第3話 ねぎま
「マグロを、仕入れたい」
焼き鳥屋の店主もとい私の夫が、真剣な面持ちでそんなことを言うので、私は茫然自失だった。
「…海鮮丼でも作るの?」
「チゲェ!」
恐る恐るボケをかましてみたけれども、どうやら夫自身はボケてはいないらしい。いや、ボケているわけがないか。
私は取り敢えず夫に向き直り、訳を聞いてみた。彼は説明が下手くそなので、理解するには少々頭を痛めなければならないが言っていることは至極簡単なことだった。
曰く、本当のねぎまを作って、出してみたいらしい。
「本当のねぎまとマグロがどう関係あるのよ?」
当然こんな質問が浮かぶだろう。
夫はフッと笑って、自慢げに語り出す。それはもう憎たらしくなるぐらいに。
「実はな、ねぎまってのは本当はマグロを使っていたんだよ。マグロの間にネギを刺す。だからねぎまってなまえにもなったんだよ。それが何故鶏肉なったのかっていうと、マグロが手に入らなかったというのが大きいらしい。代わりに白羽の矢が立ったのが鶏肉らしいぜ。それでだな……」
久々に雄弁になっている夫を、私はきっと冷めた目で見ているだろう。悪いのだけれど、私はそこまでねぎまに興味はないのだ。そんなことを解説されても、右から左へと流れていってしまっている。
どうせ話すなら自分のおやっさんに話せばいいのに、とも思わないこともなかった。
しかし、言いたいことはわかった。わかったけれど…。
「できるの? それ」
「ゔっ」
まるで心臓に槍が突き刺さったかのように彼は悶える。これで全てを察することができた。
「考えなしに取り敢えず話してどうにかしようって癖、本当に直らないわね」
呆れ代わりに、手元にあったお茶を一息に飲み干す。それを机にとんと置けば、氷がカランという小気味いい音を立てた。
「大体さ、マグロだって馬鹿にならない値段をしているのよ? それに仕込みはどうするの? 焼き鳥だけでも結構精一杯な感じまでやってるじゃない。それにマグロの仕込みまで加えたらおっつかなくなるのわかるでしょ!」
私の言葉は夫にとっては雨あられの銃弾だろう。夫のハートを容赦無く蜂の巣にし、グロッキーの状態まで打ち負かした。
でもこうでもしないと夫は止まらないわけだから、私は心を鬼にして言うのだ。仕方ないと思って欲しい。
夫はそのまま打ち拉がれたままだった。私はもうこれ以上はこんな事を言わないだろうと思い、台所に行って諸々の洗い物を済ませようと思った。
だがしかし、その時になって打ち拉がれていたはず夫が這い上がろうとするではないか!
「……でも、俺に…焼き鳥屋に…男にとって……‼︎ …できなさそうな事でも……やらなきゃいけない事があるんだよ…‼︎」
何を言ってんだこいつは……!
その姿に、言葉に、熱い魂がこもっているのは感覚でわかった。けれど、それ以上に馬鹿すぎる! ただ馬鹿すぎるという思いが、私の脳に波紋を広げた!
そこから始まるのは戦い。冷める魂と熱き魂が口論という形を借りてぶつかり合う。私も夫も、声を荒げ、近所迷惑気にせずに、戦い続ける。犬も食わない夫婦喧嘩は徹夜で続くのだった……。
「はぁ…はぁ…」
「…はぁっ…はあっ」
息切れを起こしつつ、私も夫も電池が切れたかのようにどっと椅子に座り込んだ。肺には言葉を発するための空気はないに等しい。もう、限界だった。
「妥協は……したほうがいいみたいね……」
「……おう」
「取り敢えず…作ってから考えましょ…」
「…そ…そうだな……」
結局、一夜に及ぶねぎま論争は引き分けという形になった。いや、引き分けといってもこの幕引きだとまた勃発しかねない。けれどもう私たちには戦う気力なんてもうなかった。
いやこんなくだらないことになに一夜かけているんだろう。平静を取り戻すと、そんな心境に襲われた。
「私たち……今の今までなにしてたのかしら…」
「言うなっ! …それを言うな、俺も考えてたんだから…」
こうして二人の戦士は真っ白に燃え尽きた。大層くだらないことに。
朝日が店に入り込むと同時に、蝉が一斉に鳴き出す。もう朝はすぐそこまでやってきていた。私たちの事情を全て無視して、容赦なくやってきていた。
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