今では、と申すのか、それを集めれば何かの役に立つのではなかろかと考えておったのじゃ」


「何の役に立つのですか?」


 牧人の問いかけに、次は澄清が答える。


「それが僕の課題なのだよ。霊体の思念エネルギーは、ひとつだけではマッチ一本の火力にも及ばないのだが、数百数千と集めて精製すればとんでもないパワーになるやもしれんわけだ。

 それが誰にも知られることなく、すべて自然に消滅してきたわけだな。これを集めない手はないであろう。コストはほとんどかからないのだよ。しかも僕の計算によれば、本来が自然に還るエネルギーであるからして、廃棄物はゼロ」


「それって、凄いことなんじゃないですか!」 


 牧人はニュースなんて芸能関係くらいしか興味ないが、原子力発電や火力発電からもたされる負の効果についてなら知っている。もしも無公害のエネルギーが人類の手に入れば、地球の未来はとても明るくなるんじゃないだろうかと思った。


「と言っても、それはまだまだ先の話であってだね。今は霊体の発するエネルギーをとにかく集め、実験を繰り返すことなんだよ」


 澄清の言葉に、牧人はこの博士は野に埋もれた真の天才科学者ではないのだろか、と尊敬の眼差しを送った。蝶妙の声が言う。


「ただのう、このところ霊魂のみになろうとも、わらわの研ぎ澄まされた感覚が妙なる胸騒ぎに打ち震えるのじゃ」


「と、おっしゃいますと、それは恋?」


 牧人は真面目に訊いたつもりであったが、蝶妙からこっぴどく叱られる。澄清

は苦笑した。蝶妙は続ける。


「わらわの純粋な乙女心をもてあそぶではないわ」


「エッ、蝶妙さんって、女子だったんですか?」


「正真正銘の、乙女じゃ」


 へーっ、そうだったんですか。と納得する牧人に、亜津美が横から小声でささやく。


「と思ってらっしゃるようですが、実は男性であったとお兄さまが古い文献でお調べになっておられますのよ」


「ゲッ、じゃあ、今でいうオカマ?」


「ええ。でもご本人の心は純粋な女の子のようですわ」


 牧人は違う意味で、サーッと血の気が引く。


「何をブツブツ言っておるのじゃな。

 偉大なる誘い師の心を逆なでる原因。それは現世に浮遊する昇華前の霊体に、何かが起きているということじゃ」


 チョウちゃんの腕が牧人を指した。


「は、はいっ! 大変よくわかりました」


 牧人は、なぜか自分のお尻を両手で隠すようにしながらうなずいた。

 蝶妙の懸念とはいったいなんだろう。


「マッキーくん。きみは外来種という言葉はご存じかな?」


「ガイライシュ? ですか」


 何か拍子抜けしたように牧人は眉を寄せた。。


「外来種って、ようは海外から来た異種ってことですよね」


「さよう」


 澄清はなぜか真剣な面持ちになっていた。


「新聞やテレビでも取り上げられるとぃるが、我が国の生態系は外来種によって大きく崩れようとしている。元々この国で命を育んできた生物が、外来種によって絶滅の危機にさらされているのだな。

 カミツキガメしかり、ブラックバスしかり、セアカゴケグモにいたってはヒトが噛まれればやっかいなことになる。

 実は今この外来種とでも呼ぶべき異種の霊体が出没し始め、我が国の霊界が脅威にさらされているようなのだよ」


「その、外来種の霊体が、どう影響を与えるのでしょうか」


「喰うのさ」


 あっさりと答える澄清。


「喰うって、まさか、その外来種なる幽霊が、日本の幽霊を?」


「さよう。純国産を和種とでも呼ぼうか。和種の昇華する前のエネルギーを、すべて喰いつくしてしまうのだ」


「そ、そんな」


 淡々と語る澄清。牧人は驚きの表情を浮かべた。


「成仏する前の霊ぞ。さぞかし喰いでがあろうのう」


 チョウちゃんの首が回転する。


「霊の世界における生態系と言うと少々変ではあるが、これにより生態系が崩れる危険性がある。和種の生態系にヒビが入れば」


「入れば?」


「それが生を営む我々にも、少なからず影響が出よう。いやすでに出ているやもしれん」


 澄清はいつになく真剣な面持ちで言った。


「エエッ!」


「それを防ぐためには外来種本体を集め、駆逐するための弱点をつきとめなければならないのだ。亜津美ちゃんにはその収集をお手伝いいただいておる、という次第だね」


 そのために女の子でありながら夜毎歩き回り、霊体を採取しているというのだ。ひとつ捕獲するたびに、澄清から買い取ってもらえるとのことであった。

 そして、次回からは牧人もその現場に同行して、まるで昆虫を捕まえるように霊体を亜津美といっしょに網で追いかけることになるのだ。


 研究室でのやりとりを思い返す。


「あのう、先ほどの博士の説明では、幽霊は普通の人には視えないと言われていたような」


「そうなのですわ。本物の幽霊さんを視るのには、よほど修業を積んだお方でも難しいらしいのです。でもご安心あそばせ、マッキーさん。

 お兄さまは捕獲用の網と保管箱以外に、とーっても重要なアイテムを開発されておいでですから。さて、なんでしょう」


 ニッコリ笑う亜津美は申し分なく美しい。だけど、ほんのちょっぴり一般人と感覚がずれているように、牧人は思った。


「えーっと、なんでしょう」


「うふっ、正解は、お帽子なんですのよ」


「ぼ、帽子?」


「ええ。ほら、ワタクシがかむっていたオシャレなデザインのお帽子、お忘れで

すか?」


 牧人は亜津美の格好を思い出す。


「オシャレなって、あの麦わら帽子のこと?」


「はーい、大正解ですわマッキーさん」


「帽子っ?」


 ワッハッハッ、と豪快なバリトンの笑い声が室内に響き渡る。映画で格好いい金髪の主人公が登場する時のように、高らかに澄清のセクシーボイスが牧人の耳にこだます。


「うむ、あれは我ながら傑作だよ、マッキーくん。

 これまた蝶妙さまの卓越した知識を拝借したのだがね。あの一見麦わら帽子に見えるハットは、実はかむった者の脳に作用してだね、本来感知不可能な霊体の存在を視覚神経に伝達することができるのだ」


「それは、つまり」


「そう。霊体が己の目で視える、ということだな」


 絶対に視たくない! 牧人は固く両目を閉じた。


「マッキーさんったら、お兄さまの偉大なる発明秘話をお聴きになって、感動していらっしゃるのね、おほほほっ」


「いえっ、そうではなくっ」


「うふっ、マッキーさんとお揃いだなんて、亜津美は少し照れてしまいますわ。

 でも、これもお仕事。ワタクシ、今まで以上に頑張りますことよ、お兄さま」


「そうだね、亜津美ちゃん。心強い盟友が登場してくれたからね。

 うむ、さっそくマッキーくんに、捕獲用三種の神器を用意せねばな」


「これで、わらわの小さな胸を脅かすシロモノの弱点を、早う発見できるでおじゃる」


 たんたんと進む事の成り行きを、牧人はただ茫然と受け止めるしかなかったのであった。


~~♡♡~~


 時計の針がまもなく午前二時を指そうとしている。


 夕方にN市から日進市を襲った雷雨の片割れが、またしても夜空に不気味な姿を現していた。上空ではフラッシュをたいたような稲光が発せられている。

 澄清邸。主人である澄清は、牧人を伴って訪れた亜津美から受けた報告をパソコンにまとめていた。


「なるほど、なるほど。あの山賊峠の廃墟は僕も知っているけど、あそこには結局外来種はおろか和種の地縛霊さえ検知できなかった、ということですか」


 実験室の机上で、軽やかな指さばきでキーボードを叩く。

 オレンジ色の光をライトスタンドが投げかけているが、その前にはチョウちゃんが脚を伸ばした姿で乗せられていた。


「ほっほっほ、やはりそうであろうのう。心霊スポットとか都市伝説とか現在では呼ばれておるが、所詮は刺激好きな人間共のたわいない作り話じゃ」


 澄清の口から裏声で蝶妙があいづちを打つ。

 ドーンッ、と落雷の音が実験室の窓ガラスを揺さぶった。


~~♡♡~~


 牧人は亜津美が澄清に報告する内容を聴いて、うん? と首をひねった。山賊峠に都市伝説って、どこかで聞いたぞと記憶をたぐる。魚の小骨だ。


「ああっ、思い出したっ」


 亜津美は牧人を振り返る。


「何かお忘れ物でも、ございましたのですか?」


「いや、山賊峠のあの廃墟のことなんだよ。亜津美さん、もしかして誰かに会わなかったかな?」


「あらまあ、さすがはマッキーさんですわ。なんでもお見通しなのですわね。

 いやですわ、マッキーさんの前に立つとすべて透視されているようで。ワタクシ、新しい下着をつけていたかしら。少し心配になってまいりました」


 真っ赤な顔でうつむく亜津美。


「ま、まさか、そんな超能力なんて持ってませんから!」


 あわてて両手を激しく振って、否定する牧人。


「そうか、それなら大変申し訳ないことをしているなあ、僕は。なに、このところ実験に追われていてね。下着は一週間ほど替えてはおらんのだよ。許してくれたまえ、マッキーくん」


「いや、ですから、僕にそんな超能力なんて、ありませんって!」


 亜津美は伏せた顔のまま、そっと両腕で身体を隠すような仕草をし、目線だけを牧人に送る。


「あのお方たちのことですわね。ワタクシ、金曜日の午後十一時くらいから、さびれたお屋敷の二階で待機しておりましたの。そしたら二時間ほどして、お二人が仲良くいらっしゃって。

 階段を上がってこられたものですから、ご挨拶しなければと思いまして『ごきげんよう』って申しましたわ。そういたしますと、突然お二人とも大きなお声で叫ばれました。

 ワタクシ、これが今流行はやりの挨拶かと推測いたしまして、負けないくらい大きな声で叫び返しましたのよ。いわゆる、シャウト、でございます」


 女神のような微笑だ。


 誰もいないはずの廃墟で突然声をかけられ大声で叫ばれたのなら、そりゃあ高熱でうなされるわなあ。牧人は城田と桐山に、かなり同情するのであった。


「うむ。亜津美ちゃん、ご苦労さまでしたな」


 従妹を労わる澄清はチョウちゃんの顔を自分に向けて、うなずいた。


~~♡♡~~


 牧人は何度も寝返りをうった。

 部屋はエアコンのおかげで爽やかな室温になっているのだが、今日一日で体験したことが頭の中をグルグル回りっぱなしなのだ。しかも、無理やり観せられた【】の映像が、鮮明に脳裏をよぎってくれるのである。

 それに、初めて出会ったとんでもなく美しい亜津美の笑顔が、怖気おぞけの走る心霊写真と交互に浮かんでくる。


(これは、キツイよう。どうせなら亜津美さんだけの映像がいいのになあ)


「なんですってえ!」


 今度はいきなりすみれの怒った顔が浮かんだ。


「ご、ごめんなさいっ、すみれ。いや、僕はただ新しいギタリストが見つかったことを単に喜んでいるだけなんだようっ」


 夢かうつつかわからぬはざまで、牧人はうなされていた。いつ眠ったのか、それとも眠れなかったのか、気付くと部屋のカーテンからはまぶしい光りが差し込んでいる。


 今日から夏休みだ。

 本来なら、年間で最もお気楽にまったりと過ごせる期間に入ったはずであった。


 ボーッとした表情で、牧人はベッドの上で上半身を起した。時計に目をやると、十一時を過ぎている。もちろん夏休みの課題はあるわけで、理系のすみれに比べれば量は少ないものの手を抜くわけにはいかない。

 なんといっても中京都高校の先輩卒業生が実姉なのだから、内情は把握されている。


 先生たちからはいつも比較され、「本当に姉弟なのか」とイヤミをたっぷり言われる。

 美樹は秀才の誉れ高い生徒であった。牧人はいたって平凡な生徒であり、とても比較対象にはなりえない。


「やっぱり別の高校に行けばよかった」


 牧人は頭をポリポリとかいた。


「なんなら、もう一回高校を受け直すように、オヤジに進言してやろうか」


 いきなり背後から言われ、牧人は息をのんだ。部屋のドアにもたれて、美樹が腕を組んで立っていたのだ。ピンクのTシャツにスウエットパンツ姿で牧人を見おろしている。


「な、なんですかお姉さま、入る時はノックぐらいしろよな。いえ、してくださいっ」


 牧人は虚勢を張る。美樹はいきなり頭をはたいてきた。


「何度も声を掛けてやってんのに、起きないおまえが悪いんだろ」


 牧人は痛む頭を押さえながら美樹をにらんだ。学力はもちろん、腕力でも未だに姉には勝てないことを知っているから、にらむしかできない。


「ほう、このお姉さまにメンチ斬るたあ、いい度胸じゃん」


 美樹の目がスッと細まった。牧人はあわててベッドの上で土下座をした。


「あわわ、すみませんっ、お姉さまっ、そんな大それたことなどできるはず、ございませんですーっ」


 本気で謝罪した。でないと、しばらく消えないアザを顔面に作られてしまうことになるからだ。


「ほう、いい心掛けだな。それよりも、おまえに客人が来てるぞ」


 美樹は言いながら、牧人の顔をのぞきこんだ。


「おまえ、すみれがいながら、あんな綺麗な女の子を引っ掛けるたあ、どういう了見だ」


 牧人は寝起きで思考が定まらないまま、美樹の言葉を噛み砕く。しかし、わからない。


「えっ?」


「すみれに言いつけてやろうかな、牧人ってオトコは大した度胸もないのに、女の子に手を出すことだけは一人前だって」


「す、すみません、お姉さま、おっしゃっていることがまったく理解できないのですが」


 もう一度遠慮のない平手で頭をはたかれる。


「だから、おまえを女の子が訪ねて来てるって言ってんの!」


 牧人は頭をフル回転させる。女の子? 誰?


「まさか、まさかロールスロイス」


「なんだ、まだ他にいるのか? おまえって、そんなにモテたっけ」


 美樹は肩をすくめる。


「あのバイクは、ホンダのGL一五〇〇だったっけ。サイドカー付きの大型さ。

 しかし、なんであんなハーフのモデル並みに美しい子が、よりによっておまえみたいなアホづらに会いにきたのか、不思議だよなあ」


 サイドカーのオートバイ、どこかで見た記憶はあるが思い出せない。牧人は美樹に平身低頭しながらも首をかしげるのであった。顔も洗わず、寝癖のついた髪のまま急いで玄関へ走る。


 この時間は両親とも隣接するパン店で、せっせとパン作りにいそしんでいる。だから来客を美樹が応対していたのだ。


 ガチャリッ、と勢いよく玄関ドアを開ける。


「ごきげんよう、マッキーさん」


 そこには赤いハーフヘルメットをかむり、若草色のワンピースを着た亜津美が笑顔で立っていた。亜津美の後ろにはサイドカーが停まっており、黒いハーフヘルメットにレイバンのサングラス、タキシード姿の成方なるかたがまたがっている。


「おはようございます」


 成方はハンドルを握ったまま、牧人に会釈する。


「あ、ああ、おはようございます」


 牧人は突然の来客に驚きながらも、このオートバイって確か亜津美さんのアパートへ行った時に見たな、と記憶を手繰った。


「今日から夏休みですわね。うふふっ、ワタクシの心はウキウキですのよ」


「はあ、そういえば夏休みだったっけ」


 美樹にはたかれ、少し目は覚めているものの寝不足で頭が回らない。


「昨日はお疲れさまでしたわ」


「いや、僕のほうこそ、強引に勧誘しちゃったんじゃないかって」


「あら、殿方は強引なくらいがよろしくてよ。ワタクシこそ不慣れでございますから、マッキーさんのように優しさも兼ね合わせて引っ張っていただくと、よろめいてしまいます」


 照れたように目を伏せる亜津美。会話だけを聞いていると、何やら色恋沙汰めいている。


「えっと、スタジオ入りは来週だよね。今日は何か用事でもあったかな」


 牧人は頭をポリポリかきながら、訊ねる。


「用事がなければ、お会いしてはダメなのでしょうか」


 亜津美はそう言うと、悲しげな表情で下を向いた。これには牧人も驚いた。


「いや、そうじゃないけど。そうじゃないけど、だってわざわざ会いに来てくれるなんて思ってもみなかったし」


 牧人はキョロキョロ周囲を見渡す。さいわいこの時間帯はご近所の誰も外には出ていない。新興住宅街であり、似たような家並みが続く静かな通りである。


 顔を伏せていた亜津美の肩が震える。牧人は「えーっと、えーっと」と繰り返し、亜津美に手を差し出したり引込めたりと、挙動不審に陥っていた。

 亜津美が顔を上げた。クスクス忍び笑いを堪えているではないか。


「うふふっ、軽いジョークでございました。お笑いいただけましたでしょうか」


「はあっ?」


「でも、もちろん用事があって伺いましたのよ、マッキーさん」


 牧人はがっくりとうなだれた。朝一番から、かなり疲れた。それともジョーク(には見えなかったが)に笑えない自分が勉強不足なんだろうかとも思った。


「せっかくマッキーさんがご自宅をお教え下さったものですから、電話やメールなどというような機械的無粋な通信手段よりも、直接お会いしてお話をさせていただいたほうがよろしいかしら、とワタクシは思いましたのよ。

 爽やかな太陽の輝く空の下、やはり気持ちがよろしいですわあ」


 亜津美は手でひさしを作りながら空を仰ぐ。


「はあ、まあ確かに僕たちはすぐに携帯電話を使っちゃうよね、便利いいし」


 牧人は亜津美の言葉に一理あると思った。直接会うことはコミュニケーションを取る上で、とても大切だとも考える。


「ワタクシ、今から成方にある場所へ連れて行ってもらうのですが、その後再びお兄さまのお屋敷へ行くことになると思いますの。よろしければ、ごいっしょに。

 それで、マッキーさんの本日のご予定をお聞きしておこうかしらと、ご自宅にお邪魔いたしました」


「予定って、特にないなあ。スタジオ練習に向けて、ドラムスの復習するくらいだし」


「それでは午後から、今度はご連絡を入れてから参りますわ」


「今から行く所って、まさか」


「はい。お兄さまと蝶妙さまが、外来種がいそうな場所を検索されていらっしゃるのです。

その場所のひとつへ出向きまして」


 亜津美はエアタモで、ひらりとすくう真似をする。牧人はまたあの映像を思い出してしまった。


「そ、そうなんだ。気をつけてね」


「まあ、マッキーさんにそう言っていただくと、ワタクシ、とても心強く感じますわ。

 やはり、がいるって嬉しいものですわね。

 それではまたご連絡申し上げます。ごきげんよう」


 亜津美はスカートの裾を両手で軽く持ち上げ、会釈した。

 オートバイにまたがる成方も頭をさげると、エンジンをかける。大型バイク特有のエキゾーストノートがお腹に響く。屋根付きサイドカーに、亜津美は慣れた姿勢で乗り込んだ。


 牧人は手を振りながら走っていくオートバイを見送る。


「やっぱり手伝うはめになるのかなあ」


 牧人は家の中に入ろうと振り返った。


「ほう、これはどうやらゆっくり話を聴かせてもらう必要がありそうだなあ」


 美樹が開け放たれた玄関の奥で立っているではないか。牧人の心臓がドキッと鳴る。


「お、お姉さまっ」


「そのデレッとした顔で、すみれにどういう説明をするのか、先にこの私がゆっくりと事情聴取してやるよ。さあ、早く入りな」


 牧人は学力、腕力、そして口でも絶対に勝てない相手に、憂鬱な気分になっていくのであった。


~~♡♡~~


 すみれの一日は、早朝の子供会のラジオ体操から始まる。朝六時半に自宅近くの公園で、住宅街の小学生たちが集合し、音楽に合わせて体操をするのだ。

 もちろんすみれは高校生であるから、子供会に入っているわけではない。完全なるボランティア活動なのだ。


「気持ちいいわよ、朝の涼しい時間に子供たちといっしょになってラジオ体操をするのって。マッキーも一緒に参加しない?」


「やめておくよう。だって、すみれも知ってるだろ。僕が小学生に頃、あのラジオ体操に参加したのは、最終日の一日だけ。それも遅刻して、結局参加賞はもらえなかったんだもんな」


 確かにそうであった。当時、朝起きるのが極端に苦手な牧人は、美樹に叩かれながら泣く泣く最終日に公園まで走った。それ以降、トラウマとなり時間厳守な性格になっていくのだが。


 すみれは体操からもどると、出勤する父を見送った母といっしょに朝食をとる。自室で机に向かうのは、八時半と決めていた。ガリ勉タイプなわけでは、もちろんない。イヤなことや辛いことを後まわしにするのが嫌いなのである。


 夏休み初日とはいえ学校の課題はてんこ盛りであるから、ちゃっちゃっと片付けていきたいだけなのだ。


「うふふっ、こうやって計画的に進めて行けば、アタシの計算では八月アタマまでにはすべて完了よ」


 ひとりでほくそ笑みながら、教科書を開いた。


 お昼ご飯はテレビを観ながら母と二人で、そうめんをすする。もちろん洗い物はすみれの役割である。一通り終わると、自室へもどって勉強の再開だ。

 ヴイーンッヴイーンッ、部屋に入ったとたん、机上に置いていたスマホが電話の着信を告げる。


「誰よ」


 牧人の顔を浮かべるが、画面を見て首をひねった。


「やっちゃん?」


 相手は元バンドメンバーのやっちゃんであった。


 すみれは少し躊躇する。先週の土曜日以降、やっちゃんが一方的に脱退を牧人にメールしてからは、すみれも連絡を取っていなかったからだ。


 電話に出ないのは礼儀に反する、との思いから、すみれは怪訝な表情でスマホを持ち替えた。


「はい、もしもし」


「いよう、すみれ。オレだよ」


「なんかすごく久しぶりのような感じよ、やっちゃん」


 すみれは少し皮肉を込めて言う。


「ああ、そうだった。ごめんなバンド抜けちゃって。でもさあ、いい加減マッキーの本番弱さには付き合いきれなくなっちゃってさ。マッキーから聞いてくれただろう? 

 オレさあ、千手観音せんじゅかんのんに引き抜かれたんだぜ。千手観音っていったら、市内のアマチュアバンドでもかなり有名だからね。ギターが仕事の都合で抜けちゃったらしくてさ。

 本当は区民ミュージックフェスティバルにも参加する予定だったけど、そんなんで今回はパスしたらしいけどね。まあ俺もあのライブは出演したかったけど、クロスワードじゃあ本番でブーイングの嵐になるのは目に見えてるからな」


 得意げに自分の言いたいことだけで話を進めていくことに、すみれはため息をつく。


「せっかく、三人でやってきたのに、あんなにあっさり脱退しちゃうとは思わなかった」


「すまん、すまん。だけどさあ、もう限界だぜクロスワードも。ドラムスがあんなんじゃ、とてもライブなんてできないしな。マッキーはリーダーとしても頼りないんだよ」


「やっちゃんの言うことはアタシもわかるよ。だけど、お互いに支え合ってイイところを伸ばして音楽をやっていくのが、バンドなんじゃないかなあ」


 すみれはムッとした口調で言う。


「まっ、どっちにしてもすみれには悪いけど、クロスワードは辞めたからさ」


「それで、その報告のために、わざわざ電話をしてくれたわけ?」


 電話の向こうで、やっちゃんがクスッと笑う気配があった。


「違うよ。なあ、すみれ。いっそのことそっちを辞めてさ、千手観音に来ないか。 まあベーシストはいるんだけど、すみれの作曲家コンポーザーとしての才能をこっちでさらにアップさせてみようぜ」


 意外な言葉に、すみれは戸惑った。


「アタシに千手観音へ入れっていうお誘いなわけ?」


「ああ、そうさ」


 やけに自信ありげに言われ、すみれの負けん気が頭をもたげる。


「悪いけど、アタシはマッキーといっしょにやっていくよ。それに、やっちゃんが抜けた後釜をリーダーはちゃんとみつけてきてくれてるしね」


 どうだ、別にアンタだけがギタリストじゃないんだからね。と、すみれは切り札を出した気分である。ところが。


「知ってるさ。今日の午前中にマミヤミュージックに立ち寄ったらさ、ピートさんがポロって口をすべらせたからな。すみれは相手がどんな人間か、聞いてるのか?」


「アタシらとタメの高二で、チョーイケメンでしょ。聞いてるわよ」


 ヘエッ、と小馬鹿にしたような返事。すみれは思いがけない言葉を聞かされる。


「チョーイケメンだって? ふふん、じゃあマッキーの奴はすみれには本当のことを伝えてないんじゃないか」


「えっ、どういうこと」


「だって、マッキーが声をかけてるギタリストって、えらくベッピンの女子らしいんだぜ。 

 しかも超お金持ちのご令嬢らしいんだな、これが」


 女の子? すみれは眉をしかめる。昨夜の電話では牧人がそんなこと一言も口にしていなかったことを思い出した。


「そ、そう。だけど別にバンドやるのに、性別なんて関係ないわ」


「うーん、そうかなあ。そのうち二人が仲良くなっていっちゃったら、すみれはどうすんのさ」


「どーもこーも、アンタにゃ関係ないじゃん」


「でも遅かれ早かれバンドは解散に追い込まれるぜ、断言してもいい。だからさ、すみれをこっちにスカウトしたいんだ。すみれは歌上手いしな。それに見てくれもカワイイからファンがかなりいるじゃん。

 すみれが入ってくれればチケットの売り上げにも貢献できるしさ」


 かわいいってのは自他ともに認めるアタシのセールスポイントよ。だからって、ヒトを集客用の見世物みたいな言いかたって、どうよ! だんだん苛立ってきたすみれは、いつになく強い調子で怒鳴った。


「勝手に脱退したアンタと一緒にやろうなんて、まったく考えてないから。こっちはちゃんとやるから! じゃあねっ」


 相手の返事を待たずに、一方的に電話を切る。スマホを放るように机上に置いた。

 いつものすみれなら、数学の問題を解くように客観的に事象を俯瞰ふかんし、理論的に答えを導き出すのに。


(なんで、どうして?)


 電話のやり取りは例えて言うなら、数学の問題だと思ってテスト用紙を表に向けると、そこには漢文の問題がずらりと並んでいたような驚きであった。


(待てっ、すみれ。よーく落ち着いて考えろ) 


 ライブ前の楽屋で出番待ちの時のように、大きく深呼吸する。


(やっちゃんがクロスワードを脱退した。それでアタシはマッキーにやっちゃんを引き留めるか、代替案を出すように言った。それが昨日。そう、ここまではいいわね。

 で、散々アタシを待たせたけど昨日の晩にマッキーからやっと連絡がくる。アタシにヘルプかい、と思いきや、なんと自力でギタリストを見つけてきたとのたまったわけよね)


 ようやくすみれの理系型思考が、頭の中にフローチャートを描き始めた。


(アタシはマッキーが単独で行動したことにビックリしたけど、やっとリーダーの自覚が芽生えたと喜んだわけ。音合わせするからと、来週の月曜日にマミヤミュージックで午後一時からのスタジオ予約についても、了解しましたと。

 新しいギタリストはアタシたちとタメの高校二年生である、とマッキーは言いました。

 うん、言った)


 すみれは記憶を正確に思い出そうと、大きな瞳を上向かせる。


(そこで、アタシはギタリスト、イコール男子と思い込んでいたから、イケメンかと訊ねた次第でした。そうだよね、差別するつもりは毛頭ないけど、ギタリストって言えば男子を思い浮かべるのは間違っちゃあいないし。

 そうだ。でもアタシの問いかけに、マッキーは答えなかったっけ。てっきりイケメンかなって訊いたことが、マッキーの自尊心を傷つけたかと思って追及しなかったけど)


 でも、それならと思う。


(一言さあ、今度のギタリストは女子だけど、って言ってくれてたら)


 アタシは了解した?


(も、もちろんよ。音楽に性別なんて関係ないし)


 それがものすごくカワイイ子で、マッキーがその子とバンド仲間以上の関係になっていったら?


(それは、その時はもちろん応援するに)


 決まってる? 本当に?


 すみれは味わったことのない締め付けられる胸の苦しみに、思わず目をつむるのであった。


~~♡♡~~


 群青ぐんじょう家のリビングには二人掛けのソファが向かい合わせになり、間にはナチュラルウッドのローテーブルが置かれている。


 美樹は窓側のソファに腕を組んで座っているのだが、牧人は反対側のソファではなく、フローリングの上で正座してうなだれていた。


「ほう、なるほどなあ。新しく迎えるメンバーの手助けをするために、幽霊を採集するアルバイトを手伝うってか」


 すでに時計の針は正午を回っている。亜津美がサイドカーに乗って現れてから、すでに一時間以上経過していた。牧人は美樹に尋問を受けていたのである。まるで被疑者扱いで。

 美樹はグイっと顔を近づけてきた。


「おまえ、そんなウソ話でこの私を丸め込めるとでも思ってるんじゃ、ないだろうな」


「め、滅相もございません! お姉さま、僕は正真正銘、事実のみを語っておりますです」


 牧人はかれこれ三回は同じ説明を繰り返している。


「ほう、まだ言うか。口でわからなければ、いたしかたないな」


 美樹はスクッと立ち上がった。


「ヒッ、ヒエーッ! お姉さま、ぼ、暴力はいけません!」


 牧人はあわてて逃げようとするが、足がしびれて動けない。


「あの美少女がどういう子かは知らんが、お金持ちの令嬢でギターが上手い、ここまでは信じてやってもいいけどな。幽霊の外来種を捕まえるだ? その何とかって言う博士の手伝いだ? 

 もうちょっとまともな作り話はできないのか、おまえは。文学部志望が聞いて呆れるわ。はあっ、これが血を分けた弟だと思うと私は悲しい」


 美樹はドサッとソファに腰を降ろす。


「け、決して作り話ではございません! 僕も未だに信じられないんです。でも、でも」


「アーッ、うるさい! こんなことを、すみれに聞かせるわけにはいくまい。あの子は私の実の妹と言っても過言ではない。いっそのことおまえと縁を切って、すみれを実の姉妹としてかわいがるほうがいいかもな」


「お、お姉さま」


「いいか、牧人。私は昼から、大学に顔を出さなきゃならない用事があるから出かけるけど。くれぐれもそんな与太話ですみれを困らせるなよ。

 もしも、すみれを悲しませるようなことがあったら」


 足がしびれて立てない牧人の前で腰をかがめると、親指と中指で丸を作り、バシッと勢いよくデコピンを浴びせた。


「グワッ!」


 想像を絶する痛みに、牧人は額を押さえて転がった。

 美樹は上から目線で転げまわる牧人に言う。


「こんなもんじゃ済まないってことを、よーく覚えておきな」


 牧人は涙目で、何度も首を縦にふった。


~~♡♡~~


「痛たたっ。姉ちゃんの肉食獣的凶暴性には参るよなあ」


 牧人はその後無事に解放され、朝ごはん兼昼食にキッチンで昨日売れ残った総菜パンを食すと、逃げるように自室にこもっていた。美樹はすでにバイクに乗って外出している。


 ズキンズキンと痛む額のありさまを、洗面所で顔を洗うついでに確認してため息をついた。通学バッグから教科書を取り出す。


 夏休みの初日から宿題をやる奴の気がしれない、と思いながらも必ず美樹のチェックが入ることを経験則として知っている以上、形だけでも進めておく必要があったわけだ。下手すると、デコピンでは済まない。

 共働きの両親がうるさいことを言わない分、いやそれ以上に美樹はスパルタ教育を強いてくる。


 はあっ、とうなだれる。


 机上のスマホがロックンロールのメロディを鳴らした。電話の着信だ。

 牧人は画面を確認すると、亜津美であった。


「もーしもし」


「ごきげんよう、マッキーさん」


 亜津美の明るい声が聞こえる。


「やあ、さっきはどーも」


「今、お時間はよろしくって?」


 牧人は美樹が外出していることは知っているが、念のため自室から顔を出して隣の部屋を確認する。もちろん気配はない。


「うん、大丈夫だよ」


 牧人はベッドの上に腰を降ろした。


「今からお兄さまのご自宅に出かけるのですが、マッキーさんをお迎えにあがってもよろしかったかしら」


 牧人はちらりと机上の目覚まし時計を確認する。


「うん、いいよ。でもあのサイドカーじゃあないよね」


「もちろんですわ。マッキーさんの膝の上にワタクシが座ってもよございましたら、オートバイで参上いたしますわ」


「エエッ?」


「うふふっ、冗談ですのよ」


 亜津美と普通にやり取りするにはまだまだ時間が必要だな、と牧人はドキドキと心臓を高ぶらせる。


「それでは三十分後に、お向かいに参ります」


 牧人は承知して電話を切ると、急いで着替える。ブルーのシャツに、膝丈のショートパンツを履いた。今日も暑い。

 約束の十分前には玄関を施錠し、門の前に立つ牧人。もしご近所の誰かに見られていたら、間違いなく噂されるであろう。きっかり十分後、この界隈には不釣り合いな外車が走ってきた。


 牧人は真っ赤なロールスロイス・ファントムの後部シートに乗り込み、キョロキョロと窓の外を確認する。幸いにも自宅周辺には誰も歩いていない。隣接する両親が営むパン屋にもお客さんは店内に入っており、大丈夫なようだ。

 静かな昼下がりの住宅街を、大型高級車は走り出した。


 コンポからはヨハン・セバスティアン・バッハの「G線上のアリア」が流れている。


「今日もお暑うございますこと。あら、そのおでこの赤い模様はいかがされたのですか?」


 亜津美は遠慮がちに牧人の額を指さす。

 バックミラーに、ちらりと成方の視線が向くのもわかった。


「い、いや、これはなんでもないんだ。そのう、家の中で柱にぶつかっちゃったんだ」


「なにやら腫れ上がっておりますわ」


 亜津美が顔を近づけてきた。その距離は三センチもない。

 牧人はあわてて反対方向を向きながら、手で額を隠した。


「大丈夫だよ、いつものことだから」


「あら、そんなに柱と衝突されるのですか? 少々痛いご趣味ですわね」


 真剣な問いかけに、牧人は苦笑を浮かべるしかなかった。


「えっと、そんなことより、昼前に行った場所はどうだったのかな」


 亜津美は姿勢をもどしながら言う。


「はい、今日はお隣の緑区にある、つぶれた病院に行ってまいりましたの」


「病院、ですか」


「ええ。元は大きな医療法人が経営していたらしいのですが、医療事故が多発してつぶれてしまったのですわ」


「なにやら、また怖そうな話っすか」


「すっかり荒れ果てておりました。何でも内視鏡手術を受けられた数名の患者さまが、相次いでお亡くなりになって、杜撰ずさんな手術が露呈し病院自体が廃業せざるをえなかったということです」


 そんなニュースを牧人も以前聞いたことがある。


「やっぱり、いたの?」


 牧人は両手を胸元で下に向けて訊ねた。


「はい、本日も捕獲させていただきました。クルマのトランクに保管箱を置いてありますわ」


「亜津美さん、よく独りで行くよなあ。僕なら絶対に無理だよ」


「これも生活費を稼がせていただく、大切なお仕事ですから。おほほほっ」


 亜津美はかわいい声で笑う。牧人は亜津美との会話が続き、車窓から外を確認することを失念していた。

 自宅から出てファントムに乗り込み出かける姿を、牧人に話を直接訊こうと訪ねてきていたすみれに見られていることに、まったく気づいていなかった。


 Tシャツにジーンズ姿のすみれは、真っ赤な外車が走り去るのを茫然と見ていたのであった。自宅は二つ手前の区画にあり、紛れもないご近所だ。


「あの派手な外車に、マッキーの言っていた新しいギタリストとやらが乗っていたの?」


 すみれの位置からはクルマの後部しか見えず、したがってどんな人間が乗っていたのかは確認できていない。少なくともロールスロイスを持っている知り合いなんて、牧人にはいないはずである。


「やっちゃんが言っていた、お金持ちのお嬢さん?」


 すみれは蝉しぐれの中、しばらく動けなかった。


~~♡♡~~


 昨日と同じ道路を走り、ファントムが澄清邸へ到着したのは午後二時過ぎ。

 ぴたりと停められたクルマから降りた牧人は、亜津美に続いてコンクリートの屋敷に入った。成方が後部のトランクから、麦わら帽子に捕虫網、そして外来種の霊体を閉じ込めてある保管箱を取り出す。亜津美はそれらを受け取った。


 来客用の部屋で円卓に座る二人の前に、チョウちゃんを抱いた澄清はほどなく現れた。


「いやあ、いらっしゃい、マッキーくんに亜津美ちゃん。こうして並んで座るきみたちを拝見すると、甘酸っぱい青春時代を僕も思い出すよ。ワッハッハッ」


「ごきげんよう、お兄さま。本日もちゃーんと捕獲して参りましたわ」


「こんにちは、博士。蝶妙さまは、今日は霊界へお戻りですか?」


 清澄の細い目が牧人を見る。


「なんじゃ、わらわがおらぬほうが、良いとでも申しているような口ぶりじゃな」


「あわわっ、決してそのような」


「ごきげんよう、蝶妙さま」


 澄清がチョウちゃんの顔を動かす。


「おう、さすがは亜津美じゃな。挨拶をちゃーんと心得ておるわいなあ」


 ギロリと真っ黒な眼が牧人をにらんだ。


「こ、こん、こんに」


 焦る牧人に澄清が椅子に身体を押し込みながら、助け船を出してくれる。


「蝶妙殿、マッキーくんはまだ慣れておられぬのですからな。この僕でさえ、蝶妙殿が離脱される時にはわからない場合もありますよ」


「おっほっほっ、誘い師の気配がそんな簡単に知られたら、お終いじゃでな」


「えっ? 蝶妙さんは、ずーっと博士に憑りついているんじゃ、ないのですか」


 牧人の質問に、チョウちゃんの首が三百六十度回転する。


「わらわとて、霊界へもどることはあるわいなあ」


 ははーん、と牧人は何となく理解する。


「マッキーくんに三種の神器をお渡ししておこうか。まずは研究室へ」


 牧人は白衣の澄清についていく。澄清はセキュリティを解除し、二人をうながす。

 実験室内は昨日と同様に、牧人にはさっぱり解らない実験の途中であった。


「さあ、ではマッキーくん。奥のテーブルで待っていてくれたまえ。亜津美ちゃん、先に保管箱の霊体を持って行こうか」


 遮光カーテンで室内は閉めきられており、天井から蛍光灯が明るく照らしている。常に空調が効いているようで快適な室温であった。


「承知いたしましたわ、お兄さま」


 澄清が何を思ったか、抱いていたチョウちゃんを牧人に渡す。


「エッ? エッ?」


「荷物を運んでくるから、申し訳ないがこの子をテーブルの上に座らせてやってくれないかな、マッキーくん」


「デエーッ!」


 牧人は心底震えあがった。

 おかっぱ頭に赤い和服のチョウちゃんを、無理やり胸元に押し付けられる。


「よいか、その人形ひとかたは、わらわも同然ぞ。くれぐれも粗相なきようにの」


 澄清が振り返り、蝶妙の声で念を押した。人形を抱いてしゃべられるのも怖いが、ひとり裏声で語られるのはもっとコワイ。


「ヒ、ヒ、ヒャイ、わかりましたあっ」


 牧人は顔をそむけるようにチョウちゃんを抱く。

 二人が実験室から出ていくまで、牧人はすがるような視線を向けていた。ギギッ、ガチャンッ、と部屋にロックがかかったようだ。


 チョウちゃんはプラスティックではなく、木型を組んで作られている。三歳児くらいの大きさがあるため、これが結構重い。


「よくこんな重たい人形をいつも持って歩くよなあ、博士」


 実験室には電子音や液体の流れる音がしているが、独りになった牧人は声を出さないと背筋が寒くなるため、独り言をつぶやく。その声はいつもよりも高めのトーンだ。


「じゃ、じゃあ、博士たちが戻るまで、座っていようかな」


 チョウちゃんを正面から抱き、そっと歩き出す。足元は人形が邪魔で見えないので、かなり慎重に踏み出す。薬品の甘酸っぱい香りが辺りに漂っていた。あと数歩で机、というところで牧人のつま先がむき出しの配線ケーブルに引っかかってしまった。


「おわっ」


 ぐらりと上体が傾く。手を出そうとしたがチョウちゃんで両手はふさがっている。

 しかし、自己防衛本能が勝ってしまった。

 牧人はチョウちゃんを手から放し、机の端をつかんだ。そのまま転んでいたら、美樹につけられた額の痕に、さらに大きな衝撃を受けるところであった。


「ふぃー、間一髪だよー」


 冷や汗を拭おうとした牧人の耳が、ゴキッ、ガチャンッ! と痛そうな音を捉えた。


「なっ、なっ」


 何だ? と言おうとしたが、その前に見てはならないモノが目に入ってしまったのだ。


「オーマイガーッ」


 机の端が、チョウちゃんのちょうど首辺りに当たったようだ。

 牧人の視界に首から上の無い、手足を広げて床にひっくり返る着物姿が写る。


「でえぇぇっ」


 牧人はあわててしゃがみ、首を探した。


「まずいまずいまずい」


 うめくように床を這いまわる。床は電気系統の塩ビパイプや、足を引っかけたむき出しのケーブルが敷かれ、蛇の巣窟のような状態になっているのだ。


「どこ行った? どこにある?」


 牧人は机や実験用のテーブルの下をくまなく見渡した。


「たのむ! 出て来ておくれーっ」


 あった。会議用テーブルの右手側にある、黒い実験台の下に発見した。


「いっ」


 台の下に転がった首が、真正面を向いている。思わず目が合ってしまったのだ。

 天井の灯りが台でさえぎられ、おかっぱ頭の顔に不気味な陰影をかもしだしている。

 失禁しそうな恐怖に包まれる牧人。しかも口元が半開きになっており、うらめしい言葉をつぶやいているように感じた。


「す、すみません、すみません」


 牧人は半泣き状態でしゃがんだまま手を伸ばした。ガブリッ! と喰いつかれる幻覚におびえながらも、なんとかさらさらの髪をつかんだ。牧人は目をつむり、歯を食いしばって引っ張った。


 ずるり。牧人の手元にはどこをどう間違ったのか、人形の髪の毛だけが握られているではないか。人工物かそれとも本物の髪の毛はわからないが、牧人の手には真っ黒な大量の毛髪だけが蛍光灯の光に鈍色に輝いている。


「シェエエッ」


 腰を抜かしそうになる。しかし、早く元通りにしないとまずい。見たくないなどとは言っておれず、両目を皿のように広げて牧人は台の下に潜り込んだ。坊主頭になったチョウちゃんは、口を半開きのまま、じっと牧人をにらんでいる。


「ホント、ごめんなさい、許してください、申し訳ありません」


 謝罪の言葉をお経のようにつぶやきながら、両手でしっかりと顔を包み、台の下から身体をひねり出した。牧人は顔を持ったまま、台に背をもたせかけて大きく深呼吸する。


「いかん、休憩している場合じゃないっ」


 髪の毛と顔を持ち、首なし胴体の元へ這寄る。首は折れたのではなく、背中から操作する木枠からはずれただけのようであった。


「よかったあ」


 コキン、コキン、と音を立てながら首からのぞくジョイントに組み合わせた。試しに着物の背中から手を突っ込み、輪っかに指を入れる。くるん、と接合された首が回る。別の輪っかを指で引っ張ると、口元がカクカク開閉する。


「おっ、なんだか面白いなあ」


 牧人は床に座り込んだままチョウちゃんを操作し始めた。

 ギギッ、ガシャンッ、研究室の扉の閂が開錠される音が室内に響いた。


「ま、まずい!」


 牧人は立ち上がると、チョウちゃんを抱いてテーブルに素早く移動する。机上に着物から両足を伸ばして座らせた。でも何か違和感がある。


「か、髪の毛っ」


 あわてて振り返り、床にモップのように置いてあった髪の束をつかむとすぐに人形の頭にかぶせた。

 ガラガラ、と台車の音が聞こえてきた。

 間一髪、今度こそ間に合った。牧人は崩れるように椅子に座った。


「お待たせして申し訳ない」


 澄清は台車を押しながら戻ってきた。亜津美も続く。


「いえっ、わりと早いお戻りで」


 牧人は振り向きながら愛想笑いを浮かべる、その視界の端に座らせたチョウちゃんが写った。まだ何か、違う。ドキッ、と鼓動がこめかみにうずく。


(なになに、どこが変なのか?)


 ガラガラと台車の音が近づく。牧人はもう一度人形を注視した。

 身体は正面を向いて、ちょこんと座っている。ところが、髪の毛がヴァサッという感じで顔の部分を覆っているではないか。それはどう見ても少女の人形ではなく、和服姿の妖怪であった。


(ヒイィッ、前と後ろを反対に乗せちゃった!)


 だがすでに澄清と亜津美は会議用テーブルの横に来ており、台車からダンボール箱をよっこらせと机上に載せている。


「やあ、亜津美ちゃん、ありがとう。助かるよ」


 澄清はフウフウと荒い息をつきながら、額の汗を手の甲でぬぐった。


「いいえ、お兄さま。これくらいなんでもないですわ」


 汗ひとつ浮かべずに、亜津美は爽やかに応える。


「マッキーくん、これがきみ用の霊体捕獲アイテムだよ」


 澄清は机上に置かれたダンボール箱を指さした。


「おや、何か顔色が悪いみたいだな。額に汗がにじんでおるようだが」


「あら、本当に」


 牧人は半笑いのまま、この際開き直ることに決めた。


「いえ、昔から暑がりなので、特に今日は気温が高いですからね」


 ちらりちらりと、チョウちゃんに視線を向けながら言った。


「そうかね。確かに僕も汗をかいてしまっているよ。ちなみに真冬でも汗をかく体質なのでね。ワハハハッ」


 澄清は笑いながらチョウちゃんを定位置である右腕に抱いた。後ろ髪が顔を隠していることに気づいていないようだ。亜津美もそのまま牧人の隣りに腰を降ろす。


「マッキーさん、箱をお開けになって」


 牧人は椅子から中腰になって置かれたダンボール箱に手を伸ばした。ガサガサと音をたてて、中から品物を取り出す。三種の神器と澄清が呼ぶ品物。霊体を視覚に変換する麦わら帽子、霊着金で作られた捕獲用のタモ、同じく保管箱。

 これが澄清の研究を手伝うために必要なアイテムである。


「どこからどうみても、夏休みの風物詩、昆虫採集セットだなあ」


 牧人はながめながら、つぶやいた。


「うふふっ、マッキーさんとお揃いでお仕事ができるなんて、なんだか嬉しゅうございますわ、ワタクシ」


 亜津美の言葉に、牧人もまんざらでもない表情になる。目尻は下がり、口元にイヤラシげな笑みが浮かんだ。


「澄清よ」


 人形を抱いた澄清の口から蝶妙がしゃべる。多分澄清は背中に入れた指を動かして、人形の口を開閉させているのだろうが、見ているほうは垂れ下がった髪がワサワサと動いているようにしか視認できない。


「一度この寺子に、霊体の外来種たるものがどのように視覚に反映されるのかを、見せてやったらどうじゃなあ」


「なるほど。それはグッドアイデアですなあ。準備しますか」


 澄清はうなずきながら二人を手招きした。


「今から保管室へ行って、霊体がどのように視えるのかをマッキーくんに知っておいていただこう。マッキーくん、亜津美ちゃんもその帽子を持ってきてくれたまえ」


 牧人は亜津美と目を見合わせて首肯した。


 三人は実験室を出ると、向かい側にある部屋の前に立った。澄清は壁に取り付けられたセキュリティ装置である白いボードに手をかざす。ガッチャン! と開錠の音が廊下に響く。澄清が天井の照明を点けた。


 保管室は少し変わっていた。まず窓がないのだ。しかも天井、壁、床ともに薄いブルーの金属で覆われている。広さは牧人の自宅のリビングルームくらいかと思われた。おおむね十八畳ほどだ。


 室内の奥には大きな水槽があった。正確には水槽ではない。金属で枠を作り、アクリル板をはめ込んだものだ。牧人が両手を伸ばしても、端から端には届かない。巨大なボックスは腰の高さほどの台に設置されていた。

 牧人は興味本位で透明の板の中側をのぞき込む。しかしそこには何もない。


「その保管ケースは周りを霊着金で囲んでいるから大丈夫なんだが、今でも中には外来種の霊体が五十少し入っているんだよ。先ほど亜津美ちゃんが捕獲してきた新鮮な霊体も入れてあるがね」


 さりげなく澄清に言われ牧人はうなずくが、ハッと気づく。


「と、いうことはですね。この透明の何もないように見える箱の中には、幽霊が押し込められている。ってえことですか?」


「うむ、さよう」


 牧人は引きつった顔で、あわてて後ずさりする。背後にいた亜津美にぶつかってしまう。


「ああ、ごめんなさいっ」


「マッキーさん、幽霊さんが視たくてウズウズしてらっしゃるのね。わかりますわあ」


 亜津美が小首をかたむけた。

 部屋左側に保管ケースが設置されており、右側には牧人が見たこともない様々な装置が壁に設置されている。澄清がスイッチを入れたのか、大小のランプが点き、メーターや得体のしれない機械音が低く鳴り始める。

 牧人は落ち着かない様子で、キョロキョロと辺りをうかがう。


「あれっ、博士。どうかされたんですか」


 背中を向いている澄清の肩が小刻みに震えだした。牧人の問いかけに、人形を抱いたまま振り返る。その細い両目に奇妙な光を宿しているのを、鈍感さでは誰にも引けを取らない牧人でさえ気づいた。


(ちょ、ちょっと博士の様子が変なんですが)


 すがるような視線を亜津美に向けるが、亜津美は涼しげな口元であった。


「それでは今から、実験を始めちゃうかな。グフッ、グフフフッ」


 澄清の声のトーンが明らかに変化し、不気味な声をもらし始めた。


「おおうっ、澄清が真理を追究する学士の姿になったぞよ」


 蝶妙の声が、むしろ牧人には安心して聴こえる。


「さあ、まずは亜津美チャンから、いつものようにボクのそばにおいでえ」


 言葉遣いが何やら変質者のようだ。


(これ、ヤバイんじゃね? やっぱり博士って二重、いや多重人格ってえ怖ろしげな方だったんじゃなかろうか)


 牧人の不安をよそに、亜津美は装置の前に立つ澄清に近寄った。


「うんうん、いい子だなあ。グフフッ、じゃあまずはお帽子をかむってごらん」


 澄清は自分より上背にある亜津美の頭を、背伸びしてなでる。亜津美は手に持った麦わら帽子を頭にかぶせた。澄清は空いている左手で装置のスイッチ、ボタンを操作する。真ん中に埋め込まれた液晶画面に明かりが灯った。

 ヴイーン、低いモーターの回転音が聞こえる。


「それでは、次さあ。これを掛けてごらん」


 澄清の手に、海水浴で使う一枚のレンズ仕様ゴーグルが握られていた。そのレンズからは細いコードが伸びており、装置に接続されている。

 亜津美は手慣れた様子でゴーグルをかけた。次に再び保管ケースの近くまで歩く。

 いったい何をするのか、牧人はただ目で追う。


「マッキーちゃん、今からこの画面には亜津美チャンが視る映像が映るんだよーん。グフッ、よーく観ててごらん。亜津美チャンの視神経には、霊体はこのように伝わっているんだからさあ」


 心理を追究する学士とやらは、こんな変態じみた話しかたをするのか? 紳士的なカッコいい声の澄清が、一転して粘着質な気味の悪い口調になっており、牧人の腕に鳥肌が立ち上がった。


「お兄さま、準備はよろしくって?」


 麦わら帽子をかむり、ゴーグルをかけた亜津美は水槽型ケースの前で腰に手を当てた。


「ああ、亜津美チャン。じゃあ、行くよぉ、そっとそっと優しくねえ。グフフッ」


 奇怪な声で、澄清は液晶画面を観ながら左手でスイッチを入れた。


 牧人は両腕をなでながら、画面を注視する。モノクロの砂嵐から、七色の放射線に画面が変わった。澄清はチョウちゃんを抱いたまま、何やら不気味な旋律の鼻唄を口ずさみダイヤル調整をしている。ピントが合った。


 画面には真後ろの風景と保管ボックスが映し出されていた。牧人は画面に顔を近づける。両目を一度固く閉じ、そして開いた。


「こ、これは」


 牧人の声に、横で操作する澄清がニタリと笑みを浮かべる。


「グフッ、グフッ、どう? ちゃんと視えるでしょ。これは亜津美チャンの視覚神経が捉えている、保管箱に収納されている外来種の霊体たちなのさあ」


 すっかりヒトが変わってしまった澄清の説明に、牧人は息をのんで画面を凝視する。透明なアクリル板に四方と天井を囲われた保管箱の中で、ゆっくりと漂っている手のひら大のどす黒い煙。

 いや、海底のウニと言う表現のほうがしっくりきそうである。五十体以上の霊体が禍々しい光を帯びて、ボックスの中を漂っている。


「これが、幽霊の外来種?」


「さよう、どうじゃな寺子よ」


 蝶妙の声が訊く。


「なんか、想像していたのとまったく違うんですね。トゲトゲのウニみたい」


「そうだねえ、とーってもカワイイねえ。思わず頬ずりしたくなっちゃうほど、愛おしいねえ」


 爽やかな声のはずなのに、べったりとした話しかたで澄清が上目遣いで牧人を見た。


「これはさあ、外来種は亜津美チャンの目にはこうやって写っていますよお、ってことなんだよぅ。マッキーちゃんのそのつぶらな二重の目には、どう写るのか、実験してみようかあ」


 澄清が舌なめずりする。


「霊体は、視覚が感知した瞬間にその人間の潜在意識に反応するんだな。だから幽霊はコワイものって刷り込まれていると、最もコワイ姿で写るのさあ。

 亜津美ちゃんの潜在意識では、こーんなプニプニだろうなって思っているからその通りに写っているんだ。マッキーくんは幽霊をどう意識下で思っているのか、これでわかるよーん」


 牧人は身の危険を感じるが、ここで逃げるわけにはいかない。


「お、お手柔らかに、ひとつ、お願いします」


「うんうん、大丈夫。コワいのは最初だけだよう、マッキーちゃん。僕にすべてを任せていいんだよ、グフフッ」


 絶対にこっちが本性だ! 牧人は歯を食いしばり、身体の震えを堪えた。


~~♡♡~~


「おっかしいなあ、どうして電話がつながらないのかなあ」


 すみれは自宅にもどり、部屋のベッドに寝転がってスマホを見つめる。

 牧人が真っ赤な外車でどこかへ出かける姿を、後方から発見してしまった。別に誰とどこへ行こうが、牧人の勝手である。あくまで幼馴染みで、バンド仲間であるというだけなのだから。


 そんなことは、充分わかりきっているのだ。昨日、美樹に胸の内を少し打ち明けてしまった。今考えると顔が赤くなる。だから牧人の邪魔をするつもりは毛頭ないんだけど、どうしても電話をかけたくなってしまった。


 用事? 特にあるわけじゃない。しいて言えば、バンドの音合わせの事くらいかな。


 牧人のスマホは「現在電波の届かない場所にいるか、電源が入っておりません」状態なのだ。やっちゃんの言葉が浮かぶ。新しいギタリストは、すごくチャーミングな女の子。


 だから、なに? 男子だろうと女子だろうと、ようはギターワークよ。マッキーとその子が親密な関係になっても、バンドでやっていける? バンドはバンド。音楽に恋愛は関係ないわよ。自問自答しながらすみれの気分は落ち込んでいく。


「カアーッ、アタシらしくないしぃ」


 言いながら、横に置いてあるクッションをバサッと顔の上に乗せるのであった。


~~♡♡~~

 

 牧人はズボンのポケットからスマホを取りだし、澄清に尋ねた。


「博士、この画像ってカメラでも撮れますか」


 澄清はニタリと口の端を上げる。


「グフフッ、亜津美チャンのなまめかしい後ろ姿を、写真に収めたいのかい?」


「い、いえっ、そうじゃなくてですね、亜津美さんが視ている幽霊を映しているこっちの画像ですって」


 澄清は左手の人差し指を立てて、横に振った。


「残念だねえ、マッキーちゃん。この部屋は霊着金れいちゃくきんで覆われているって言ったよねえ。

 霊着金は単純な金属ではないから、ほら見てごらん。携帯電話の電源が落ちてるだろう」


 言われて牧人は、スマホの画面が黒くなっているのを認識した。


「あらぁ、いつの間に」


「霊着金は霊体を付着させようとして、周囲の電波や磁場に多大な影響を与えてしまうんだよぅ」


 牧人はがっくりきた。この映像を写真に撮って、家で美樹に証拠として差し出そうと目論んだのであったが。


「さあ、亜津美チャン。次はマッキーちゃんに交代してみようか。どんな具合にマッキーちゃんに視えるのか、とーっても楽しみだなあ。グフッ」


「いかがでしたか、マッキーさん。幽霊っていいましても案外怖くはありませんでしょう」


 ゴーグルと麦わら帽子を取りながら、亜津美が振り返る。


「うん。なんだかフワフワして、海中に浮くウニみたい」


「そうですわね、確かに黒くてトゲトゲですものね」


 牧人はゴーグルを受け取った。博士から託された麦わら帽子をそっと頭上にかぶせる。

 ぴったり頭に乗ったと思ったとたん、シュンッと音がして帽子の縁が頭部に吸い付く。

 何の気なしに保管ボックスを振り返った。


「イッ!」


 牧人の顔が一気に青ざめ、カクンと腰が砕ける。


「あっ、あっ、あわわっ」


 声にならない押し殺した悲鳴が口から漏れた。


「ほう、寺子てらこ(生徒)の目には、いかように写っておるのかいなあ」


 蝶妙が言った。人形の髪が前後反対になっていることには、まだ気づいていない。


「この驚きかたは尋常じゃあないなあ、グフフッ。仮説のひとつに組み入れてやろう」


「あらまあ、マッキーさんったら。お疲れなのですか、床に座り込んでしまわれて」


 亜津美はしゃがみこむと、牧人の手からゴーグルをそっとはずした。


「うふふっ、マッキーさんのお顔、なにやら白粉おしろいでもお塗りになったみたいですわよ」


 牧人の耳には誰の声も聞こえてはいなかった。実際には聴覚は正常に機能しているのだが、視覚に全神経が集中してしまっているのだ。

 亜津美は、「失礼いたします」と言いながら、牧人のこめかみにゴーグルのツルを差し込む。澄清と亜津美は装置のモニターに目をやった。


「おやあ、これは」


「まあ、マッキーさんにはこのようにお視えになってらっしゃるのですね」


「おほほっ、そりゃあ腰も抜かすわいなあ」


 牧人は保管ボックスの中に悪魔の集団を視ていた。

 真っ黒なヌラリとした表皮、頭にはいびつに生える角が二本、真っ黒なつり上がった二つの眼球、耳まで裂けた口からのぞく黄色い牙、細長い手足をうごめかせて背中の羽根をさかんに動かし浮かんでいる。

 それが何十匹も。ホラー映画で記憶しているような西洋の悪魔そのものであった。映画のCGどころではないリアルだ。


「ヒーッ!」


 牧人は失神寸前の恐怖にかろうじて打ち勝ったのは、亜津美が腰を抜かした牧人の後ろにひざまずいて、そっと背中から抱いていてくれたからである。


「マッキーさん、大丈夫ですわ。ワタクシはですから、こうやってお守りさせていただきます」


 亜津美の体温が伝わる。当然大きく突き出た胸元が背中に当たっているのだが、今の牧人にはまったく感じなかった。


「大丈夫、大丈夫。マッキーさんの類まれなる想像力が、ああしてコワイものとして反射しているだけですわ」


 牧人は、やや落ち着きを取り戻していた。亜津美にはウニとして写った霊体が、牧人が「怖い怖い」と思って視た結果、本当に怖気の走る化け物として写ってしまったのだ。

 外来種という言葉が西洋風の悪魔をイメージしたのかもしれない。亜津美の温もりが、牧人に冷静さを取り戻させようとしていた。


「いやはや、これはむしろマッキーちゃんを被験者として今後実験を行ったほうが、面白いかも。グヘヘヘッ」


 澄清は牧人の視ている画像を録画している。


「あ、ありがとう、亜津美さん。ごめんね、取り乱しちゃった」


 牧人は背中を抱いていてくれる亜津美を振り返る。


「いいのですよ、マッキーさん。ワタクシ、こうしてマッキーさんとくっついているだけで、何やらまた心の臓が十六ビートを打ち出しましたわ」


 ポッと顔を赤らめて亜津美は視線をそらせた。牧人は急に現実に引き戻された。背中に当たる大きな胸の触感。あわてて起き上がる。牧人はゴーグルをはずし、麦わら帽子をとった。


「みなさん、すみませんっ」


 牧人は腰を九十度に曲げて詫びを入れる。亜津美の温もりが、まだ背中に余韻を残している。


「いいんだよう、マッキーちゃん。こちらは想定内だったけどさあ、でもあれだけの映像を視ながらよく耐えたよなあ。むしろそちらのほうを今後研究したくなっちゃったよう」


 澄清が感心したように言った。


「そうよのう。わらわも少々見直したわいなあ」


 蝶妙の言葉に牧人は頭をかきながら、ちらりと亜津美を見た。


(亜津美さんが後ろから支えてくれなかったら、もっと恥ずかしい醜態をさらすところだったよ)


 微笑む亜津美は、後光が輝いて牧人には写った。


「寺子よ、これが霊体であるぞよ。どうじゃな、コワいであろう。それでも亜津美の手伝いを申し出るのか? やめるなら今のうちに申せ」


 蝶妙が親切心で言っているのかどうかは、牧人にはわからない。確かにあんな化け物共を、タモごときで捕まえることができるだろうか。実際にこの部屋の保管箱に入れられている霊体は、亜津美が捕獲してきたに違いなのだが。


 亜津美は霊体を、ウニとして把握できるからいいが、牧人には怖気おぞけの走る悪魔として視えてしまう。もし出動の度にあんな不気味な悪魔にぶつかったとしたら、さらに寿命が十年縮まる。


 というか、霊体を捕まえるのが目的なのだから、悪魔に出会わなければならないのだ。しかし、せっかく新しいギタリスト(しかも超美形の)を向か入れることができる。牧人は頭の中で双方を天秤にかけた。答えは決まっている。


「僕は、やるしかないと覚悟を決めます」


「ああっ、マッキーさん!」


 亜津美は白く細い指で牧人の両手を握った。


「ワタクシ、とても嬉しいですわ。今までは独りで寂しい思いを胸に秘め、お仕事の為と頑張っておりましたけど。マッキーさんが一緒なら百人力ですもの」


「いやあ、そんなことないよ」


 牧人は照れながら、気づいた。両手の指先が紫色に膨らんでいるのを。亜津美の握力は美樹の数倍上ではないか。


「あ、あ、亜津美さんっ」


 牧人の引きつった声に、亜津美は気がついた。しかし、それは牧人が照れているもんだと勘違いしていた。


「いやですわ、マッキーさん。手をつないだくらいでそんな。おほほっ」


人気ひとけのない寂しい場所で、若い男女が二人っきりで、グフッグフッ。これも楽しみだなあ、フヒヒッ」


 澄清はチョウちゃんの首を回転させる。と、澄清が驚いた声をあげた。


「こ、これはっ」


 紫色の指をもみながら、牧人の心臓が高鳴った。


(まずい! 忘れてた)


 澄清は抱いたチョウちゃんの前髪が、顔を隠してることに気づいたのである。

 牧人は目を閉じ、(あちゃあ、万事休すっ)と覚悟する。


 ところが澄清は思わぬ言葉を発したのであった。


「やけに今回は髪の伸びるスピードが、速かったねえチョウちゃん、グフフッ」


 言いつつ、左手で垂れ下がった髪を優しくかき分けだしたではないか。


「えっ?」

 牧人は澄清の言葉の意味が、今ひとつ理解できていない。


「澄清よ、なにやら前が見えにくいのう。散髪してたもれ」


「承知したよーん」


 牧人が茫然とたたずむなか、澄清は装置類が並んだ壁際の引き出しから手術セットを取り出した。いったい何の手術用なのかは不明だが、金属のトレイにはメスやピンセットなどの道具が鋭い光を反射させている。

 澄清は手術用の尖端が短いハサミを取り上げた。


「お兄さまはとても器用でいらっしゃるの。動物の解剖も、ちょちょいって感じですわ」


 亜津美は説明する。


「じゃあ、いっちゃうよーっと」


 澄清は舌なめずりすると、右手で抱いた人形の垂れた前髪(正確には後ろ髪)に、左手でハサミを入れた。ザクッ、ザクザクッと牧人の耳に届く。


(ああああっ、やばいよっ)


 牧人は片手で顔面を隠す、


「ウヒョウッ、大成功だー」 


「あら、本当ですわ。さすがはお兄さま、見事に水平にカットされておりますわ。葉隠里はがくれざとヘアの完成ですわ」


「ほうほう、なるほどのう」


 人形の垂れ下がっていた髪が、躊躇ちゅうちょなく裁断された。


(絶対ヘンだってばれるよう。だって後頭部の髪も、前髪と同じ長さなんだから)


 牧人は床にへたりこんだまま、人形を見上げる。その横顔は、椎茸をかぶせたような爆笑してしまう髪型になっている。澄清も亜津美も、そして蝶妙もなぜか気づいていない。

 牧人はそこで、澄清の言葉を思い出した。


(そういえば、今回は髪の伸びるスピードが速いって言ってなかったっけ?)


 どういういことなのか。牧人は人形の髪をつかんだ記憶から、あれはカツラであることを知っている。


「亜津美さん」


「はい、なんでございましょう」


「さっき、博士は間違ったことを言われたような」


「えっ?」


「だって、ほら、あれは人形なんだから、髪の毛が伸びる事なんてないでしょ」


 亜津美はきょとんとした表情で牧人を見返す。


「もちろん、伸びますわよ」


「だろうと思った、えへへっ。エッ?」


「マッキーさんもワタクシも髪は伸びますでしょ。同じですわ」


 クスリッと笑う。


「に、人形の、髪が、伸びる?」


 愛らしい表情でうなずく亜津美。

 一瞬の間が空き、牧人の哀れな悲鳴が室内に響き渡ったのであった。


~~♡♡~~


 三人は保管室から研究室へ戻っていた。

 牧人は心身ともに疲れ果て、がっくりと椅子に座り込んでいる。なぜあんな怖い霊体を、視なきゃいけないのか。なぜ博士は実験というキーワードであんなに人格が変わっちゃうのか。なぜカツラなのに人形の髪が伸びてしまうのか。

 疑問符が脳内をが走り回っている。


「おや、マッキーくん。慣れないことで少しお疲れの様子かな」


 澄清がいつもの素敵な紳士に変わっている。


「いえ、もうここまで来たら、なーんかなんでもこいって感じですぅ」


 牧人はへたれこんだまま言った。


「さすがはマッキーさんですわ。どーんと来いなんて、男らしゅうございますこと」


 亜津美は横の席から目を輝かせた。 


「さあ、これでマッキーくんに捕獲対象物をご披露し、亜津美ちゃんのお手伝いをしていただけるとのことで、捕獲キットを差し上げるわけだ」


 牧人は机上に置かれた三種類を薄目で見る。


「では今日はこのあたりで解散としよう。お疲れさま」


「お疲れさまでしたわ、皆さま」


「はぁ、お疲れ、さんでしたあ」


「マッキーさん、ご自宅までお送りいたしますわ」


 亜津美は自分のセットを持って立ち上がる。牧人はぐったりとしながらも、目の前の道具を持った。


 牧人は昨日今日と、とんでもなく非現実的な時間にのみこまれていた。そのため、保管室で電源が切れたスマホも、そのままであったのだ。

 まさかすみれが何度も電話をかけてきているとは、まったく気づかなかった。


~~♡♡~~


 窓から差し込むオレンジ色の夕陽。すみれは腕を枕に、大の字になってベッドに横たわり口をとがらせている。


「やっぱり、やっちゃんの言う通りなのかな。昨日声をかけたばかりのギタリスト、いや、はっきり言って女子とお出かけして、今ごろ楽しんでいるのかも。バンドの話? 共通の音楽の話? それとも。

 たった一日だよ、一日。でも一日あれば、充分仲良くなれるよね」


 すみれは寝返りを打つ。


「アタシらしくないって、思ったけど。アタシってなに? マッキーにとって、アタシは幼馴染みでバンド仲間。

 やっちゃんには大きな口たたいちゃったけど、それってアタシの本心なのかな。本心だったら、どうして一日電話がつながらないだけでこんなになっちゃう? アタシ」


 すみれは何度目か、スマホを見つめる。


「クロスワードは、もうダメかな」


 大きくため息をつき、目を閉じた。その時、スマホが電話着信のメロディを流し始めた。

 すみれは濡れた目をこすりながら画面を確認する。


「やっちゃん」


 すみれは電話にでるが、尖った声ではなかった。


つづく

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