第24話 流しギターの老人
日も暮れて夜も深まる最中に響き渡るギターは、どこか懐かしい雰囲気を醸し出す。 その音色はお客さんや、俺ですらいともたやすく耳を傾けさけ、そして酔わせる。
そこに乗っかってくるのは少し低音の、しかしながらしんと心に入るバラード調の歌声。案外、ギターよりもこの歌声こそが真髄なのかもしれない、と思うほどに聞き惚れる。それこそ、頭の中でいつかのイメージが浮かぶほどに。
少年時代、夕陽の中を拗ねて歩く。誰も慰めちゃくれはしないが、陽が残す温かみがそっと頭を撫でる。
ああ、こんなこともあったっけな、なんて思うあたり俺も年を食ったか。
曲もクライマックスに入る頃には、店にいる皆が皆ギター弾きに夢中になっていた。そして、締めのギターが響いた時、店内に湧いたのは歓声と拍手。それほど人がいるわけではなかったが、それは確かに流しのギター弾きを称賛したものだったろう。
「いや、ありがたい事ですわ。いきなりギターを一曲どうかな、なんて押しかけたのにもかかわらず、こんなに拍手がもらえるのは」
ふふ、と笑いながらギターをしまうと、彼はカウンター席によっ、と腰をかけた。幾分か満ち足りた顔をしている。その顔は本来、俺の焼き鳥でさせるものなんだけどな。
「でも、本当に良かったっすよ、あなたの歌は。どっかでCDとかも出してたんすか?」
「いやいや、夢破れた男さ。CDなんて一つも出してはいないよ。しがないサラリーマンをして、今は悠々と年金生活だね。ただ、こうして歌うことが趣味の……さ」
少し遠い目を見せてから、彼はお冷やを一杯あっという間に飲み干した。そういえば、声もどこかガラガラである。もうだいぶ年なのか、一曲歌うだけでも喉をやられるらしかった。
「昔はもう少し歌えていたものだったが、よる年には勝てない、か」
その言葉とは裏腹に、悲壮感はどこにも見えず、むしろまあ仕方ないだろうという達観のようにも聞こえる。
「取り敢えず、こいつはおまけにしておきますよ。さっきの歌のお礼っすよ」
「そ、それは悪いよ。私はただ押しかけてギターを弾きに来ただけなのに」
「いや、こちらも楽しませてもらったんでね。これくらいは、さ」
そうして出したのは焼き立ての焼き鳥。自分でも美味そうだ、と思えるくらいに香りのいいものを選んだつもりだ。
「しかし、本当に私はギターを弾いただけだよ。それなのにこんな美味しそうなものをタダでもらうのは、やはり……」
「うーん……じゃあ、そうだな。どうしても金払う、って言うならそれを食った後に注文したのは取るから、それはおまけって事でどうだ?」
「ふむ……じゃあ、それなら貰おうかな」
と、ようやく彼は折れ、さらに見繕った焼き鳥を一本取ると、実に丁寧に食べていく。それは、本当に味わうように何度も口の中で咀嚼して、なおかつ美味そうに食っていくものだから、こちらの胸は余計に胸いっぱいになる。
「いやあ、美味しいねえ。胸にしみるよ」
「そりゃ、嬉しい言葉をどうも。でも、あんたの歌には敵わないよ」
「いいやそんなことないよ、これはね、本当に……美味いものさ。追加で、もう何本かいいかな。店長のオススメを何本か」
「あいよっ、爺さん」
言うやいなや、俺は何本かを見繕って、網の上にさっと置く。そいつの焼きは結構早く、もう脂の弾ける音が鳴った。
その後は、少々他愛ない話を交わしたり、彼の食べっぷりを眺めたりをした。彼の雰囲気はとても心地良く、いつも以上に饒舌になったり、彼の話を焼き鳥を焼くのも忘れて聞き込んでしまったものだから焦がしたりもした。流石に最後のは焼鳥屋としてどうかと思うが、それでも彼は笑って許してくれた。
「まあ、そんな失敗もあるさ」
なんて笑顔で言うものだから、本当にかなわない。
「しかし、40年ぶりの流しがこの店で、本当に良かったよ」
話題もだいぶ落ち着いた頃、彼は何気なくそう言った。
「40年ぶり?」
「ああ、そうさね。こうして店に出向いて、人に聴いてもらうのは40年ぶりさ。昔はよくやっていたもんだったが、夢破れた時にこちらもやめてしまったのさ」
「へえ、そうだったんすか……。じゃあ、結構今日も緊張してたんじゃないっすか?」
「いやはやお恥ずかしい。その通りですよ。ここに来るまでは正直演奏させてもらえるか不安だったが……何はともあれ喜んでもらえたなら良かったよ」
「いやあ、こちらこそ。またいつでも来てください、とも言いたいくらいっすよ」
「いつでも、か……そうさなぁ……だがな、そのいつでも、ってのはそうそうないもんさ……」
そう語る彼の目は、やはりどこか遠くを見ているようだった。そういえば、夢破れた男さ、と語っていた時も同じ目をしていたような……。
「いつでもは無い、ってどういう……」
「簡単なことさ、私はもう長くはないという話だよ」
その言葉に、多少なりとも俺の胸はどきんときた。対して老年の男は、大して気に留めることもなく、水を最後に一杯飲み干すとそっと胸に手を当てた。
「もう時期、私は入院するのさ。多分、もう二度と病院から出られないだろう」
「そ、そんな……いや、諦めるにはまだ……」
「いいや、もうおしまい、ってのは私が一番よくわかっているさ。わかっているから、今日はこうして、40年ぶりに流しのギター弾きなんてやったのさ。昔、中途半端で終わらせた夢の続きを、見るためにね……」
「夢の……続き、っすか」
「ああ、そうさ」
老人は空を見上げる。俺にはただの天井しか見えやしない。しかし、老人の眼に映るのは、それとは何もかも違う気がした。
「……夢は破れた。破れて、夢とは縁遠い暮らしをしてきた。しかしね……夢は見るものでもある。だから最後に私は夢を見にきた。叶わなかった夢のかけらを一つでも……おかげでさ、いい夢を見させてもらったよ」
そうニカっと笑うと、彼は残りの焼き鳥を彼はよくよく頬張った。
俺は、何も言えなかった。いや、慰めの言葉も、励ましの言葉も、この老人には似合わない気がして、口にするのを憚られた。
かの老人は、全てを受け入れ切っている。
受け入れた上で、自分のやりたいことをやっている。
だから彼には、俺の言葉など何一つ必要ない。むしろ、言葉をかけること自体がおこがましい。
それでも、俺の中にはどうにかしたいという気持ちがズンとのしかかる。相変わらずの、悪い癖さ。
「そんな顔をしないでくれよ、店主。……私はね、中途半端に終わった夢を、もう一度見れただけで、もう心が一杯なのさ。それに……この焼き鳥も旨かった。実に、旨かったさ」
俺の気持ちを察したのか、穏やかな表情と、温かみのある言葉を向けてくれる。本当に、この人は懐深い人だった。
「お釣りはいいよ。私は、別にもうお金なんていらないからね」
お札の勘定とともにでた言葉も、その懐の深さの一つだろう。そいつを卑下するのがどうにも憚られて、結局俺は全て受け取ってしまう始末。全く、俺という人間はどれだけ甘いのか、と自嘲の一つもしたくなる。
それでもにこにこと彼の笑顔を見るとこれでよかったのだ、と思うしかないのだった。
「では、これにて。……今日は本当に、ありがとう」
そんな言葉を残して、彼は行く。小柄な背中に、少し不似合いだけども妙ににあったギターを担ぎ、夜の街へと消えて行く。彼がこの夜の焼鳥屋に現れることは、もう二度とらないだろう。
最後の後ろ姿をよくよく眼に焼きつけて、俺は渡されたお札を握りしめた。
ぎゅっと、握りしめた。
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