第18話 母の日
母の日
焼鳥屋の店事情
俺に母親というものがいた時はなかった。
俺が生まれてすぐに母は亡くなり、それからは父親の一つ手でそだったからだ。だからと言って、母親が恋しいわけではない。むしろ、いないのが当たり前となっていたせいか、別段他人の母を羨ましいとは思わなかった。
大人になって、焼鳥屋の店主となってからもその点は相変わらずだった。俺にとっては母親という存在はあまりに未知で、少なくとも俺の中では空想じみたものと言っても過言じゃない。
時々、親父がいつか母と撮った写真をみるが、やはりなんの実感も湧かない。俺にとっては他人の一人にすぎなかった。
「あーあ、お母さんになにあげよっかなぁ」
焼き鳥の仕込みをしていると台所からそんな嫁さんのぼやきが聞こえてくる。
「何をあげるか? お前の母さんの誕生日はまだ先だろう?」
「何言ってるのよあんたは、来週は母の日でしょ?」
「ああ、母の日……か」
母の日、俺にはなんの実感も無い日。
「いやあね、あたしはまたカーネイションあげようかなって考えてるんだけど、いつもそればかりだったからさぁ、たまには別なこともしてあげたいなぁって思ってるのよ」
嫁さんの悩みというかそんなことを話しているのを、俺はただ聞き流す。俺がそんな話を聞いたところで、何になるわけでもないのだ。
母の日とはよく聞くが母のいない俺のことだ、何をするわけでもないししようとすらできない。ただ他人が母親に感謝の言葉を述べるのを、一線引いたところで見てるしかない。
「ちょっと聞いてるの!?」
べしんと後頭部に強い衝撃が走る。振り返れば嫁さんが不満そうに立っているじゃないか。
「少しは話を聞いたらどうなのよ。自分には関係ないから、みたいな顔をして」
全くもうとため息をつきながら、仕込みを手伝い始める嫁さん。
「まあ、アレよ。あんたもお母さん孝行とかしてあげたらどうなのよ」
「してあげたらって……俺に母親がいないことは知ってるだろ?」
「知ってるわよ」
「知ってるならなんで……」
「いい加減母親の墓参りとか行ったらどうなのよってことよ」
「は、墓参り……か」
その発想は、なかった。というのは、薄情かもしれない。
「けど、なんで今更……」
「だってさ、あんたの母親ってあんたを愛したから産んだんでしょ? それなのに一度も墓参りに来ないんじゃ、寂しいと思うよ?」
まるで知った風に言ってやがる。俺ですら、よくわかりはしないのに。
実を言うと、親父から母の話を聞いたことはあまりなかった。知ろうとも思わなかったし、親父も自分から母のことを喋ることはなかった。そもそも、仕事が忙しくてなかなか時間が取れなかった、というのもあるだろう。そのうち親父も死んで、母の話を聞くことはほとんど不可能になってしまった。
だからというわけではないが、やはり母親がどうして俺のことを産んだのか、とか嫁さんが言うように愛しているから産んだんだ、みたいのことはわからない。
「母さんのことなんて、なにもかもがわからないんだよ。なにもかもわからなくて、どうしていいのかわからない」
「ふうん……」
自分でも弱々しいと感じる言葉に内心苦笑する。実際そうだから仕方ない。嫁さんの言うように、いざ母親の墓参り行ったところで、手を合わせてそそくさと帰るのが予想つく。
「それでも、あたしは行ったほうがいいと思うよ。あんたのお母さんのためにも、そしてあんたのためにもさ」
投げかけられた視線はひどく真っ直ぐに突き刺さる。痛くて痛くて、しょうがない。
「すぐに亡くなったといっても、あんたにお母さんがいたんだ、あんたを愛そうとしたお母さんがきっといたんだよ。勝手なこと言ってるかもしれないけど、さ。行ってきてあげたらどうなのよ」
そういうわけで、今俺はここに来た。
母親が眠る、墓の前に俺は来た。
墓石は他のと比べてひどくこぢんまりとしている。小さくて、どこか可愛らしく見えた。そういえば、いつか親父と来たことがあったか。その時の親父の背中は、この墓石と同じように、どこか小さく見えて仕方なかった。
その親父ももうこの世にはいなくなり、あとは俺だけが残っている。この墓の中に眠る人を知らない俺が残ってしまった。
墓の前に、そっと俺はカーネイションを置く。母の日にはカーネイションを渡すらしい、というわけで持って来たカーネイションだ。
「……と言っても、俺にはやっぱりわかんねえな」
感謝もなければ親愛もない。
ただ、来てみたというだけ。本当にそれだけのことだ。やっぱり全て俺の予想通りだ。ぜんぶよそうどおりに軽く終わってしまうのだ。
「ここで何かくっちゃべろうと思っても、独り言にしかならないしな。どうせ、俺が呼んでもあんたは答えてくれないんだろ?」
当然のごとく、墓は何も答えてはくれない。ただ沈黙しかそこにはない。いくら墓参りに来たところで、そこに母さんがいるわけではないのだ。
もう、俺の母さんはどこにもいない、そういうわけだ。
母の日、とは言ったものだけれど、今までと変わらずやっぱり俺にはどうでもいい一日だったようだ。
俺は最後に手を合わせて、それからそこを後にした。何も変わらず、何も無く。
やはり俺にとっては母親なんて空想以外の何物でもなかったのだ。触れることすらできない、空虚じみたもの。
けれど、ほんの少しでも母と触れ合っていたなら、母の愛を知っていたならそれは違ったものになったのだろうか。
「母さん」
と、呼んだ声はどこかも知らないところに飛んでいった。
聞こえたか、聞こえてないか。
届いたか、届いてないか。
ただ、母さんの声はどこからも聞こえなかったのは、確かだった。
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