第13話 少年は来た
午後六時、秋になると店を開けるこの時間のうちには日は沈み、闇がもう直ぐそこまで迫ってくる。秋風は妙に肌寒く、上にもう少し服を着なければと思う頃になってきた。今年も熱燗が美味しくなる時期かと思いつつ暖簾を掛けてると、早いうちからお客さんがやってきた。しかし、そのお客さんは随分大人しい男の子。
「やあ、今日も来たかい」
男の子はうなづいた。
その子はここ一ヶ月ぐらい、この開店の時間に来ては結構多くの焼き鳥を買ってくれる常連さんだった。
俺が暖簾を掛け終わると一緒に店の中に入る。とことこと可愛い歩き方をしていた。
「今日はなにがいいか?」
「えっと……、ねぎまがいい。二本」
「よし、ちいと待っててくれよ」
俺はそう告げて仕込み終わったものから五本見繕う。そして既に火を付けて温めておいた網の上にそれらを乗せていく。
「え、えっと」
それを見た男の子は、ちょっと気まずそうに何かを言おうと口を開きかけた。けれどもどこへ行くともなく言葉は消えて、口は閉じられた。
「気にしなくてもいいさ、残り三本はオマケだよ。毎日来てもらってるから」
俺がそう言うと男の子は安堵の表情でお冷を飲んだ。
焼き始めから五分ほどで焼き鳥は焼きあがる。芳ばしい香りを醸し出すそれをパック詰めにして、ビニール袋に入れて男の子に手渡す。
「いつもありがとう、おじさん」
と男の子は代金を手渡した。
「いいってことよ。こっちだっていつも来てくれるから感謝してるよ」
「へへへ……。また、明日もくるね。それじゃ」
「おう。夜道は気をつけるんだぞ」
夜の人混みの中に消えていくちっぽけな背中を見送って、俺は一息ついた。
「最近来る男の子、何かあるんじゃないの?」
「は?」
店が終わって一息ついていると、嫁さんはなんだか心配そうな様子で尋ねてきた。
「あの子って歳の割には結構痩せっぽちだし、背も低いからなんだか不安になるのよ」
「……そういえばそうだな」
向かい合って座った嫁さんにお茶を淹れながら、今日も来た少年のことを思い出す。
あの子はそれなりに目はかけていた。子供の客は珍しかったし、なにより焼き鳥をやると嬉しそうにするもんだから、ついおまけをつけたものだ。ただ喜ぶ顔に目がいきすぎて、嫁さんのいうところには全く気づかなかった。
嫁さんは細かいところは気がつく人だ。だからこういうところが、気になるのだろうか。
「なーんかさ、引っかかるんだよねえ……」
何か心につっかかりがあるような、そんな声だ。
「……あんまり突っ込んじゃいけないような気もするけどね、やっぱり気になるのよ」
「そうか」
人の家のことに他人がズカズカと踏み込むのは迷惑なことだろう。そうだとわかっていても、気になることは気になるものだ。
焼き鳥を頬張りつつ、どうしたもんかと思案する。俺は頭が悪いもんだから、何も浮かびはしないんだが。
結局この話はそれだけで終わってしまった。
だがもう既に、この時点では遅かったのかもしれない。
それは翌日の丁度正午を過ぎたところだった。
嫁さんが昼飯を作り終わるのを、仕込みをしながら待っていると激しく戸を叩く音がする。なんだろうと思って開けてみれば、息を切らして顔を真っ青にさせた少年がそこにいた。
「お、おじさん……妹が……」
それだけ言うと、そのつぶらな目から大粒の涙が零れ出す。
「お、おいどうしたんだよ」
少年の肩を掴んで何度何度も尋ねるが、少年の言葉に泣き声が混じってよくわからない。しどろもどろと困惑していると、ちょうどいいタイミングで嫁さんがやってきた。
「なんか騒がしいけど……ってどうしたの?!」
「俺にもよくわからん!」
「取り敢えずその子かして!」
慌てて少年に駆け寄りその胸に抱いた。背中をさすって、どうしたの、大丈夫だから、って言う姿はどこか母親を連想させる姿だった。
そうしてようやく落ち着いた少年は、
「妹が寝たまま動かない」
と言葉足らずにそう言った。
俺と嫁さんは顔を見合わせる。確実に、マズイ事になってしまったと直感した。
俺たちはすぐに少年の家に向かった。少年の家は駅の近くだという。走ればそう大した距離ではないのだが、何故だか遠くにあるように思えた。空を覆った雲はどんどん濃くなっていた。
着いた先はボロいアパート。少年の部屋は二階の一番はじにある。ドアの前まで来ると、少年を嫁さんに任せてガチャリと開けた。
「……っ」
玄関はおろかキッチンも、居間までもゴミの海が広がっていた。足の踏み場も少なく、こんなところで暮らしていたのかと思うと背筋が震えた。込み上げてくる何かを抑えて前に進んだ。
冷蔵庫は開きっぱなしで何もなく、洋服は汚いまま放り置かれている。親はいったい何をしてるのだろうかという怒りがふつふつと湧いてくる。その怒りが頂点に達したのは、それを見た時だった。
「……おいおい、こりゃねえよ」
そこにあったのは瘦せおとろえて、布団に伏していた一歳ほどの女の子だった。寄ってみてわかる、この子はもう死んでいるんだってことが。
愕然として、膝をついた。
ふと目に入ったのは、少年が買った俺の焼き鳥の串とそれを入れたパックだった。
その後、嫁さんに警察を呼んでもらって、少年は保護された。親は依然行方不明。共働きをしていたようだが、夫のほうが家族を見捨てたようで、母親もそれときっかけに子供達をないがしろにし始めたという。そして一ヶ月前に家を出たきり帰ってないとか。
妹の遺体も回収され、司法解剖した結果誤って焼き鳥を食べて喉に詰まらせた窒息死だったという。少年の証言によれば、ミルクも離乳食もなくなり、泣き声が大きかったので、いつもより多めに貰った焼き鳥を食べさせたという。
「不味い」
その事件の顛末を聞いたあとから、自分の焼き鳥が美味しいとは思うことはできなくなっていた。何度も何度も焼いても、自分の焼き鳥が美味しと思えない。自分の焼き鳥のせいで人が死んだと聞かされたら、そうなってもおかしくないだろう、なんて。
それでも生活のため来る客のために焼き鳥を焼いていたが、自分が美味しくないものを出すということが本当に苦痛でしかなかった。
「あんたのせいじゃないよ……、何て言っても無駄だよね」
閉店した店の中で独り、飲めない酒を飲んでいると嫁さんがやって来ていた。
「うるっせえよ……」
回る頭で酒を注ぐがコップには入らず、カウンターの上に染み込んでいく。
「もう、そんなに飲んじゃって……」
酒浸りな俺を見かねつつも、溢した酒を台拭きで拭き、酒はちゃっかり没収する。
俺はどうしようもなく呻き声と泣き声が混じったような、そんな声をあげていた。自棄になっていたのかもしれない。ただ自分が自分でなくなってしまえばいいような、そんな気分だった。
「俺ぁ……もう焼き鳥を焼けねえかもしんねえよ」
これは、泣き言だ。
「なんかもう自分の焼き鳥が美味えと感じねえし、そんな焼き鳥を焼いてる自分も嫌なんだよ……。でも、どうしようもねえんだよ……」
嫁さんは黙ったまま俺の泣き言を聞いていた。そして、それが終わるとおもむろに後ろからぎゅっと俺を抱きしめる。そして、母親が小さな子供をあやすように頭を撫でた。
俺はその痛くて暖かい優しさに、甘えることしかできなかった。
それは翌日のことだった。陰鬱な気分を残しながら、いつものように暖簾をかざし店を開けよう、丁度その時だった。
「こんばんわ、おじさん」
聞き覚えのある声だった。驚いて振り返ると、あの少年がいた。立ち竦んでいると、引率の大人の人がわざわざすいませんとよくある挨拶を述べる。それを右から左へ聞き流すと、引率の人はぺこりと頭を下げて、少年には車で待っているからと言ってそそくさと何処かへ行ってしまった。
もう会うことはないだろうと思っていた。だから、今のこの状況では口をぽかんと開けることしかできなかった。
「久し振り、です」
沈黙に耐えかねたのか、少年はあどけない声でそう言うと、店の中に入りさっとカウンター席に座った。そこではっと我を取り戻して、慌てて俺も店の中に入り、注文を取る。少年が頼んだのは、彼がよく頼んでいたねぎまだった。仕込んであったのを三本ほど見繕って焼いていく。
初めは沈黙しかなかった。何か話そうと思ったけれど、言葉が口から出ない。躊躇っていた。ただ、脂が弾ける音しか俺には聞こえてなかった。
「……ありがとう、ございました」
その言葉に、顔を上げる。少年は頭を下げていた。
「お、おい、礼なんか言われる筋合いはねえよ。何もできなかったんだし……」
「おじさんは、僕に優しくしてくれたでしょ?」
健気な面持ちを見せて彼は言った。
「焼き鳥だって、沢山くれたでしょ? 妹を助けてくれようとしたでしょ? 僕、嬉しかったんだよ。優しくされたことあんまりなかったから」
心地いい焼き鳥の香りが、店内に漂い始めた。俺の視界がどうもぼやけている。焼き鳥の煙のせいだろうか。
「だから、ありがとう」
少年は笑顔だった。
「……俺、何もできていなかったんだけどな……」
「そんなことないです! お、おじさんの焼き鳥、美味しかったから!」
それは深く、心底深く心に刺さった。ぽたりと落ちるものをもう抑えることはできず、柄にもあわず泣いた。大泣きだった。少年は慌てて俺を心配するが、俺はただただ、ありがとうを繰り返すしかできなかった。
ようやく落ち着いた頃、放って置かれたねぎまは焦げており、また新しいのを焼く羽目になった時は少年と二人で馬鹿らしく笑った。
焼きあがったねぎまを俺は出す。それを少年はほくほくと頬張っていた。本当に美味しそうに食べるもんだから、俺も久しぶりに自分の焼いた焼き鳥を食べてみた。久しぶりに、美味しいと思えた焼き鳥だった。
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