第14話 甘えん坊


俺は母親というものをよく知らない。というのも、生まれてすぐに母親が死んでしまったからだ。

元々体が弱い人らしく、子供産むこと自体が命懸けでもあったという。それでも、彼女は俺を産んでくれた。

ただ、死んじまったら意味がねえじゃねえかと、俺は言いたいわけだが。

そんなこと言えるはずもなく、結局このかた俺は母親代わりと言える人も現れることもなく、こうして大人になってしまったというわけだ。

こんなだから、もし母親がいれば、と考えることがある。その時は、決まって俺の人生ももっとまともだったかもしれないとは何度も思ってしまうのだ。例えば、俺が一時期人生を踏み外しそうになった時に、必死に止めてくれたのかもしれない。例えば、俺が苦しいとき必死に慰めてくれたのかもしれない。

けれど結局は、「もし」、に過ぎない。

俺には最初から最後まで、母親はいないのだから。

そして母親がいないから、甘えるということを、全くと言っていいほどしてこなかった。できなかった。



「なーんて色々言ってはいるけれど、今は甘えるところがあるでしょうに」

嫁さんは呆れた風に焼き鳥を食べる。

午前一時。もう店も閉まって、客は一人も来ない時間。普段はもう寝てしまう時間なのだが、今日に限って、俺と嫁さんは晩酌を共にしていた。

「甘えるところがある、って確かにそうだけどなぁ……」

「何? もしかして甘えることが恥ずかしいの?」

俺の曖昧な言葉に、じとりとした目でつっついてくる。おお、怖し。

まぁ、甘えるところというのが目の前の嫁さんなわけで、しかしながらどことなく抵抗を覚えるのだ。長い付き合いではあるのだけれどな。

「ま、男の人からしたら甘えることにあまり積極的にはなれないよね」

「そうなんだよなぁ……」

「ぶっちゃけあんたは自分が甘えさせてやるぜって感じだわ」

クスリと笑うと俺には飲めない酒を追加していきつつ、自前の漬物に手を伸ばす。そんなに食ったら太るのではと思ったが、口には出さない。

しかし、甘えさせてやる……か。こんなこと言うのもなんだが、本当に色んな人に甘えさせてあげているような気がする。焼鳥屋という職業をやっているせいかもしれないが、色んな人の背中を撫でて、押してやってきた。指では数え切れない。今思えば、やるもやったりという感じもする。

「あんたはホントに、お人好しなんだろうねぇ」

顔を赤らめて言う嫁さんの言葉が、妙に的を得ていた。本当にその通りなので、俺は苦笑いする他ない。

湯のみに注いだ熱い茶を飲む。熱すぎて、舌が少しひりっとした。

「ほらほら、余所見して飲んでるからそうなるんだよー」

指でツンツンと俺を子供みたいにつつく。本格的に酔ってきたらしい。そういえば嫁さんは絡み酒だったっけか。めんどくさくなりそうだ。

冷水で舌を冷やし、すでにぬるくなってしまったお茶に口をつける。程よい苦味が口に広がった。

と、同時に嫁さんの腕が俺の首に絡みついてくる。次に足、そして体も。

「……なんだよ」

「あたし、絡み酒なの知ってるでしょ?」

「知ってるけどさ……」

「あんたが甘える甘えないうるさいので、甘えていこうと思いました」

そう言うと、呆れて物いう隙も与えず、キス。舌まで入れてきて、おれの舌に絡みつかせる。ついでに酒まで移してきた。

だが、俺は受け入れた。飲めない酒も、嫁さんの欲求も、受け入れることにした。

たまには、いいだろう。

嫁さんの華奢な体に腕を回す。 熱の高まる身を押し倒す。

「じゃあ、俺も甘えていいか?」

「甘えていいに決まっているじゃない。あたし達夫婦なんだよ?」

「それもそうだな」

今度は、俺から口づけを交わす。力一杯、交わす。


そこから先は、大人の時間だ。


「あんたが、こんなことしてくれるの久しぶりね」

「たまにはいいじゃねぇか」

「いいわよ。あたし、嬉しいもん」

「ふん、そりゃいいことで」

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