第26話 わからない男

もうだいぶ夜も更け、日付ももうじき三十分ほどで変わろうかとする時分。

冬風は妙に冷たく、闇はさらに濃く増していく。その情景が、今まさに暖簾を潜り現れた男にはよくよく似合っているような気がした。

俺も背は高いほうではあるが、かの男はさらに長身であり、しかしお世辞にも綺麗とは言えないコートを羽織っていた。ちょうど客も少なくなっており、席はどこかしこも空いている。だが、男は人気の席には座らず、あえて壁際を選び、そして座る。その座るまでの動作が、どこかピリピリとした緊張を感じた。

この時点で、なんとなく察するところはあったのだが、俺はあえて無視をする。そもそも、客に深入りなんてするものじゃない。どの口が言うか、と言われそうであるが。

「ええと、注文はなんかあるっすかね、旦那」

「……熱燗と、店長のお勧め、二、三本ほど」

「がってん承知」

とりあえず、俺は注文された品を用意する。まずは、やかんでほくほくと温めた熱燗。なかなかに渋い一品だ。ついで、焼き鳥を適当に見繕う。俺のお勧めと言われても、全ておすすめなので困りものだが、そのなかでも、昔俺が美味と感じたつくねとネギまを2本ずつ。味付けは、もちろん塩胡椒。これも俺の好みだ。

男は、先に出された熱燗を御猪口にとくとくと汲むと、一息に飲み干す。なかなかの飲みっぷり、まさに男を感じさせる仕草。俺は酒はどうも苦手なものだから、ああ言うのには憧れてしまうものだ。

しかし、やはりこの男の雰囲気は冷たいものを感じさせた。決して誰も近づけないような、いや、誰一人近づくことのできないような。彼がいるその席だけ、どこか別の世界じゃないかと錯覚してしまいそうになる。


あれは、やはりそうだろうな……。


焼き鳥を焼きながら、その男はそうだと思わざるを得ない。当初は昔の経験から、という身もふたもないものだったが、ふと香ったコートの匂いが、それを確信づけた。

そんな思考にふけてる間にも、焼き鳥は次第に焼けていく。それはもう、たかが数本でも店の中に美味しい匂いが充満するほどに。だが、その匂いに男が反応することは全くない。鼻をピクリともさせず、とくとくと再び注いだ酒に目を落としてる。

その目はやけに影を落としたような、暗い色をしていた。

さて、焼き鳥も焼きあがった。丁度いい焦げ目に、溢れんばかりの脂。これはたまらなく美味しいだろう。今日焼いた中でも、かなりの一品さ。その一品を、彼の前にことりと差し出す。

「つくね二本とネギま二本、いっちょおまちってな」

「ああ、すまないな、店主」

「おいおい、そこはありがとうと言ってくれた方が嬉しいっすよ俺は」

「……そうか」

そのまま、彼は焼き鳥に手を取り、そして食う。どこか、その食い方は大人しいが、一切れ一切れ、一噛み一噛み、まるで大切に味わうかのようなそれは、どこか好感が持てた。焼き鳥を食い、合間に酒を啜り、再び焼き鳥を食い、そして一息。すでに焼いた焼き鳥の半分が串のみと化していた。


「暖かいものを食ったのは、久しぶりかもしれないな」


ふと、男はそんな言葉をこぼした。その顔は、どこか懐かしみを感じているような気がする。

「なんつうか、あんた最近はちゃんとしたメシを取ってないっすよね。結構やつれてるように見えるっすよ」

「やつれてるか。いや、最近まで長いこと外国にいたものでな。そこではあまりメシを食ってはいなかった。せいぜい、乾パンくらいなものだ」

「乾パンって、随分とまぁ……」

「そもそも、メシなんてあまり考えてもいなかったからな、その時は」

男はため息をつきつつ、再び酒に手をかけた。顔はすでに赤みを帯びており、酔いが回ってるのか、妙に饒舌だった。

「酒も、久々に飲んだ。日本酒なんか、特に」

「そりゃ、外国にいたんならそうっすよねえ。外国で日本酒なんて、なかなか飲めるものじゃねえっすし」

「ああ。そもそも、酒なんて飲める状況でもなかった。どころか、酒も何も忘れて、ぼっとうしていたものがあったのさ。先日までの俺は、それだけが全てで、それだけしか見ていなかった」

それだけしか見えない。

俺は、なんとなくその気持ちが分かる気がした。俺もそうだから、一度それしか目に入らないと、それのみに突っ走る。昔はまさに、そんなガキであったのだから。

だが、彼の場合はつい数日前までそうだったのだろう。それしかなく、それだけしか見えず、盲目的にそれだけを……。

「それはそれで、辛かったはずなのだが……なんだかな、今考えてみると、その時の方がいくらか充実していた気がするんだ。何かそれだけに夢中になってる、その時の方が」

その時、男は初めてふっ、と笑った。しかし、それは微笑んでいるようなものでもなければ、可笑しいからというわけでもない。まるで、自分を嘲るような笑いだった。

「もはや、それも無くなった。ある意味では、それから解放された、と言ってもいい。だがさ、その後どう生きていいのかわからん。だから、生まれ故郷に帰ってきた。だが、帰ってきたところで、結局俺はどう生きていいのかわからんままだ」

そこまで語ったところで、男はぐいとさらに酒を飲み干し、残る焼き鳥に齧り付く。今度はさっきと違って、豪快に。そして全て食い終わった後、無雑作に勘定を置く。

「すまないな、こんな話を聞かせてしまって」

「いや、構わないっすよ。そういうことはよくある話っすから。それに、本当に悪いと思ってるのなら、また来てくれれば嬉しいっすよ。暖かい酒、用意して待ってるんで」

「……嬉しいことを言ってくれるな、店主」

そして男は席を立つ。そのコートの若干のヤニ臭さと、『硝煙臭さ』が鼻をくすぐった。


「なぁ、あんたやっぱり」


その言葉を発しようとした時、男は酷く冷たい目をこちらに向けた。それに触れるな、と言わんばかりに。

俺は、自分の首突っ込みたがりを酷く後悔した。あんなに聞くまいとか言っていたくせに、結局聞いてしまうのがこの俺だ。そして、他人の踏み入れて欲しくないところに踏み入る。

「いや……すまない」

「……別に構わない。ただ、この国じゃあまりそういうのは好まれないからな、口を噤んでくれると助かる」

「あ、ああ……」

「じゃあな、店主。また来る」

男は、最後に一言そう残して店から去っていく。

その背中は体格の良さとは対照的に、酷く小さく惨めに見えた。生き先がわからず、ただ闇に沈むしかないような、そんな小さな背中。


「どう生きていいのか、わからないか……」


だったら、少しくらい立ち止まって、休めばいいじゃないか。歩みを止めて、ゆっくりと休めば。

無闇にあの男の正体を聞こうとするよりも、そういう言葉をかけてやればよかった。もはやその背中は遠く、声も届かないだろう。

そんな後悔に佇む俺が、そこにいた。

黒く薄汚れたコートは、闇の中に沈み、そして最後は見えなくなった。

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