第16話 逃げてきた男
「ここで働かせてくださいっ!」
と一人の男がやってきたのは、桜も散り散りとなった四月末の頃だった。
吾妻友彦と名乗ったその男、身なりはどことなく貧相で、表情も不安げ。しかし、眼だけはどこか真っ直ぐに感じられた。
しかし、俺の店はバイトの募集なんてしていないもんだから、こうして働かせてくださいと来るのは不自然だった。だからか、ついつい変にこの男のことを勘繰ってしまう。
「おいおい、俺の店は別に人を雇う予定なんてないし、金もあまり払えないぜ?」
「それでもいいんです、置かせてください、お願いします……!」
頭を何度も下げて頼み込もうとするその必死さは、不自然さを余計に際立たせる。
なんだろうか、ここで働きたいというよりかはここしかない、そんな気がしてならない。
一体どうして、そのここってのが俺の店なのだろうか。いくら考えてみても、到底見当なんてつきはしない。そもそも目の前の男になんの心当たりもないのだから、無駄な推察と言ってもいいかもしれない。
しかしよくよく見てみれば、彼は何か面倒ごとを抱え込んでいる雰囲気を醸し出している。不安げな表情も、そこからきているのかもしれない。
ここは、頑として断るべきだろうか? 余計な事に関わったら痛い目を見るというのは、昔から身に傷をつけてまで学んだ事だ。
だが、俺というのはどうにも甘いらしい。
「おいあんた、そこまでして働きたいんなら、注文とか、それくらいはできるんだよな……?」
「は、はい! できます! できますともっ!」
表情は花開くように明るくなり、しかも涙まで浮かべる始末。そこまで感涙することあるか?
少し滑稽に思えたが、より滑稽なのは俺のお人好しの方かもしれない。
だが、結果として友彦を雇ったのはそこまで悪いことでもなかった。
「オヤジさん、また注文きましたよ!」
「おう、どんどん注文もってこい!」
彼は元来真面目だったのか、仕事となると人一倍真摯に打ち込んでいた。俺が習得するのに何年もかかった営業スマイルを俺よりも駆使しており、地味に客とコミュニケーションを取るのもなかなかに上手く、これがまた評判がいい。
「あんたはあそこまで行くのに結構かかったのに、あの子は本当にいい笑顔を使うねぇ」
と、横で嫁さんはニヤニヤする始末。そんな目で見てくれるな、やめてくれ。
まあでも、店に明るい雰囲気が増したという事実は否定のしようがないし、むしろ嬉しい限り。ここ数日は彼のおかげで売り上げも伸びている。これは、給料も弾まないといけないかな、そんなことも考えるようになった。
「オヤジさん、また注文が入りましたよ! あれとそれとこれです!」
「おうおう、どんどん来いっつーたけど、ちいときすぎだな!」
「まだまだいきますよー!」
こんな風に、忙しさも彼がきてほんの少し上がったような気もしてならない。忙しい、ってのはそのぶん働きがいもあるってもんだけれど、これ以上は勘弁してほしいもんだ。なんて苦笑しても仕方のない話なのだろうが。
そうして毎夜は過ぎていき、彼を雇ってからそろそろ一ヶ月が過ぎようとしていた。ふつうならサボり始める頃合いだろうが、彼の働きっぷりは相変わらずだ。
「始めはどうなるかと思っていたけれど、あの働きっぷりならそんな心配もいらなかったかな」
「そうだねぇ……。でも、なんだろう? あたしはなんとなく不安を感じちゃうところがあるんだけれど……」
「不安? あれのどこが不安だってのかよ?」
俺から見ると、不安よりもむしろ給料をどれくらい渡そうかって気分になっていたのだが。しかし、嫁さんはどうにも思案げな顔で彼の働きっぷりを見つめていた。
「……まあ、アレだよ、気のせいならそれに越したことはないんだ。あの子はとてもよく働いてくれてるし……」
「そうだよ、気のせいだって。変に考えても仕方ねえだろ。ほら、俺たちも働くぜ」
「あいよ、旦那」
だが、俺は楽観的に考え過ぎていたのかもしれない。
つくづく俺は、甘過ぎた。
それは、ちょうど嫁さんや友彦と一緒に、焼き鳥の仕込みをしている時分だった。
「おらぁともひこぉ! いるんだろぉ?!」
突然、店の方に鼓膜が破けそうなくらいの怒号が響き渡る。
一体なんだと奥の方から見てみると、大柄の男と数人の取り巻きがいるのがうすらと見えた。男の方は腕組みをして仁王立ち、雰囲気からしてヤのつく人間の様相だった。その他取り巻きは、姿形こそ普通だが、目だけはギラギラと血走っている。
しかし、それよりも気にかかったのは、あいつらが呼んだ「ともひこ」という名前。まさかと思って振り返ってみると、友彦の顔は完全に青ざめ、歯はがちがちと震えている。
なんとなく、事態は飲み込めた気がした。
嫁さんに目配せすると、あいわかったというように頷き、友彦を店に併設してる自宅へと連れて行こうとするが、友彦は頑なにそれを拒む。
「い、いいんです……。このまま、あいつらの元に……じゃないと」
「俺たちに迷惑かけるから、か?」
少しの間の後、友彦は弱気に頷いた。滴がぽたりと落ちていく。
ああ、ほんとこいつ、いいやつだな。いいやつで、背負いたがりだ。
そんな男の頭に、俺は優しげに手をポンとおく。
「心配すんなよ、俺はこう見えてもああいう奴ら、何度も相手にしたことあっから」
と、がしがしとかき撫でた。すると余計に友彦は涙を目に溜め、その体を震わせる。
「ありがとう……ござい、ます……!」
「もう泣くなって。俺がケリをつけてきたるから、任せとけ」
にっと自信満々に親指差して、格好をつけてみせる。嫁さんの少し生暖かい目が気になったが、ここで格好つけなきゃ男がすたるってもんだ。
そして泣きはらす友彦を嫁さんが連れて行くのを見届けてから、ようやく俺は中々にヤバそうな奴らの前へと姿を見せた。いざ目の前に立ってみると、プレッシャーが半端なく感じるがそこは男、竦むわけにはいかない。
「ええっと、俺の店に何か用っすかね?」
「用も何もねえよおっさん、ともひこっちゅーやつがここにいるんだろ。早く連れてきてくれな。俺らはともひこの家族で、ずっとあいつ家出してるんで、探してたんだよ」
男はガンをつけ、圧するような口調で要求する。しかも、さらに追い詰めるように取り巻き達が俺の周りへ囲みつつある。
「あのっすねぇ、家族っていうなら何か照明できるもんとかあるんじゃないっすかね。うちが雇ってる人間を得体の知れないやつに渡すわけにはいかねえんすよ」
「得体のしれないぃ? 得体の知れないだトォ?! 俺が家族だってんだ、それ以外何物でもないだろぉが! つべこべ言わずさっさと出さんかい!」
血相を赤くして俺の胸ぐらをぐいと掴み上げる。チラリと見えた腕の刺青は、友彦をこいつらに明け渡すのはマズイと確認するには丁度良かった。
「……あのっすねぇ……あんまり俺も気が長い方じゃないんすよ。訳の分からないことでこうして脅すんなら、こちらもこちらで考えがあるんすよ……」
「訳分からないといいてぇのは俺たちの方なんだよおっさん! あんまりグズグズしてると、この店潰しちまうぞ!」
潰す。この店を……か。
「んなこと……させるかよ」
胸ぐらを掴むその腕を、逆に掴み、握る。
確かに力は強いが大したことはない。こんな胸ぐらをを掴む程度の腕なら、簡単に握れる、握り潰せる。
さすがの男もこれには驚きを隠せなかったらしい。冷や汗が垂れるのが目に見える。それもそうだ、自慢の腕が簡単にとられ引き剥がそうとしても全く動かないのだ。
まあそれもこれも、俺がこういう相手を若い頃に相手にしまくった、というのがある。早々引き下がるわけはねえし、逆にやり返した方が数が多い。
要はとうに修羅場は踏みすぎるほど踏んできた、それだけのことだった。
「わかったろ。だから今日は帰ってくれ。帰らなければ、この場ではっ倒してもいい。俺ぁ、この辺じゃかなり名が通ってるんだ、あんたくらい捻り潰すことはできらぁ」
男は顔を歪めているが、まだ止まるつもりはないらしい。その証拠に、もう一方の拳がギシギシと唸っている。が、
「もうやめな!」
と、野太い声が男を途端に制止させた。
彼の後ろから現れたのは、背は少し高いが肉もよくよくついたおばさんだった。だがこんなヤクザ風の男や、目を血走らせた奴らが彼女の一声でぴたりと制止するあたり、おばさんと言っても侮れない。
「ふん、いい度胸だよあんた」
俺をまじまじと見て、ふんと鼻を鳴らす。
まるで品定めを行うかのようだった。相手の力量を計り、そしてどう出るか、そんなことを思案しているような顔だ。
そして、最後に舌打ちをすると、男達に下がるように指図する。
「今回はもういいよ。邪魔して悪かったね。でもね、今度はタダじゃ済まさないよ。いいね、わかったね。じゃあお前ら、帰るよ!」
まさに「ドン」という風格を醸し出しながら、ヤクザ風の男や取り巻きたちを連れて店から出て行く。
男は出る間際に、苦杯を舐められたかのように俺をにらみ返すが、もはや負け犬の遠吠えにしか過ぎなかった。
兎にも角にも、嵐は去った。少しばかり激しい嵐ではあったが、何も壊されずに済んだのは不幸中の幸いなのかもしれない。
取り敢えず、あとは友彦をどうするか考えないといけない。あいつは真面目だから、俺たちを巻き込むまいと店をやめるかもしれない。それに、これがどういうことなのか、せめて知っておくべきだろう。
嵐がまた来ないとも限らないんだ。大切な従業員を守るには、それ相応のことをしないといけない。
もうかつてのように何も持たない若者では無い。一人の店主として、従業員一人だって守っていかなきゃいけないから。
そんな決意を、コップ一杯の水とともに腹のなかに飲み込んだ。
……のだが。
「い、いなくなっただぁ?!」
目の前の事実に、俺は唖然とするしか無かった。
あの後、嫁さんと一緒に備え付けの自宅へと避難した友彦は、嫁さんが目を離してしまったすきに逃げ出してしまったというらしい。それは丁度俺があの集団を追い返した直後であったという。
急いで友彦が下宿してるはずのアパートへ行ってみたが、時すでに遅く彼は部屋を引き払ってしまった後だった。
大家さんが言うには、毎日何かに怯えているようで、カーテンも閉めっぱなしだったという。ただ、俺の店に働いて帰ってくるときは、どことなくその不安を忘れているような気がした、とか。
しかし、やはり友彦が雲隠れしたという事実は、唖然する以外にどうしようもなかった。
でも、考えてみればそういう選択もないわけじゃない。
しかも、状況が状況だ。目の前に迫った危機から逃げ出すのもまた一手であるのは事実だ。
「でも、なんの事情も話さずに出ていかれるのはなぁ……」
「何か打ち明けてくれたなら、あたし達も力になれたはずなのに……」
友彦が住んでいたアパートの帰り道、俺と嫁さんは暗がりの道をとぼとぼと歩いていた。足取りが妙に重たい。一歩歩くのも億劫になる。
「……友彦さん、大丈夫かな」
「大丈夫だと信じるしかねえよ。今の俺たちには、そんなことしかできねえよ」
「……そっか」
「ああ……」
力無い溜息が溢れる。行き場のない気持ちが、胸の中でとぐろを巻いていた。
なあ、友彦。俺たちじゃお前の力になれないって言うのかよ。
そこにもういない友彦にいくら叫んでみようと、その言葉が友彦に届くわけがなかった。
その後、友彦の行方は俺にもわからなかった。あいつらもあれ以降、俺の店に来ることはなかった。
結局、何もかもがわからないまま、俺たちは振り回され放り出された。
何も、できなかった。
ただ一度だけ嵐が来て、過ぎ去って、それで終わったという感じだ。後に残ったのは一抹の侘しさだ。
ガキの頃なら、何が何でもこの事件を解決しようと奔走したかもしれない。いや、必ずや奔走するに決まっている。それが俺という人間だった。
しかし、今はもうガキじゃない。守らなきゃいけない家族がある。背負わなきゃいけない店がある。
大人となってしまった今、俺は目の前の事ばかりに夢中になっていられない。もはや俺だけでどうにかするという時代はとうの昔に終わっている。
だから、友彦や友彦に関わる奴らに関して、手を出すことはもう無かった。
「それで、あんたはいいのかい?」
夢中で焼き鳥を焼く俺に、嫁は心配そうに言葉をかける。
俺の無茶をよく知ってる嫁からすれば、多少の融通はきかせるだろう。けれど、もう三十路近くにまでなって、そんな世話はかけたくない。
「……いいんだよ、それで」
俺はそれだけを零して、今日最後の焼き鳥を焼く。手が妙に震えるのがうざったい。
「あんたも、大人になったんだね」
「るっせえ」
そんなことを呟きながら、ほおに伝っていく冷たいもの。
きっと、焼き鳥を焼いた煙が沁みただけだ。
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